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左手の黄色い花  作者: 土方悠旗
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理不尽なお客さん

夕方のスーパーは、人でごった返す。


美香がパートをしている、マルキュウスーパーは、駅に近く、仕事帰りのサラリーマンや主婦、近所の小学生、おじいちゃん、おばあちゃんまで幅広い年齢層のお客さんがやってきた。


美香は、レジに入ると、営業スマイルを振りまきながら、お客さんに応対する。


最初の頃は、ぎこちなかった笑顔もすっかり様になった。研修期間で、さんざん笑顔の練習をさせられたのだ。普段、大笑いすることのない美香にとって、笑顔の練習は試練であり、多少の苦痛を伴った。笑えと言われて、笑うことは初めての経験だった。


教育担当の社員さんに、「田所さん、そんな緊張しないでいいんだよ」と何度言われたことか。


あのときは、家に帰ってからも、必死に笑顔の練習を繰りかえした。鏡の前で、口角を指で引き上げながら、無理やり笑顔をつくった。気持ちが入っていない笑顔は、すこし不気味だ。頬も筋肉痛になることを、美香は初めて知った。


どれだけの期間、表情筋を使っていなかったのだろうか。この数年間を思い出すと、胸がきゅっと締め付けられる。


子どもの頃から、おとなしかったのもあるけど、そのときはまだちゃんと笑っていた気がする。心の底から。感情と表情筋は、素直につながっていた。大人になるということは笑わなくなることかもしれない、美香は本気でそう思っていた。


このスーパーに来てから、もう何年も経つが、美香の日常は平穏そのものだ。


会社を辞め、しばらく自堕落な生活を送ったあと、美香はマルキュウスーパーにパートとして採用された。不安しかないなかで、面接に来たことをいまでも思い出す。スーパーの入り口の前に来ると、急に動悸がして、すぐに駐輪場の隅に走り、深呼吸を繰り返した。買い物客が、訝しげに美香を遠巻きに見る。恥ずかしさなどはどうでもよくて、とにかく自分の弱い心と闘うのに必死だった。


お前は役立たずだ、そんな声が頭から響いてきて、美香はしきりに首を振り、その声を追い出そうとした。


面接の日の記憶はそこまでしかなくて、ちゃんと採用担当者と会話できたのかも怪しい。しかし、何が良かったのか、はたまた猫の手も借りたいくらいの人手不足だったのか、美香はすんなりと採用された。

 

久しぶりの社会生活に、美香はひどく戸惑ったものの、いまでは、新人バイトの教育係を任されるまでになった。きょどりまくりだった、美香の過去を知る人はこのスーパーには、ほとんどいなくなった。彼、彼女らが今の美香の落ち着きぶりを見たら腰を抜かすに違いない。

 

レジの仕事は慣れてしまえば、あとは単純作業の繰り返しだ。どんくさい美香だが、繰り返すことはそこまで苦ではない。勤めはじめのころは、美香の動作がすこぶる遅く、よく怒られたものだが、いまでは、誰よりもテキパキと仕事をこなす。美香はレジが自分の天職かもしれないと、思ったこともあった。


最近は、頭で響いていた声も聞こえない。代わり映えはしないけど、平凡な日々が続くことを、美香は愛していた。変哲のない日常も、退屈どころか美香にとっては好ましいものだった。


「つつましく平穏に」


それが、美香の内なるスローガンだ。これさえ守られれば、ほかに何もいらない。


スーパーには、実に様々なお客さんがやって来る。いい人、悪い人、普通な人。たまに理不尽なお客さんもいたが、その都度美香は、完璧な笑顔を作って丁寧に対応した。


年月を経て、美香の笑顔もだいぶ板がついてきた。彼らは、自分の主張を聞いてほしいのだ。美香は、このことに最近気付いた。話を聞いてあげると、大抵の場合、その場は、丸く収まる。


笑顔とは、盾なのだ。


にこやかに笑っていれば、人はそうそう不快な思いはしない。


笑うことは、自分を守るため、店を守るための立派な防衛策なのだ。


同じパート仲間のあいだで、ジャイアンツと呼ばれているお客さんがいた。


いつも不機嫌そうで、年齢は、見た感じ、六十歳ぐらいだろうか。白髪交じりで、型が崩れたジャイアンツの古びた帽子をかぶり、いつも上下くすんだ茶色の服を着ていた。何着も同じ服を持っているのだろうかと、美香は思ったが、パート仲間が言うには、その一着しか持っていないということだった。


ジャイアンツが入店すると、店内に緊張が走る。青果売り場のアルバイトの子が、パートリーダーの佐藤さんのもとにいち早く駆け寄ってきて、一報を告げる。すると、佐藤さんは、レジ仲間に手を振り、合図を送った。「ジャイアンツ、来たり」と。パート仲間の間で、すでに打ち合わせ済みの合図だ。


ジャイアンツは、この店のブラックリストに名前が記され、最重要危険人物として、店内で情報が共有されていた。美香にとっても、関わりたくない一件だ。平穏な日常をなるべく壊してほしくない。しかし、美香はジャイアンツにそこまで嫌悪感はなかった。


トラブルには関わりたくはない。が、嫌われることの痛さを知っているからか、どうも他人事とは思えなかった。そういう人もいる、でいいじゃないかと思う。けど、間違ってもその意見を大っぴらにすることはない。


店長は、ジャイアンツの存在に、ほとほと手を焼いていた。いつだったか、美香がバックヤードでうなだれている店長に挨拶をすると、


「お・・つかれ」


と正気のない目で見上げてきた。


「どうかしました?」


と心配になった美香が問うと、


「あの理不尽なお客さんいるでしょ?対応どうしようかと思って」


店長は、どこまでも沈んできいきそうな深いため息をついた。パート仲間では、「ジャイアンツ」以外に「あいつ」とか「クレーマー」と呼ばれている現状を考えると、「店長の理不尽なお客さん」という呼び方には、育ちの良さが垣間見えて、美香は、すこしおかしかった。


ジャイアンツは、基本何も買わず、店員を捕まえては「○○はどこ?」と聞き、それに瞬時に答えられないと、烈火のごとく怒る。  


スーパーの店員たるもの、商品の位置を完璧に把握してないといけないという、まるで店長のような信条を彼は持っていた。もしかしたら、若い頃はどこかのスーパーで店長を務めていた経験があるのかもしれない。


美香は、妄想する。


ジャイアンツのスーパーは、地域に密着し、お客様目線に立った店づくりを心掛け、順調に成長していた。店の規模はたいして大きくないけれど、お客さんとの距離が近く、要望にできるだけ応える真摯さが、彼の店の個性だった。一方的に売り、一方的に買うという関係ではなく、物を介して、人が感じられるあたたかいお店だ。


つまり、売る側と買う側が、断絶していない。しかし、近くに巨大資本のチェーン店が進出してから、急激に風向きが変わった。ジャイアンツの店は、徐々に客足が遠のいた。さらに、不幸なことに、おりからの不況のあおりをうけ、もうどうにもいかなくなった。追い打ちをかけるように、そのチェーン店は、すさまじい値下げを断行し、ジャイアンツは、自分より大事なお店を泣く泣く閉めた。


唯一の生きがいを奪われたジャイアンツは、すっかり生きる気力を失った。けれど、スーパーに来ると、店長だったころの血がうずくのだ。もうこんな思いは誰にもしてほしくない、そんな悲痛な願いがジャイアンツを行動に駆り立てた。誰に頼まれたわけではないが、スーパーの今後のために、自分が憎まれ役になってやる・・・。


実際のジャイアンツのことは何一つ知らなかったが、そんな人生を美香は想像した。


美香の勝手な想像は、幾分ジャイアンツに肩入れしすぎている面があるものの、あながち間違ってはいないのかもしれない。それを裏付けるように、ジャイアンツのいままでの発言をひとつひとつ見ていくと、至極真っ当なことを言っている節があるのだ。それはスーパーの店員たるべき心得とでもいうのだろうか。いきなり怒鳴り散らすのはいけないが、すべては、このスーパーのためを思っての発言なのかもしれない。しかし、これはあくまで妄想だ。


ジャイアンツは、手を挙げるわけでもなく、万引きするわけでもない。意識的なのか、無意識なのか、警察が介入してこないギリギリのラインを突いた。


「いっそスーパーに被害あれば・・・」と店長はぼやいた。


そうすれば、警察もすぐに動く。しかし、警察も忙しいらしい。小さな町のスーパーに人員を割く余裕はないようだった。


ジャイアンツがこのスーパーにあらわれてから、しばらくして新たなマニュアルが作られた。


「ジャイアンツに何か聞かれたら、店長をすぐに呼ぶこと」

「ハキハキと返事をすること」

「曖昧な態度は、火に油をそそぐことになるので注意すること」


ジャイアンツもお客さんの一人であることに違いなく、入店拒否などの断固とした態度で迫ることもできず、かといって、このまま野放しにして、毎日のように店内で怒鳴られては、店の評判に関わる。その光景を見たお客さんはなんと言うだろう。あらぬ噂が広がり、あのスーパーは行かない方がいいわとなったら、それこそ死活問題である。


ジャイアンツが来る日には、ある法則があった。これは、パートリーダーである佐藤さんが発見したことなのだが、彼は決まって水曜日に現れた。その理由は定かではない。


パート仲間の間では、水曜日を休みにする人が多い。彼にはなるべく関わりたくないというのが、みんなの本音だ。しかし、みんなが休んでは仕事が回らないので、押しに弱い美香は、貧乏くじを引かされることも多かった。


それでも、会社員時代に比べると、ストレスはだいぶ軽減された。あの頃を思えば、ここは天国のようだった。

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