すーちゃん
すーちゃんは、このスーパー唯一のオアシスと言ってもいい。スーパー内の複雑な人間関係から、超越した存在だ。その領域には、佐藤さんも手出しができない。
彼女の仕事は、ポップを書くことだ。ポップとは、小さな紙に、商品名や値段が書いてある、あれである。スーパーにあふれる文字は、すべて彼女の手によるものだ。
すーちゃんの書く独特の丸文字は、「すーちゃん文字」とスーパー内で呼ばれ、女性社員や女性パート・アルバイトたちの憧れの的だった。彼女の字はこぞってマネされた。すーちゃんを先生にして、
「すーちゃん文字講座」なるものが不定期に開かれるくらいの反響ぶりだった。
美香も、ひそかにすーちゃん文字を練習したのだが、どうしても角ばってしまう。そのことをすーちゃんに相談すると、「美香ちゃんらしい。文字は人をあらわすって私は思ってて。美香ちゃんの字は、几帳面で奥ゆかしくて、いい」と、美香の字をこちらがこそばゆくなるくらい、褒めちぎってくれた。
すーちゃんは、いつも休憩室の隅のほうで、朝から紙にマジックで、ポップを書く。来る日も来る日も。
縄張りである休憩室の前を誰かが通るたび、彼女は机に覆いかぶさっていた大きな体をむくっと起き上がらせ、
「おはようございます!」
「こんにちは!」
「お疲れさま!」
と、かならず元気よく挨拶をした。よく通る彼女の声は、人を無条件に明るくする、魔法のような力があった。
それにすーちゃんはよく人の相談に乗った。彼女のおおらかな性格は、相談相手にはもってこいなのだ。どんな難題も解いてくれそうな安心感がある。彼女の大きな体も、その一因かもしれない。その森のようなフォルムは、人を落ち着かせる大きな癒し効果があった。
すーちゃんがこのスーパーに来たのは、美香が勤めはじめてから、すぐのことだった。美香と同時期に入った同僚は、転職や結婚やらで、もうこのスーパーにはほとんどおらず、美香とすーちゃんはほぼ同期と言ってもいい。彼女がスーパーになじむのはとても早く、先に入った美香のほうがなじむのが遅かったくらいだ。
「美香ちゃんって、何座?」
すーちゃんが、美香に話しかけた最初の言葉。美香は、そう聞かれたとき、固まってしまった。いきなり星座を聞かれたのもそうだが、下の名前で呼ばれる機会がめったにないので、どう反応していいかわからなかったのだ。
「・・・みずがめ座」
「そうなんだ。いきなりごめんね。わたしいつも突然で。悪気はないの、許してね」
すーちゃんは、大きな体を小さくして謝った。いきなり下の名前で呼ばれるのは、嫌悪感を抱くだろうなと思っていた美香だったが、すーちゃんに呼ばれるのは、そう悪くないと思った。
いい人か悪い人かは、第一印象でなんとなくわかる。そういう機能が人には生まれながらに備わっている。
すーちゃんは、十人が十人、いい人であろうと判断する見た目と性格を持っていた。一方、美香は、すぐに判断がつきづらい。悪い人ではなさそうだ、という判断はすぐつくかもしれないが、美香の引っ込み思案な性格が災いして、それから先の判断に必要な情報を相手に与えないので、評価は保留状態になってしまう。美香は、どちらかというと、スルメのように噛んで噛んで味がでるタイプだ。つまり、仲良くなるまでに時間がかかる。
そんな美香を表から、陰から助けてくれたのがすーちゃんだった。
働く部署は違えど、美香をこのスーパーになじませてくれたのは、すーちゃんの力があったからこそだ。彼女のアシストのおかげで、スーパーの一員として認められている。美香は、すーちゃんには頭が上がらない。
おおらかで、どっしりとした性格を持つすーちゃんは、美香の憧れだった。自分に持ってないものは、キラキラと輝いて見える。
ある日の仕事の帰り。
美香は、思い切って、すーちゃんをご飯に誘った。すーちゃんもその頃は独身で、すぐにいいよと返事をくれた。といっても、美香は行きつけのお店もないし、外食もほとんどしないので、人を連れていくようなお店を知らなかった。そのことを正直に打ち明けると、すーちゃんは豪快に笑って、「私の行きつけの居酒屋でいい?」と美香の目を覗き込んだ。
「すいませーん。生ビール、もう一杯」
すーちゃんの飲むペースは、美香の二倍いや三倍のスピードだった。そんなことはありえないのだが、下手すれば、店の酒類を全部飲みほしてしまうのではと、心配になるくらいの勢いだった。かなりの酒豪。美香も、そこまでお酒は強くないが、すーちゃんの勢いにつられて、飲むペースが速くなった。
お酒が入って、顔がりんごみたいに赤く染まったすーちゃんは、機嫌よく笑っている。見ているだけで、人を幸せにしそうな力が彼女にはあった。
「ところで、今日なんでわたし誘ってくれたの?」
すーちゃんが焼き鳥の串から、豪快に鳥皮を口で引き抜き、ある程度咀嚼し終わると、美香に尋ねた。
「いや、大したことじゃないんだけど」
美香の悪い癖だ。すぐに否定から入ってしまう。
「全然、大したことじゃなくてもいいよ」
すーちゃんは、おおきく笑った。
「どうして、すーちゃんはそんなに明るいの?」
「えっ?わたし、明るいかな」
「うん、十分」
「そっかぁ」
すーちゃんの反応は意外だった。自分で明るさを自覚してないことなんてあるのだろうか。
「わたし、昔からこうじゃないんだ。なんならもっとおしとやかだったよ。自分で言うのもなんだけど」
「・・・そうなの?」
「うん。図々しくなった。なんだか疲れちゃって、もう嫌われてもいいやって投げやりになったら、こんなふうになっちゃった」
すーちゃんは、膨れたお腹をポンと叩いた。
「わたし、こう見えてお嬢様だったんだよ。見えないでしょー」
美香が首を目一杯振ると
「いいの、いいの。美香ちゃんはやさしいねぇ。わたしね、昔は人の目ばっかり気にして、全然ダメ。自信もないし、自分の嫌なところばかり目がつく最低な性格だった」
すーちゃんの顔は、ちょっとだけ暗くなった。
「ごめんなさい、なんか嫌なこと思い出させちゃった?」
美香は、あわてて、早口で言葉を挟む。
「嫌なことか・・・。ううん。この際だから全部話す。いや、話したい」
すーちゃんは、ビールのおかわりを店員さんに頼んだ。
「わたし、さっきも言ったけど、最低な性格で、直したい、直したとずっと思っていたときに、あるブログを読んだんだ。素人のね。書いている人は、たぶんわたしとおんなじような性格。暗いでしょ?」
すーちゃんは、運ばれたビールを、勢いをつけるようにぐびっと飲む。
「そのブログに、こう書いてあったの。嫌われまい、嫌われまいと意識しすぎるから、どんどん自信がなくなっちゃう。もう嫌われてもいいやって、思えたら前向きになれるよって。当時のわたしには、その言葉が目からうろこで。ほんとう、目の前がパアっと明るくなった」
すーちゃんは、そこまで話終えると、のどの渇きを潤すように、一気に余りのビールを飲み干した。
「だから、わたしの信条ってやつは、「嫌われてもいい。自分の気持ちに従う」なんだ。あれっ、なんだか恥ずかしい」
美香は、すーちゃんにそんな過去があるのを意外に感じた。てっきりすーちゃんは、昔からクラスの中心で、人気者だと思っていたのだ。
「美香ちゃんって、ちょっと変わっているよね。なんだろ、捉えどころがないというか」
首から上を真っ赤にしたすーちゃんは、自分の恥ずかしさを隠すように、急に話題を変えた。
「えっ」
「ごめん。話が急に変わるのは、私のクセだから許してね。それで、正直に言うとね、美香ちゃんって、電柱の影に隠れるみたいなところあるじゃない?」
「・・・うん」
「別に悪口じゃないよ。でも、美香ちゃんはそれだけじゃないというか・・・」
すーちゃんは、腕組みをして、天井を見上げた。ふさわしい言葉を選んでいるらしい。
「そうだ、感性だ。すくなくても、大勢の人の感性とは、違っている。マイノリティって言うのかな。そこが美香ちゃんのいいところでもある。それにそういう感性って、大事にしたほうがいいよ。私は結局、凡人だったけど、美香ちゃんには底知れぬ可能性を感じる」
すーちゃんは、ひとりでうんうんとうなずくと、トロンとした目を美香に向けた。そして、
「うん。絶対に大事にしたほうがいい」
と、念を押した。すーちゃんはだいぶ酔いが回ったらしい。へべれけになりながら
「人は自然に変わるときが来るんだ。わたし、そう思っている。どこまで行っても、わたしはわたしにしかなれないし、美香ちゃんは美香ちゃんにしかなれない」
すーちゃんはそう言うと、酔っぱらった、酔っぱらった、と独特のリズムで腕をひらひらと空中で動かした。その謎の踊りが、面白くて愉快で、美香はクスッと笑った。
すーちゃんとの食事は、ほんとうに気分が明るくなる。美香もかなりすーちゃんにつられて笑った。
すーちゃんは、人は自然に変わるときが来ると言った。自分にもそんなときが来るのだろうか、美香は、半信半疑ながらも、その言葉をそっと胸にしまった。
朝、出勤すると、いつもの場所に、いつもの笑顔で、すーちゃんがいた。相変わらず人を落ち着かせるオーラを漂わせている。そんなすーちゃんも今では、五歳の男の子の母だ。すーちゃんの子どもなら、まっすぐないい子に育つに違いない。
「どうしたの?」
すーちゃんが、立ち止まっている美香に向かって、心配そうに声を掛けた。
「いや・・・ううん。今日も元気だね」
「当たり前、それ以外に私の取り柄はないかからね」
すーちゃんは力こぶをつくる仕草をしながら、
「美香ちゃん、今日も頑張ろう」
スーパーの仲間うちで、すーちゃんだけが唯一呼ぶ、「美香ちゃん」。美香は、未だにそう呼ばれる
と照れくさいのだけど、すーちゃんにそう呼ばれるだけで元気が出てくるから不思議だ。