側妃となり、義母となり
サラサラとペンの音が走り、一枚の書類が完成した。
整った書体のエルドリッジのサインに並ぶのは、ジュヌヴィエーヌの名前。
ハイゼンとして名を書く最後の機会となったこの書類は、2人の婚姻誓約書だ。
本日、ジュヌヴィエーヌは正式にエルドリッジの側妃となった。
側妃という立場ゆえ、大掛かりな式もお披露目もない。
公務などで民の前に出る事もない。
そして一部の関係者しか知らない事だが、閨もない。
2人がそんな形式上の夫婦である事は、エルドリッジの4人の子のうち、末子のルシアンを除く3人が知っている。
そして知っているが故だろう、エティエンヌの上と下、兄弟2人の反応は少々微妙なものであった。
「俺と一歳しか変わらないのだから、義母とは呼ばないぞ。却って失礼な気がするし」
こう言ったのは第一王子オスニエル。
「オス兄さん。その通りだとは思うけど、だったらなんて呼んだらいいのかな。ジュヌヴィエーヌ嬢とはもう呼べないよ?」
と聞いたのは第二王子シルヴェスタだ。
「あら、オス兄さまもシルも、私の呼び方を真似すればいいじゃない。ジュジュって音が可愛いし、とても呼びやすいのよ?」
これは勿論エティエンヌで、その意見は即行で却下された。
愛称呼びは、お年頃の2人には恥ずかしいらしい。15歳と12歳の多感な少年たちは、顔を赤らめながら、必死で首を左右に振った。
なんだかんだと話し合った結果、ジュヌヴィエーヌと呼び捨てにする事でまとまった。
ちなみにエルドリッジだけは「折角の機会だから」と偶にジュジュ呼びをするつもりでいる様だ。
「あの、お義母さまと、呼んでもいいですか?」
さて、兄たちより少し遅れて挨拶に来たのは、8歳になる末子ルシアン。
可愛らしく首を傾げ、ジュヌヴィエーヌを見上げながらそう聞いた。
正妃アヴェラはルシアンが生まれた一年後に亡くなっている。
だからルシアンは、ようやく「おかあさま」と呼べる存在が出来た事が嬉しくて堪らないのだ。
頬を紅潮させ、もじもじしながらお伺いを立てる様は、とってもとってもと~っても愛らしく、見ている者たちの胸をドキュンとさせた。
それと同時に、罪悪感でツキンともなる。
そう、ルシアンに内緒なのは、彼の年齢を考慮しての事もあるけれど、一番の理由はこのはしゃぎっぷりにあった。
内情を打ち明ける前に大喜びされてしまい、今さら「本当はね」と言い出しづらくなったのだ。
ならば、せめてジュヌヴィエーヌの本当の結婚が決まる日まで、という意見で落ち着いた訳だ。
いつかジュヌヴィエーヌが恋をして下賜の話が持ち上がるとしても、それはまだずっと先の話になる。
少なくとも3年は側妃のままで、とエルドリッジからは言われているのだ。もちろんそれはジュヌヴィエーヌの事情によるもの。
『マル花』からの単純計算になるが、ファビアンがジュヌヴィエーヌを側妃に召し上げるのが、マリアンヌの王太子妃教育に失敗する2年後。
マルセリオが横槍を入れやすくなる時期は避けたい、という事で、余裕を持たせて最低3年とした。
さて、3年後ならルシアンは11歳。
今よりは裏の事情を理解する余裕も出来るだろう、というのがエルドリッジの希望的見解だった。
『それまでは、申し訳ないけれど、ルシアンの母・・・いや、姉のつもりであの子と接してやってはくれないか?』
そう頭を下げられ、こちらこそ助けられた身なのに謝られるなんてとんでもない、とジュヌヴィエーヌは恐縮しつつ了承した。
そういう理由で何も知らないルシアンは、期待をはらんだ目でジュヌヴィエーヌを見上げ、彼女からの返事を待っていた。
ジュヌヴィエーヌは、マルセリオでの王太子妃教育で身につけた慈愛の微笑みを浮かべ、ルシアンに手を差し出した。
「もちろんですわ。よろしくお願いしますね、ルシアンさま」
「っ、お、お義母さま。ぼくの事はただルシアンと呼んでください。親子なのですから」
「まあ、そ、そうでしたね。では、ルシアン」
「はいっ」
ルシアンから真っ直ぐに向けられる好意に、思わずジュヌヴィエーヌも照れてしまう。
2人兄妹のジュヌヴィエーヌは、実はずっと弟か妹が欲しかったのだ。
「あの、お義母さま。ぼく、お庭を案内します。一緒にお散歩しませんか?」
ルシアンは差し出された手を握り返し、輝く笑顔で早速の母子の団欒を提案した。
もちろんジュヌヴィエーヌに否やはない。
「私、お花は大好きなの。嬉しいわ、ルシアン」
「は、はいっ。あの、こちらです」
2人は手を繋いだまま、仲の良い姉弟さながら、庭へと繋がる回廊を歩いて行く。
「・・・」
「・・・」
この時、ジュヌヴィエーヌの微笑みに思わず頬を染めたのは、実はルシアンだけでなく。
「あらまあ、これはお父さまも、いつまでも余裕の顔をしてはいられないわね」
そんな兄弟3人の様子を、エティエンヌはひとり、面白そうに眺めていた。




