『トンガ海溝』 -10,882m
『 魚 安 駅 ( B10F : マリアナ海溝 : -10,924m )』
看板には、そう書かれており。
そして、その下には。
誰もが知っている、あの、深海魚の絵が、描いてあった。
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……俺……贄野 羔は、看板の前で、立ち尽くしていた。
海溝について詳しくない俺でも。
マリアナ海溝が、世界で一番深いことくらいは、流石に知っている。
そう。
これより以深は、存在しない。
……更に付け加えよう。
ここは、『魚安駅』である。
なので、俺は、ぼんやりと、予想していた。
「恐らく、地下11階の看板は、『マリアナ海溝』になる。
それに、『魚安駅』に因んで『魚偏』に『安』と書く、例の深海魚のイラストが、ラストを飾る形で描かれているんだろうな」
と。
しかし、俺の予想したそれは、実際は地下10階の看板であった。
多くの白骨死体が、騙された理由に、俺はやっと気が付く。
この看板を見れば、明らかだ。
そして、多くの人達は、この看板を、見なかったのだろう。
薄暗い中の、解りにくい場所。
それなりに疑って探索しなければ、まず見つからないはずだ。
そして、この看板の書かれていることを、俺なりに翻訳すると、つまり、こうなる。
『人間が到達していいのは、地下10階まで。
地下10階から地下11階へ進んでは、いけない。
地下11階は、罠だ』
「こひつじ~、まだ~?」
俺は我に返り、『5番』の階段へと視線を移す。
「はやく、おいで~」
地下11階……存在しないはずの階から、ひさげ あかりちゃんの声が聞こえてくる。
「あ、あかりちゃん、もうちょっと、待っててー!」
そう答えながら、俺は、ようやく、最後の最後の、今更になって。
あかりちゃんという存在が、『魚安駅』にいるという強烈な違和感に、やっと、気が付いた。
……どうする?
どうすればいい?
俺は、どこに進めばいい?
少し考えたが、ここは海底である。
ならば、地上へ戻ればいいのではないか?
いや、普通に戻っても、また最初からやり直しになるだけだろう。
じゃあ、どうすれば……。
……そうか、もしかしたら。
「こひつじ~、はやくきてよ~!
おなかすいた~!」
地の底から聞こえてくる少女の声には、少しだけ苛立ちが混じっていた。
「分かった、もう行くよ!」
そう言うと、俺は。
あかりちゃんを、置いて。
『5番』の階段を。
……上り、始めた。
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『5番』の階段を上った先には。
『 魚 安 駅 ( B9F : トンガ海溝 : -10882m )』
の文字が、あった。
以前俺は、簡単な検証を行い、いくつかのことを確認している。
即ち、正しくない階段を使うと、謎の力で強制的に1階に到達するが。
正しい階段を使うと、一般的な物理法則通りの結果になる、と言うものだ。
地下9階から地下10階に降りてきた階段は『3番』。
そして今、地下10階から地下9階に上ってきた階段は『5番』。
通常であれば、1階に戻されることになる。
こんな検証、間違っていればまた多大な労力を払わなくてはいけないので、そうそう誰もやろうとは思わないだろう。
しかし、どうやら。
無事に地下9階にたどり着いたということは、これで正解……つまり、やはり、このまま円周率の通りに上層階へと上っていけば、正解ということ、なのだろう。
……ああ、そうか。
円周率を階段の番号に使っているのも。
『1周まわって戻ってこなくてはいけない』というヒントでもあった……のかもしれない。
……いや、ヒントを出す意味なんて、ないか。
まあ、もう、そんなことは、どうでも良い。
俺は、スマホで写真を撮っていた『円周率記憶法』の画像を確認しながら、全力疾走で階段を駆け上がった。
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円周率を確認しながら、速度を落とさずに階段を駆け上る。
『3→1→4→1→5→9→2→6→5→3↓
4←8←3←2←3←9←7←9←8←5』
流石に駆け上がりはキツいが、今はそんなことを言っている暇はない。
『 魚 安 駅 ( B8F : フィリピン海溝 : -10057m )』
『 魚 安 駅 ( B7F : ケルマデック海溝 : -10047m )』
階段を駆け上りながら、酸欠状態の頭で考える。
すなわち、『ひさげ あかり』ちゃんの、違和感について。
改札口の白骨死体について、まるで知らなかったような最初の怯え方は、不自然だ。
彼女は俺が目覚めるより先に起きていたと言う。
であるならば、改札口にも向かわずに地下1階に降りる階段を探していたなんて、小学校低学年ということを差し引いても意味不明である。
『 魚 安 駅 ( B6F : 伊豆・小笠原海溝 : -9780m )』
『 魚 安 駅 ( B5F : 千島・カムチャツカ海溝 : -9550m )』
更に言えば、改札口の白骨死体も、他の階層のミイラも、全員、大人の体格であった。
残されていた遺品は、スーツやカバンなど、全て仕事用の物ばかり。
子供を思わせる白骨や衣服などはなかった。
『 魚 安 駅 ( B4F : ヤップ海溝 : -8946m )』
『 魚 安 駅 ( B3F : プエルトリコ海溝 : -8605m )』
即ち、この駅に連れてこられるのは。
終電で寝過ごして駅のホームで一晩明かすような、金のない社畜だけ、である。
そもそもこの駅に幼女がいること自体、違和感があり過ぎるのだ。
『 魚 安 駅 ( B2F : サウスサンドウィッチ海溝 : -8428m )』
『 魚 安 駅 ( B1F : ペルー・チリ海溝 : -8065m )』
そして、なんと言っても、一番の違和感は。
到達してはいけない地下11階に、なんでもないかのように、到達出来ていること。
そして、地下11階へ、俺を、誘い込もうとしたこと。
……恐らく、彼女は、この怪異と、グルであるか、もしくは……。
この怪異、そのもの、だ。
『 魚 安 駅 ( 1F : 日本海溝 : -8046m )』
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「ハァ……ハァ……」
なんとか地上まで辿り着いた俺は、息を切らせながら、改札口に向かう。
改札口には、先ほどの白骨は何故か無くなっており。
その代わりとでも言うように、シャッターが開け放たれ、眩しい外の景色が、見えていた。
間違いなく、ゴールだ!
俺は、息を整えながらも、出口へと向かおうとする。
「……こひつじ~……どうしたの?」
驚きで振り返ると、そこには。
頬を膨らませた、ひさげ あかりちゃんが、いた。
「はやく、したに、おりよう!」
少女は一転、笑顔を浮かべる。
老若男女問わず、皆を幸せにする笑顔。
先ほどまでは、微笑ましく、愛でるべき、守るべき対象であった少女は。
今や、恐ろしい怪物にしか、俺は見えなかった。
「……ねえ、ねえ、あかりちゃん。
どうやって、いま、ここに来れたの?
俺、全力疾走で、ここまで来たんだけど」
「……ん?
よく、わかんない?」
成人男性の全力に軽々と着いてきた少女は、可愛らしく、首を傾げた。
難しいことなど、何も解らないとでも言いたげなその表情に、俺は……。
……ん?
難しいことなど、何も解らない?
……あっ!
「……あかりちゃんは、もしかして……今までも、こうしてきたの?」
「……え?」
俺の声に、少女は戸惑う。
「今、気付いたんだ。
あの、『円周率を覚えている人』が書いてくれた『円周率の覚え方』。
あれのお蔭で俺はここまで辿り着けた、わけだけど。
よくよく考えると、あんなもの、紙に書き起こす意味なんて、なかったと思うんだ。
だって実際、書いた本人は、頭の中で、覚えているんだから」
「……どういう、こと?」
少女は、理解できない話を聞かされているかのように、不思議そうな顔を浮かべた。
「わざわざ、『円周率を覚えている人』が、平仮名で、書き起こしてくれた理由。
それは多分。
隣にいたんだ。
円周率がわからなくて。
そして。
……難しい漢字もわからない、誰かさんが」
「えっ」
少女は、青い顔をして、戸惑っている。
そんな、少女に向かって。
俺は、決定的な言葉を、口にした。
「……その時も、その人の、隣にいたんでしょ?
……あかりちゃん?」
あかりちゃんは、傷ついたような顔をして、怯んだ。
俺はそのタイミングを逃さずに、ダッシュでゴールへと駆け込む。
「あ、あああああああ!」
少女は、俺に向かって、手を伸ばしながら、泣いて叫ぶ。
「ああああ! こひつじ!
まって、おいていかないで!」
少女の声に思わず振り返ると。
彼女は瞳に涙をいっぱいに浮かべて、とても悲しそうに、顔をくしゃくしゃにして、泣いている。
抱えきれない罪悪感とともに、それでも俺は、改札口を飛び越えて、外へと向かう。
出口の光に包まれながら。
俺は確かに、最後に、少女の悲痛な叫び声を、聞いたのであった。
「お ね が い、
い か な い で !
わ た し の ……
わ た し の 、 ご は ん!」