ナースキャップの相田さん
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――この病院の地下には霊安室がふた部屋あるんだけど、第一霊安室の方は半分しか使用してないの。
半分というのは、夜間にはその部屋へ御遺体を運んだりしないっていう意味。
なんでもね、第一霊安室は霊界と繋がっているらしくて、亡くなった方の魂と一緒に御遺体を運んできた人まで引き摺り込むんだって。しかも、生きてる人の魂は分離できないから、生身のまま連れていかれちゃうらしいわ。現に、夜間に第一霊安室に入って行方不明になったナースもいるらしいし……。
昼間なら大丈夫なんだけどね。
でも、どこからかそんな話が出てくるくらいあの霊安室って不気味なの。その廊下の奥に備品庫があるから、夜間でも品薄の物を取りに地下へ行くことはあるんだけどね、いつも寒気がするのよ。
地下だから空気がひんやりとしているのは当然なんだけど、暗くて静かな廊下を歩く自分の足音が反響する様なんてホラー映画みたいだし、特に第一霊安室の前を通る時は、突然誰かに冷水をかけられたみたいに体が動かなくなる時もあったりしてね……。
この間なんて、御遺体しかないはずなのに第一霊安室から物音がしたのよ。ガサガサ、ガサッ、ガサガサって。まるで御遺体が生き返って起き上がろうとしているんだけど、身体に力が入らなくてなかなか起き上がれないような……そんな感じの音――。師長にも夜間は絶対に入っちゃダメって言われていたんだけど、誰かが忍び込んでいるのかもしれないじゃない? 患者さんだったら病室まで連れ戻さなくちゃいけないし……。だからね、私、第一霊安室のドアを開いてみたの。
夜に開くのは初めてだったから怖くて、そっとドアの縁から懐中電灯で照らしてみたの。やけに明かりがブレるなと思ったら、震えていたのは私の手の方だったわ。
不思議なことにね、ドアを開けたら音も止んじゃって、どこから音がしていたのかわからない。まさか、そんなわけないわよって思いながら御遺体を照らしてみたんだけど、御遺体に動いたとか動かされたような感じもないし……。
やっぱり気のせいだったんだわって、ドアを閉めようとしたんだけどね、その時にまた聞こえたの。ガサガサ、ガサッ、ガサガサって。私ビックリしちゃって、慌ててまた室内を照らしたんだけどね、やっぱり御遺体があるだけで他には誰もいない。「誰かいるんですか?」って声をかけてみたんだけど、当然返事なんてあるわけないし、もう戻ろうって思ったの。でもさ、もしかしたら御遺体の陰に隠れているのかもしれないでしょ? だからね、すごく怖かったけど、霊安室のなかに入ってみたの。
なかに入るとね、まるで気温が十度も下がったみたいに寒くて、ほんのりと私の息が白くなったような気がしたわ。懐中電灯がなければ自分がどこを向いているのかもわからないんじゃないかっていうくらい暗いし、床には何もないはずなのに、震えながら歩くと足下からニチャ、ニチャって音まで聞こえる気がする。
もう、本当に怖すぎて、私は足早に御遺体の反対側へまわったの。隠れているのが患者さんだったら、朝までお説教してやるって思いながら。仕方ないわよね、夜中に病室を抜け出す患者さんが悪いんだから。私を怖がらせた罪もあるし、怒鳴り散らしてやるって思ってたわ。でもね……誰もいなかったの。御遺体の反対側にも誰もいなくて、霊安室にいるのは私だけ。正確には御遺体もいらっしゃるんだけれど、もうお亡くなりになってるしね。
身震いする寒気は強くなってくるし、なにより怖いし、早くこんなところから出ようと思ったの。だけどね、私の足も体も動かなかった。
それは、ドアのところに立っている人影を見ちゃったから。
一緒に夜勤をしている同僚が迎えに来てくれたのかなって思ったんだけど、その人影はたぶん男性。懐中電灯を向けて顔を確かめたかったんだけれど、体は金縛りにあったみたいに動かないから確かめられなかった。
同僚じゃないなら……誰? って思った次の瞬間、その人が笑ったの。声を出したわけでもなく、暗くて見えない口もとを上げたわけでもない。目が……私を見ている赤い目が笑ったの。
今にして思えばおかしいわよね。暗くて顔がわからないんだから目だって見えるはずないのに……。でも、その人の目だけははっきりと見えたわ。赤く濁った、生きている人のものとは思えないその目は、笑いながらじっと私を見つめてきたの。するとね、いつの間にか私は人影に囲まれていたわ。右にも左にも、きっと後ろにもたくさんの人影がいて、みんなが私を見ていた。
動くことも話しかけてくることもなく、ただただ私を見つめてくる。まるで品定めをしているかのような感じで……。
私思ったの。「ああ……。第一霊安室は本当に霊界と繋がっていて、きっとこの人たちは亡くなった御遺体の魂だけでなく、私のことも霊界に引き摺りこんじゃうつもりなんだわ」って――。
夜の病棟の自動販売機の前。
ベンチのような椅子に座っている相田陽菜さんが言葉を止めてから三十秒が経過した――。
「あの、相田さん? 話の続きは?」
待ちきれなくなった僕は相田さんに続きを促した。
でも、相田さんは怖がっている顔で僕を見据えるだけで口を開こうとしない。
嫌な予感がした僕は「まさか……」と言ったその時、相田さんは楽しそうに笑いだした。
「怪談話はここでお終いだよ、健太くん」
「またオチなしか~いっ!」
大袈裟に両手を上げてしまったからか、車椅子が少し浮いてバランスが崩れる。
「こ~ら。そんなに暴れると、今度は両足だけじゃなくて腕まで骨折しちゃうぞ」
車椅子を支えてくれた相田さんがふくれる。それはとても可愛くて、思わず僕は綻んだ。
「何が可笑しいの?」
「いや、なんでもないよ」
なんとか笑いを堪える。そんな僕に相田さんは目を細めた。
「なんでもないよ?」
「――なんでも、ありません」
「よろしい」
言葉使いを直した僕に、相田さんはまた可愛い笑顔を見せてくれた。
相田陽菜さんは今年入ったばかりの新人ナースさん。夜勤に入るようになったのは二ヵ月くらい前かららしい。
高校二年生の僕からみればお姉さんなのだが、相田さんは僕と同学年くらいに見えるので、ついタメ口になってしまう。とにかく可愛い人で、僕はこの出会いにとても感謝している。
「それにしてもさ、なんで毎回オチがないの?――ないんですか?」
「その後どうなったのか……。それを想像するから怪談話は怖いのよ」
「……なるほど、そうかも。って、相田さん生きてるじゃん! 生きてる人間は生身のまま霊界に引き摺り込まれるんじゃなかったの?」
「それはそれ。物事にはね、人知を超えた不思議なことがあるものなの」
さも当然というような顔をする相田さん。普段はこういう大人の言い訳みたいなものには苛立つのだけれど、今の僕は「なんだよそれ」と笑うことが出来ている。
それは、最近眠れない夜にこうして付き合ってくれる恩もあるけれど、友人のような姉のような……そんな感じで接してくれる相田さんの人望なのだと思う。
これまでの僕の生活は荒れたものだった。大した理由もなく毎日イライラしては多くの人に迷惑をかけてきた。両足の骨折だって、暴走族仲間と一緒にパトカーの前に出て煽った時に事故ったからだ。二人乗りしていたバイクが転倒して……。
今は歩くことも出来ないので不便だが、事故の時に後ろから来たパトカーに轢かれなかったので幸運だったといえるだろう。
相田さんと出会えたおかげで、今の僕の気持ちは更生へと向かっている。もしかしたら、この出会いは僕を更生させるために神様が用意してくれた贈り物なのかもしれない。
「でもさ、もったいないよね。途中までは怖いんだからさ……今度はオチのある話を聞かせてよ」
そう言うと、相田さんは自信ありげに胸を張った。
「大丈夫、明日のはちゃんとオチがあるから。最後だしね」
「そっか。明日の話で『病院の七怪談』を聞き終えちゃうのか……」
少しさみしい気持ちになる。
この六日間、眠れない僕はいつの間にか自動販売機の前まで来ている。夜の病棟はとても静かで、自動販売機のモーター音も大きく聞こえる。でも、静かすぎる病室にいるよりは心地良いのだろう。
六日前、ジュースを買うわけでもなく自動販売機の明かりを見ている時に、見回りをしていた相田さんと出会ったんだ。
その夜から毎晩こうして話をしているのだけれど、明日の晩で話のネタが無くなるということは、相田さんと会う口実が無くなることも意味している。
ナースキャップをかぶった相田さんが立ち上がった。
「明日の話は怖いよ~。健太くん、覚悟しておいてね」
スカートのシワを直しながら僕に笑顔を向けてくる。きっと僕の気持ちには気付いていないだろう。
「うん、楽しみにしてる。おやすみなさい、相田さん」
「おやすみ、健太くん。――あ、そうだ。健太くん、ここで私と話をしてたこと、他のナースには内緒だよ」
相田さんは自分の人差し指を口にあてる。口もとにはホクロがあるせいか、その仕草に色気を感じてしまう。
「大丈夫、約束通り誰にも言わないよ。クビにされたら大変だもんね」
僕がそう言うと、相田さんは苦笑いを浮かべながら「今晩は迎えに行ってあげるね」と手を振った。だから僕も手を振って見送る。
相田さんはまだ新人ナースだ。見回りの途中でサボっていたと思われてしまうのは困るのだろう。それがわからないほど僕は子供ではない。それに、ここで会っているのは僕たちだけの秘密だ。誰かに言うつもりもないし言う必要もない。
相田さんの姿が見えなくなると、僕は大きなあくびをした。
いつものように眠気が襲ってきたらしい。
相田さんといるのは心地良くて楽しいけれど、緊張もしているのだろう。もしかしたら、僕は自分で自覚しているよりも相田さんのことを意識しているのかもしれない。
「ふ……あ……」
またあくびが出た。このままではこのまま寝てしまいそうだ。
僕は車椅子の車輪に手をかける。
そして病室へ戻る途中、いつものように意識を失った――。
◇
「……さん。久保健太さん、起きてください」
優しい声で僕の目が覚めた。
まだ重いまぶたをゆっくり開くと、ベテランナースの山川さんと若いナースさんがいる。
「ん……おはようございます……」
僕は目を擦りながら上体を起こす。朝の検診の時間なのだろう。
どうやら無事に病室に戻って来れたようだ。いつものようにベッドに入ったことは覚えていないけれど。
「久保さん、こちらは北島さんです。今日から久保さんの担当になりますので、よろしくお願いしますね」
山川さんが若いナースさんを紹介してくれる。
緊張しているのか、北島さんの笑顔はどことなくぎこちない。
「あの、北島美紀といいます。早く退院できるようお手伝いしますので、一緒に頑張りましょうね」
元気すぎる声が朝の耳にはつらいが、良い人そうだ。
「……はい、よろしくお願いします」
僕はペコっと頭を下げる。
担当ナースが変わるなら相田さんにしてくれればいいのに……なんて気持ちを隠しながら。
「あれ? 北島さんは帽子をかぶらないんですね」
頭を上げた僕は、相田さんとの違いに気付いた。
「帽子……ナースキャップのことですか?」
なぜか北島さんは不思議そうな顔をする。
「そう、そのナースキャップ。それにスカートじゃなくてズボンだし、サンダルの代わりにスニーカーだし……。選べるんでしょうけど、僕は相田さんみたいな恰好が好きですね」
見たところ、この北島さんもまだ新人ナース。もしかしたら相田さんと同期なのかもしれない。このくらいのからかいなら笑って許してくれるだろう。
そう思っていたのだが、山川さんと北島さんの様子がおかしい。
「久保さん、この病院はずいぶん前にナースキャップは廃止されているんですよ」
山川さんの言葉に、僕の頭には「?」が浮かぶ。
「ナースキャップはその形状を保つために糊付けされているんですけど、その糊に細菌やウイルスが付着しちゃうと繁殖するかもしれないんです。院内感染の危険があるので、もう誰もかぶっていないはずなんですが……」
山川さんの説明に、僕の頭には「?」が増えていく。
そう言われても、相田さんはかぶっていたんだけどな。まあ、たしかに相田さん以外の人がかぶっているのを見たことはないけれど。
ナースキャップをかぶるのかかぶらないのかは選べるんじゃないの?
混乱しているのか寝ぼけているのか、表情が固まった僕に今度は北島さんが質問してきた。
「それに、相田さんって誰ですか?」
「え? 北島さんと同期じゃないんですか?」
「いえ、私の同期にそんな人は……。山川さんご存知ですか?」
「この病院に相田という看護師はいないはずだけど……。久保さん、どなたかと間違えてませんか?」
「いやいやいや、そんなはずないでしょ。昨晩だって……じゃなくて、相田さんですよ? 相田陽菜さん」
危うく夜に話し込んでいることを言ってしまいそうになったが、何とか堪えることが出来た。
それにしても同僚の名前も憶えていないなんて、この二人は冷たいな――と思ったのだが、相田さんのフルネームを聞いた途端、ベテランナースの山川さんが固まった。
「相田……陽菜さん……。そんな、まさか……そんなはず……」
「山川さん? 大丈夫ですか?」
北島さんが突然怯えだした山川さんを心配する。
しかし山川さんはそれには応えず、僕へと詰め寄ってきた。
「本当ですか久保さん。本当に相田陽菜さんを知っているんですか!?」
「ええ、知ってますよ。口もとにホクロのある、あの相田陽菜さんですよね」
相田さんの特徴を言うと、山川さんは顔面蒼白になった。
「そんな、ありえないわ。陽菜ちゃんが行方不明になったのは三十年も前の事なんですよ! 久保さんはまだ産まれてもいないっていうのに!」
狂乱寸前の山川さんが床へと崩れる。
「さ、三十年前に行方不明って、どういうことなんですか?」
僕は思わずそう訊いていた。
北島さんをからかった仕返しをされているのかとも思ったのだが、山川さんは本当に怯えているようだ。
「三十年前、陽菜ちゃんは私と一緒に夜勤をしていたの。でも、品薄の物を地下の備品庫に取りに行って、そのまま行方不明に……。残っていたのは霊安室に落ちていた懐中電灯だけ。今も消息は掴めていないんです」
それは昨夜、相田さんから聞いた怪談話と同じだった。
「それって、第一霊安室でなにかあったってことですか?」
僕の言葉に、山川さんは怯える目を見開く。
「……なぜ? なぜ久保さんが霊安室の噂を知っているんですか? しかも、私は第一霊安室だなんて言ってないのに……」
ガタガタと震える山川さん。この怯え方は尋常じゃない。
「じ、実は、一週間くらい前に相田さんと会って――」
僕はありのままを話し始めた。
眠れない夜に自動販売機の前で相田さんと会った事。それから連日会って怪談話を聞いた事を――。
全てを話し終えた時、僕の後ろから声がした。
<誰にも言わないって約束したじゃない>
全身が凍りつくような悪寒が駆け巡る。
僕は慌てて後ろを振り向くが、そこにあるのは壁だけ。そもそも人が立てるようなスペースなんてありはしない。
しかし、今の声は間違いなく相田さんの声だった。いつもより低くて冷たく、魂をも震わせる邪悪な声だったが、それは間違いなく相田さんの声――。
「あの、久保さん、ちょっといいですか――」
遠慮がちに声をかけてきたのは北島さんだった。
「車椅子で自動販売機の前まで行ったとおっしゃいましたけど、その車椅子はどこにあるんですか?」
「どこにって、そこに……ない?」
当然ベッドの横にと指差したのだが、そこに車椅子はなかった。
「そんな、なんで……」
ここに車椅子がないというのなら、僕はどうやって病室に帰って来たのだろう?
そもそも、どうやって自動販売機の前まで行ったというのか?
歯痒いことに、僕にはその記憶がない。いつも気付いた時には自動販売機の前にいたし、相田さんと別れた後はいつの間にか朝になっていて病室に帰ってきた憶えもないのだ。
「それに、久保さんの話はおかしいです。私、二日前まで夜勤をしていたんですけど、見回りの時には久保さんはちゃんとベッドで寝ていらっしゃいました。お二人で私をからかっているのならもうやめてください。私、こういった怪談話って本当に苦手なんです」
声こそ荒げないものの、北島さんは怒っていた。
赤くした目には涙が溜まっていて今にも流れ落ちそうになっている。震えているのは恐怖と怒りが混ざったものなのだろう。
しかし怖いのは僕も同じだった。
僕が夜にベッドで寝ていたというのが本当なら、昨夜までの六日間、僕は一体誰と話をしていたというのだろうか。
「今晩は迎えに行ってあげるね」
不意に、昨夜相田さんが去り際に言った言葉が脳裏をかすめる。
今晩、本当に相田さんが病室へ迎えに来たとしたら――。
僕はどうなってしまうのだろう……。
<今日の話は怖いよ~。健太くん、覚悟しておいてね>
また、ケラケラと笑う相田さんの声が聞こえた気がした――。
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読んでくださり、ありがとうございました。