彼は密かに特訓中
ある令息の朝は早い。
何故なら、彼は朝食前にとある訓練をしているからだ。
顔を洗い、着替えをした後、彼は引き出しからぶ厚い紙束を取り出す。
そして一つ一つを読み上げるのだ。
「やあ。今日はいい天気だね」
「風が気持ちいいね。少し散歩しないか」
「これ、君に買ってきたんだ。良かったら後で食べて」
「その色、とても似合っているよ」
「今日もとても綺麗だ」
「暫くぶりだけど、元気だった?」
「美味しい菓子を取り寄せたんだ。一緒に四阿でお茶を飲まないか」
パラリパラリと紙をめくりながら、彼の読み上げは続く。
用意したフレーズ集は多岐に渡り、読み上げるだけで30分は軽くかかる。
最後まで淀みなく言い終える事が出来た彼は、満足そうにうむ、と頷き、紙束を引き出しに戻す。
今度は、何も見ないで自然に言う練習だ。
鏡の前に立ち、微笑みを浮かべる。
「そのドレス、素敵だね。よく似合っているよ」
すらりと言えたが安心してはいけない、ここからが本番だ。
想定すべき相手を思い浮かべなければ、きちんとした練習にならない。
彼は暫く目を閉じ、それから開き、鏡に映る自分ではなく、イメージした相手がそこにいるかの様なつもりになって口を開くが―――
「・・・そ、その・・・ドレス・・・素敵だ、ね。似合って、ている、よ・・・」
彼は額に手を当て、その場にしゃがみ込む。
「・・・はあ、情けない」
先ほどまでスラスラと言えていた台詞が、相手の姿を思い浮かべた途端にこれである。
「いや、ここでヘコタレては駄目だ。大丈夫、前よりずっと流暢に言える様になっている・・・気がする」
彼は再び立ち上がり、鏡の前で姿勢を正す。
眉目秀麗、成績優秀、性格は至って真面目。
しかも彼の父はこの国の宰相で侯爵位にあり、嫡男の彼は将来の地位も権力も約束された男だ。
だが、彼は好きな女の子の前ではろくに言葉も発せなくなる。
ただの幼馴染みで、親友の妹にすぎない筈だった彼女を意識し始めたのは、いつだったか。
まだやんちゃをしていた頃、そう彼がまだ8か9歳の頃だった。
いつもの様に、親友とその弟妹たちと一緒に遊んでいて、庭の木に登ろうとした。
けれどうっかり足を踏み外して、無様に落っこちて。
大した高さでなかったのが幸いだった。ちょっと、かなり痛いくらいの尻もちで済んだから。
『・・・っ、大丈夫?!』
そう言って覗き込んできた彼女の顔は思いの外近くて。
彼は理由も分からず息を呑んだ。
さらさらと彼女の綺麗な赤い髪がこぼれ落ち、彼の鼻腔を甘い香りがくすぐった。
心配そうにじっと見つめる目はちょっと潤んでいて、何故か急に胸が苦しくなる。
そっと伸ばされた手は、彼の頬を気遣わしげに撫でて―――
『・・・っ!』
気がついたら、その手を勢いよく払いのけていた。
『え・・・?』
こぼれた驚愕の声は彼のものか、それとも彼女だったか。
まん丸に見開かれた綺麗なグレーの瞳をそれ以上は見つめ続けることが出来ず、彼はサッと顔を背けた。
それからだ。
彼女の顔をまともに見る事が出来なくなったのも、挨拶すらろくに言えなくなったのも。
でも大丈夫、と、そう思っていた。
彼女の兄弟たちは彼の気持ちにすぐに気づいた様で、呆れ顔をしながらも応援してくれた。
それに、彼と彼女は遠からず婚約する予定で。
だから大丈夫、そのうちちゃんと話が出来るようになるから、そう思っていた。
けれど、あの日。
親友の婚約者候補を選ぶ為のお茶会で、彼女は倒れ―――
彼と彼女が婚約するという話はなくなった。
『どうしてですかっ?!』
『今のまま婚約しても、不安しかないからだよ』
驚き、怒り、父に詰め寄った彼は、信じられない様な話を聞かされた。
―――自分が将来、婚約者となった彼女を厭い、蔑ろにし、他の女性に心を移し―――
『・・・っ、断罪に、加担・・・』
『お前たちに限ってあり得ないと、言い切りたいところだが・・・』
現状、彼と、そして彼の恋を応援してくれていた彼女の兄弟たちは、彼女との関係がギクシャクし始めていた。
『不仲の兆候が現時点で見られる以上、このまま話を進めて良い方に転がると安易に期待出来ない』
理詰めの話を好む彼の父らしい答えは、彼を打ちのめした。
『そんな事はしない、そんな未来にはならない、と言いたいのなら、証明してみせる事だ』
彼の父はそう言って王城に戻って行った。
彼は打ちひしがれたが、立ち直りも早かった。
幸い、彼の代わりの婚約者が当てがわれた訳でもない。
まだチャンスは残っている。
彼は、何故か彼女を前にすると上手く働かなくなる舌を何とかすべく特訓を開始した。
それから約6年―――
辛うじて挨拶くらいは普通に言える様になった彼は、更なる進歩を目指して今日も励む。
「断罪などするものか」
そう決意を固める彼は、侯爵令息ゼン・トリガーである。