ジュヌヴィエーヌの拠り所
ガタン、ガタン、と揺れる馬車の中、ジュヌヴィエーヌはそっとドレスのポケットに手を当てる。
先ほどからずっと無意識に繰り返している行動。故にジュヌヴィエーヌ本人は、もう幾度となくドレス越しにそれに触れては溜息を吐いている事に気づいていない。
ポケットの中にあるのは、ジュヌヴィエーヌが迷いの森の魔女、オディールに依頼した秘薬の小瓶。
ジュヌヴィエーヌにとって今やお守りのようなそれは、出立の2日前、なかなかにカラフルな鳥が運んでくれたもの。
首にかけられたひも付きの袋の中、丁寧に布に包んで入れられていたのだ。
初めは何かとんでもないものを対価に求められるのではと心配したジュヌヴィエーヌだったが、オディールが要求したのは普通にお金だった。
しかも、ジュヌヴィエーヌの個人資産の中からでも十分に賄える程度の額。
『あなたみたいな子から、むしり取れないわよ。あ、お金は届けに行く子の持ってる袋に入れてくれればいいわ』
そう言ってしっしと手を振ってジュヌヴィエーヌを魔女の家から追い出したオディールは、もしかしたら人の好い魔女なのかもしれない。
上手く自分の気持ちを言い表せず、ぽつりぽつりと、まるでしたたる水滴の様にゆっくりと溢れていくジュヌヴィエーヌの言葉を、魔女は一度も遮らなかったから。
『あなたの願いが叶うように、その薬には、ちょっとしたおまじないをかけておいてあげる』
そして最後にはそう言って、長いまつ毛をバサバサと―――まあ、要はウインクをしてみせた。
思っていたよりもずっと親切で、個性的な魔女。
出国したらもう会う機会もないのだと思うと、ジュヌヴィエーヌは少し残念に思った。
移動する馬車は5台編成。
ジュヌヴィエーヌが乗っている馬車の中には、他に世話役の侍女が一人乗っているだけ。
その侍女も、移動で疲れているのか今は眠っている。
護衛たちは交代制で馬に乗って馬車の周囲を並走しており、家を代表してこの旅に同行している兄も、今は馬車ではなく馬で護衛たちに交ざっていた。
窓から見える景色は、木々の緑一色だ。
今は一つ目の国境にさしかかった所で、山越えの最中だから木しか見えなくて当然なのだが、馴染みのない景色に囲まれている事に、ジュヌヴィエーヌは寂しさを覚える。
生まれ育った国ともこれでお別れなのだ、とそう思ったから。
―――そして。
「ファビアンさまとも、二度とお会いすることはないのね・・・」
遠ざかっていく故国に、ジュヌヴィエーヌはぽつりと呟いた。
側妃の立場では、国家行事であっても表に顔を出すことはない。
だから、ファビアンが国王となり、外交でアデラハイムを訪れる事があるとしても、もう二度と彼に会う事はないだろう。
いずれ彼の妃となるマリアンヌと会う機会も。
それに少しほっとしている自分がいることに、ジュヌヴィエーヌは敢えて目を逸らした。これ以上、惨めな気持ちにはなりたくなかったからだ。
これからジュヌヴィエーヌは、アデラハイム王国の人間になる。
側妃ならば結婚式を執り行う事もないだろう。即日後宮入りとなる筈だ。
これからの自分の務めは、後宮で暮らし、年の離れた国王陛下を陰ながら支えること。
正妃が既に亡くなっているから、執務などの手伝いはあるかもしれない。
それに、確か末の王子は8歳と聞く。ならば子どもの教育にも携わるのだろうか。
「エルドリッジ国王陛下は人格者だから安心するようにとお父さまは仰っていたけれど・・・」
そう言われて素直に安心できるほど、ジュヌヴィエーヌは世間知らずではない。
一つ国を跨いだ異国に嫁ぐのだ。知っている人も頼れる人も、誰ひとりいない国に。
「もしも陛下に愛されなかったら・・・ううん、そんな事を考えなくて済む様に、魔女の秘薬を貰ったのよ。大丈夫、これがあれば・・・」
ジュヌヴィエーヌは再びポケットへと手をやった。
今度は意識的に。
そう、それは何もかもを失った今のジュヌヴィエーヌの、たった一つの拠り所。
心の支えである恋の秘薬だ。