王太子ファビアンは気づかない
マルセリオ王国の王城敷地内にある鍛錬場で、カン、カン、と金属音が交わる音が響く。
王太子ファビアンが、王国騎士団の団長セオドア・ルッツフェルと鍛錬で剣を交えているのだ。
もちろん使用しているのは、刃を潰した鍛錬用の剣だ。
やがて打ち合いの音が止み、片方の壮年の男の方―――ルッツフェル団長が声を上げる。
「今日はここまでにしましょう」
彼の声を受け、ファビアンは持っていた剣を駆け寄ってきた従者に渡し、代わりに手拭いを受け取った。
その手拭いで、ファビアンは汗で額に張りついた前髪をかき上げるように乱暴にゴシゴシと擦る。
ハ二ーブラウンの髪が、彼の手の動きに合わせて前後に揺れた。
「やはり体を動かすのはいいものだな。どうも机仕事は苦手だ。俺にはこうして剣を振っている方が合っている」
「殿下は剣の才に優れておられますからな。王太子という重責ある立場でなければ、次の騎士団長の座をお願いしたい程です」
「ははっ、それは光栄だが受けられんな。残念だ、俺としては王よりもよほどそっちの方が性に合っていたろうに」
ファビアンは、ルッツフェル騎士団長の世辞にからからと笑った。
「汗を流したら、マリーに会いに行く」
王城の自身の私室に戻る道すがら、ファビアンは後ろを歩く従者と専属の護衛騎士に告げた。
「段々と妃教育が本格的になってきた様でな、マリーが辛そうにしている。慰めてやらねば」
「それがいい、きっとマリアンヌも喜ぶぞ。王城での生活は、風の様に自由なマリアンヌにはキツいだろうからな」
幼馴染みで学園でも同級だったテオは、今は専属護衛としてファビアン付きとなっている。
王太子にも平気で親し気な口調で話しかけるが、それは他ならぬファビアンから許可された事だ、咎める者は誰もいない。
「マリーは俺の為に頑張ってくれているのだ。本当に健気な子だよ」
「ああ、お前の事を一途に慕っている。大切にしてやってくれ」
「当たり前さ。マリーは俺の唯一だ」
テオは、学園でのあの特別な時間をファビアンたちと共有した一人でもある。
自身もマリアンヌに恋心を抱きつつ、2人の恋をずっと応援してきた。
故に、彼らの絆は固い。
邪魔者がいれば、団結して躊躇なく追い払うだろう。実際、彼らはそうして来た。
「しかし良かったよな」
そんなテオがふと、ある事を思い出し呟いた。
「何がだ?」
「ジュヌヴィエーヌ嬢の件さ。上手く解消に持ち込めて、お前もほっとしただろ? 変に縋られるんじゃないかってオレたち皆、心配してたんだぜ? 大っぴらに婚約破棄を言い渡さないとムリかもって」
「・・・まあ確かに、思っていたよりもあっさりと引いたのには驚いたな」
ファビアンの中のジュヌヴィエーヌ像は、融通が利かず、真面目で面白みがなく、いつも本ばかり読んでいる陰気臭い女だ。
王太子妃教育に必死に励む姿は、そこまで妃という立場に執着するかといっそ憐れに思えた。
会って同じテーブルで茶を飲んだとて、会話が弾んだ事など一度もない。
送られてくる手紙も形式ばった定型文に終始していて、何の愛想もなかった。
無視しても一方的に手紙を送り続ける執拗さと無神経さに呆れ、これが未来の王妃になるのかと不安しかなかった。
確かに容姿は美しかったかもしれない。だがそれだけだ。
見ている人全てを幸せにする、マリアンヌの太陽の様な微笑みは、ジュヌヴィエーヌには一生かかっても真似出来ないだろう。
そう、ジュヌヴィエーヌとマリーとでは雲泥の差だ。
マリーは可愛らしく、健気で、頑張り屋で、男を立てる事を知っている。
マリーといると気分が高揚し、気力が湧き上がる。なんでも出来る様な、そんな万能感を得られる。
いや実際、ファビアンはマリーさえいれば、なんでも出来るのだ。
彼女こそがファビアンの力の源なのだから。
―――だが。
「・・・頭だけなら、あれも使い道があったかもしれないな」
きっと今頃は、恥ずかしさに耐えきれず、領地にこもっている事だろう。
可哀想だから、どこかで使えないか考えてやっても―――
「ん? ファビアン、何か言ったか?」
軽く水浴びをし、急いで身支度を整えて出てきたファビアンは、つい考えていた事をぽろりと漏らした。
それを聞き損ねたテオが、不思議そうに問い返す。
「・・・いや、なんでもない。マリーのところに行くぞ。きっと授業で疲れている。休憩を取る様に言ってあげないと」
「そうだな。教師たちはマリアンヌの負担も考えずに詰め込もうとするから困ったもんだ」
「今日もお茶に誘ってやろう。マリーの為に、王都の有名店の菓子を取り寄せてあるんだ」
「さすがファビアン。きっと喜ぶぞ」
ファビアンは機嫌良く笑う。
彼の頭の中では、2年後の結婚式までの完璧なスケジュールが既に出来上がっている。
そのどこにも穴はない。
―――王城にマリアンヌの為の部屋を用意し、居を移してから漸く始まった王太子妃教育はひと月目。
王太子たちの善意の気晴らしや休憩の誘いによるものか、はたまた他に要因があるのか。
定められた科目のうち、その一つとしてまだろくに始められていない。