『日本海溝』 -8,046m
冷たい床の感触で目を覚ます。
……?
ここは、どこだ?
頭を持ち上げると、脳内で寺の鐘をガンガン鳴らされたような衝撃を感じ、思わず胃の内容物を地面にひっくり返す。
鼻の奥の酸っぱい臭いと、昨日の食べ物の内容を確認しながら、俺は前日のことを思い出していた。
#############
仕事関係の飲み会で酒を大量摂取した俺は、終電の地下鉄になんとか飛び乗ったにも関わらず、降りるべき駅をそのまま寝過ごして、あろうことか終点まで来てしまったのだ。
当時の俺は、酔っぱらった頭を何とか振り絞って考えた。
外に出たとして、ホテルに泊まるなら15000円程度だろう。
だからと言って、タクシーで自宅まで帰るとなると、それすら軽く超える値段になる。
払えない額ではないが、払いたくない額だ。
そんなことをブツブツ口にしていると。
駅のホームの端っこの暗がりに、茶色いベンチが、ポツンと置いてあった。
灯りが1つ、スポットライトのように差している。
なんだか、深海みたいだなぁ、なんて、そんなどうでもいい感想が頭をよぎった。
もちろん深海に灯りなど無いのだが、何もない場所に静かにたたずむベンチの様子が、まるで海の底に沈んだ、捨てられた遺跡のように感じられたのだ。
更に近づいてみると、ベンチの上には茶色いゴザの様なものが置いてあり、布団替わりにもなりそうであった。
うん。
悪くない。
うまく回らない頭で、出した答えは。
そのまま始発まで、駅のホームで寝て過ごすことにする、というものであった。
#####################
「オッケー、吐いたおかげで大分頭が働いてきたぞ。
俺の名前は贄野 羔。
しがない社畜であり、美しき社会の歯車だ。
そして、ここは、駅。
駅の名前は、もちろんいつも使っている通勤電車の終着駅である……」
そう言いながら、駅の壁に貼られている看板を見る。
『魚 安 駅』
……?
「……ぎょ、あん、えき……?」
うお、やす、えき、か?
いや、そんな事より。
「そ、そんな駅名、ウチの通勤電車の駅には、ないぞ?」
起き上がりながら、駅の看板へと近づく。
『 魚 安 駅 ( 1F : 日本海溝 : -8046m )』
看板には、駅名の横に、何故か『日本海溝』の文字があった。
更に看板の下には、リアルな魚の絵が記載されている。
魚の種類など切り身にならないと分からない俺にとって、それが何の魚なのかなんて、当然分かるはずもない。
「……あ、駅名に『魚』が付いているから、魚関係をモチーフにした駅にしているのか」
しばらく考えた後、俺はやっと、答えにたどり着いた。
そう思って、改めてあたりを見渡すと、壁一面には子供が書いたような魚の絵があり。
海の生き物が泳ぎ回っている様な石像があちこちに散見され。
更に言うと、周りにある食べ物屋さんは---閉まってるとは言え---寿司など、魚関係の店が多く見受けられた。
こういう趣向は、魚が好きではない俺にも、なんだか少し面白みを感じさせた。
「へぇ、魚安駅、ねえ。
地下鉄の区間が、いつの間にか拡張されたのかな?
日々忙しすぎて、ノーマークだったわ……。
今度、休日昼間に、ちゃんと来ようっと。
ていうか、近くに『魚安』なんて地名、あったか?
まるで……」
まるで、昨日行った、居酒屋の名前みたいだ。
そんなことを考えて、俺は少し、自嘲った。
「……しかし、地下鉄ホームのベンチで寝たつもりだったけど、いつの間にか1階の地面の上、なんだな。
駅員さんが、運んでくれた、とか?」
それにしては、不親切な場所に置き去りにしてくれたものだ。
「あっと……そうだ、今、何時だろ……」
スマホを取り出すも、時計は『--:--』の文字。
……どうやら電波が、悪いようだ。
「まあでも多分、深夜ではある、んだろう。
店は全部閉まってるし、人通りは、全く無いし」
改めて背伸びをすると、俺は考えた。
もう別に、眠くない。
近くの公園か、カラオケか、ネットカフェにでも行こう。
ネカフェなら、シャワーもあるかもしれないな。
深夜料金なら、2000円くらいの店も、見つかるはずだ……。
そんなことを考えながら改札口へ向かう俺を邪魔するように。
「ママああああああ!
パパああああああ!
どこおおおおお!?
おうちにかえりたいいいいい!!」
……下の階から、子供の泣き声……というか、絶叫が。
……聞こえてきたので、あった。