置いていかれる辛さを、僕は知っている
ギィ、という重い扉の音。
開いた先にあるのは、今は亡きエルドリッジの正妃アヴェラの部屋だ。
定期的に侍女の手が入り清潔に保たれているその部屋は、アヴェラの生前の時と何も変わらず。
けれどその部屋の持ち主だけが不在のまま、8年が経った。
「アヴェラ」
エルドリッジは、壁にかけてある肖像画に語りかける。もちろん、その呼びかけに応える声はない。
肖像画に描かれている人物は、フレアレッドの髪を高い位置で美しく結い上げた勝気そうな女性。
その髪の色も、吊り目がちのグレーの瞳も、愛娘エティエンヌと同じ。強い意志を感じさせる眼差しや、口元も。
「君がいなくなってもう8年になるよ」
絵を見上げたまま、エルドリッジがぽつりと呟く。
手に持っていた酒と氷の入ったグラスが、カランと音をたてた。
「色々とあった。君なしで上手くやってこれたとはとても言えないけど、僕なりに精一杯頑張ってみた。でも・・・」
君がいなくても大丈夫なんて、まだまだ言えないな―――
アヴェラが好きと言った笑顔を浮かべてみせようと無理に口角を上げてみるけれど、上手く笑えている自信はない。
政略結婚で、王国の慣例に従って12歳の時には決まっていた相手で。
小さい頃は、気の強いアヴェラに泣かされたり、困らされたり、いろいろと振り回されたりもした。
恋愛感情などすぐに育める訳もなく、随分とぎくしゃくした時期もあったけれど。
「結局、婚姻の儀の前には、君への気持ちが育っていたんだよね・・・」
それはアヴェラ、君もだったと信じたい。
結婚してから見せてくれる様になった恥じらう顔や、照れた顔。怒ったり膨れたりする以外のエルドリッジだけに見せる表情に、独占欲と優越感を覚えた。
エルドリッジよりもよほど元気で快活で行動的だったアヴェラが、まさか自分よりも先に逝くなんて、エルドリッジは想像もしていなかった。
『ほらね、だからエルはお馬鹿だって言ってるのよ』
悪戯を仕掛けられ、まんまと騙されるたびにアヴェラはそう言って笑った。いや、あれは高笑いに近いかもしれない。
あれこそエティエンヌの言うところの『悪役令嬢』っぽい笑みだとエルドリッジは思う。
「・・・本当、最初から最後までアヴェラには振り回されっぱなしだったなぁ・・・」
肖像画の中の、王妃の微笑みを浮かべるアヴェラ。
その表情は、エルドリッジのよく知る彼女の素顔とは全く違っていて。
けれど、それは公の顔というだけで、これもまたアヴェラ本人であることには違いないのだ。
「ルシーはね、最近よく笑うようになったんだよ」
グラスを傾けながら、エルドリッジは絵の中のアヴェラに語りかけた。
彼女が産んだ、エルドリッジとの間の4人目の子。
けれど産褥期の経過が悪く、アヴェラはそのまま床に伏しがちになって。
数えるほどにしか赤子をその腕に抱けないまま、1年後には儚くなってしまった。
その後はもう怒涛のように過ぎて行った。
喪失感に浸る間もなく妃の分の公務執務も担い、残された子どもたちに配慮を示さなければと時間を捻り出し・・・けれど、結局はちゃんと出来ていなかった。
だからルシアンは空気の様に静かな子になり、オスニエルやシルヴェスタは母によく似たエティエンヌへの態度を拗らせ始め・・・
「情けないけど、あの時、エチが突然『ここは物語の世界なの! 私は修道院に逃げます!』って僕の部屋に飛び込んでこなかったら、僕らの家族の形はとんでもなく歪のままだったんだろうね」
昔の様に明るい笑顔を見せるようになった娘や、ここ最近は自然体で頑張れる様になった嫡男、本音を言える様になった次男や三男を思い、恐れていた未来が遠のきつつあると―――信じたい。
そう信じさせてくれる存在が、今はこの王城にいる。
21も年の離れたエルドリッジに惚れてみせるという妙な決意で、魔女の惚れ薬を持って嫁いだ来た子。
「仮初だけど、君に黙って側妃を持っちゃってごめんね。でも、とってもいい子なんだよ。穏やかで優しくて気が利いてさ」
あの子が笑うたび、エルドリッジは複雑な気持ちになる。
嬉しくて、ほっとして、気にかかって、心配で、守ってあげたくて、でも。
いつかは手を離さなくてはいけない子。
「・・・アヴェラ。君が生きていたら、『エルのお馬鹿』ってきっと僕を笑うんだろうな。いや、それとも背中を思いっきり叩くかな」
どっちでもいい。
笑われても、背を叩かれても。
「君に会いたいよ」
置いていかないでくれるなら、何をされてもよかったのに。
「ねぇ、アヴェラ。今日、知らせが入ったんだ。神殿の裏手の森で、光の柱が立ったって」
肖像画の妻は、微笑んだまま何も答えない。
「・・・アヴェラ、僕は上手くやれるかな」
飲みほしたグラスの中、残っていた氷が小さな音を立てる。
「上手くやれるかな、じゃないよね。必ず上手くやるんだ」
そう。
そうしたら全てが丸く収まる。
オスニエルもエティエンヌもシルヴェスタも、ゼンだって。
そうしたら、僕は。
置いていかれる辛さを知っているから。
置いていく人を増やしたくないから。
だから、この件が解決したら―――




