5,夕暮れの海
その日が来るのを、セシルは待ち遠しくてならなかった。
たった1日たつのがとても遅くて……。
それほどそわそわしたのは、記憶にないくらいに
服はもちろん普段着じゃなくてとっておきに着るもの、襟元は細かなフリルで飾った控えめながらも可愛いらしいデザインの、スカート部分にはローズカラーで真ん中には白のレースが飾られている。
レースと小さな造花で飾られた帽子を被り、リボンを顎の下で結ぶ。街の女の子がお出掛けに取って置きの装いをするようなそんな格好だ。
ギルは……どう思ってくれるかと。
そわそわしながら待っていると、closeの札の下がった扉が開いてギルが顔を覗かせ、その口許が弧を描く。
「可愛いドレスだね。セシルの、髪の色にもよく似合ってる」
真っ先に装いを誉めてくれた事が嬉しくて顔が綻ぶ。
「ありがとう」
「じゃあ、行こうか」
紳士らしくエスコートするように腕を出してくれて、どきどきしながらその肘に腕をかけた。
「ギル……来てくれて嬉しい」
セシルの言葉に、ギルは頬を緩めて笑みを深くする。
「それはこっちの、台詞だ」
どうやって行くのかと思えば、きちんと乗り合い馬車を探していたらしく、大通りに停められている馬車に乗り込んだ。
きっと馬車くらい所有していそうなのに、目線を合わせてくれている気がして、なぜか嬉しくなる。
席が埋まれば出発となるので、しばらくセシルとギルは並んでそのときを待った。
ギルの服装は、チャコールグレーのジャケットとベストに淡いグレーのシャツ。それに黒のパンツを合わせてそれに、黒とグレーのタイをしていて、それがとても黒髪によく似合っていた。
ギルの髪はきっと最初に出会った時に見た金色なのだろうけど、隠しているのはどんな理由があるのだろう?そんな詮索をするような考えを、無理矢理追い払う。
どんな理由があるにしても、……どちらの髪色も、よく似合ってるとそう思った。
「実は、これも初めてなんだ」
「乗り合い馬車が?」
もしもギルがセシルの想像通り、貴族だったら……きっと乗り合い馬車なんて乗ったことはないはずだ。
「いや……女性と二人で出掛けるのが」
「だから?」
「もしも、失礼があっても怒って帰らないでほしい」
「やだ」
くすくすとセシルは笑った。
「そもそも、女性を誘っておきながら、乗り合い馬車を選んで良かったのかと」
「私は、楽しいわ。とても」
やがて席は埋まり、馬車は動き出した。
店は明日も休みにしてあるから、今夜は遅くなってしまっても大丈夫なのだ。
道すがら目につくものをあれこれと話ながら行くのは、本当に楽しくてセシルは彼の身分の事を考えるのを忘れていた。
途中で休憩をはさみながら、馬車はやがてブレイトにたどり着いた。順調な小旅行に、ギルもセシルも互いが時が経つにつれて心の距離が縮まったように感じた。
港町の町並みは王都とはぐっと雰囲気が違い、まるで、おもちゃ箱みたいにカラフルで活気がある。
ビーチ沿いのプロムナードをゆっくりと二人で並んで歩く。それだけでセシルは楽しかった。
空はどこまでも広くて、そして海と繋がっていて波の音がずっと押し寄せて、満ち潮と共にギルへの想いも溢れていきそうだった。
どうかしてる……。会ったばかりなのに。こんなに遠くに二人きりで来てしまうなんて
こんなにもどうにかされてしまうのは……ギルのせいだ。
海沿いの通りにはレストランが軒を連ねていて、そのうちの1つの〝blue ocean〟にギルはセシルを案内していく。
ほどよく着飾った紳士淑女たちはまだ時間が早いためかまばらで
二人は、窓から海が見える丸いテーブルに座った。
うまく配置されたその店内は、売りである海が全席から見えるように、そして、各テーブルは他の客人から見えにくくなっていた。
カーブを描く椅子に隣り合わせに座ると、なんだかとても親密な距離で……。そこで食事をするなんて出来るのかと、セシルは心配になってしまった。
「何が好き?」
メニューを眺めたけれど、どう頼むべきかわからない。
その意図を悟ったのか頷いて、ボーイを呼ぶのに手を頬に上げた。
ギルが注文したのは、どうやら軽めのコース料理の様だった。
「……マナーがわからないの」
「大丈夫。俺しか見てないし……刺繍はうまくいかなかったけど、今度はちゃんと俺が教えられる」
刺繍と聞いて、ふくらんだ血を思い出した。
「はじめてだったのだから、仕方ないわ」
「そう、セシルはこういうのが、はじめてなんだから、上手くできなくても良いんだ。何より美味しく食べるのが一番だろ?」
「ええ、そうね」
「お酒は?飲める?」
「軽くなら」
ピンク色のシャンパンで軽く乾杯をして、喉を潤すと見た目よりは少し辛いそれは体を一瞬だけ熱くさせた。
ひとつめの料理が運ばれて来ると、ギルの真似をしてセシルは食事を始めた。
「どんな形だって、食べる事に違いはないよ。ただ少し、かっこつけて複雑にしてるだけだ」
その言葉にセシルはくすくす笑った。
「でも、ギルの食べ方はとても綺麗。私は好き」
好き、と言ってしまって、あっと口を押さえた。
「ありがとう、なら無駄じゃないと思えた」
ギルは優しい目でセシルをじっと見つめた。
こんな風に誰かと食事をするのはひさしぶりな上に、その相手がギルだから……。どんな料理だって特別だった。
「ギルはいつも、こんな風に食事をしているの?」
「いつもじゃない。特別な日だけだ」
「でも、その特別な日は、一年に一回じゃないのでしょ?」
「今日はその特別な日の中でも、一番大切な日になった。セシルとはじめて食事をするというね」
「それなら、私の方がずっと今日は特別な日なの」
はじめて食べる新鮮な海の幸を使った料理は、とても美味しくて夕暮れに染まる空と海は刻々と色を変えていくその様は息をのむほど綺麗で、最後のシャーベットを口にする頃にはすっかりと紫がかった薄闇になっていた。
店の支払いは、セシルの知らない間にギルがしてしまっていた。
「いつの間に?」
「女性にそういう心配をさせてしまうのは、紳士じゃない。俺に格好つけさせてよ」
「ありがとう、ごちそうさま」
店をでれば手配していたらしい貸し馬車が止まっていて、乗り合い馬車よりは遥かに座り心地のよい座席があり、そこに二人で乗り込んだ。
「セシルは……俺が悪い男だとか、思わなかった?こんな風に簡単に二人きりになってさ」
少し意地悪な笑みを見せている。
「わたしを騙したって、何もならないじゃない。騙される危険があるのなら、お金持ちか身分のある女性じゃないの?」
「どうかな……。君のお店には貴族の婦人がよく来てる。君を伝に取り入ろうとしてるかも」
「私をどうやって騙すの?」
「心配だな……会ったばかりの得体の知れない男から誘われても、こんなに遠くまで出掛けてしまうなんて」
「そうね……とても、軽はずみね」
「駄目だ、もっと慎重に……しないと」
そんな風に話ながらも、二つの視線は絡み合ったまま……。そっと伸びてきた手に、手を優しく握られてその指先に唇にそっと触れさせられた。その感触が心地よくてゾクゾクするくらい敏感になってしまった。
「いけない事だと分かってるの、でも……本当は帰りたくない。もっと……一緒に」
いられたら良いのに。
「俺だって同じ気持ちだ」
廻る車輪が、道を走る音。そして、馬の規則正しい蹄の音。王都へと近づくその音は、今日の別れへの伴奏。
「また会える?わたしたち」
「会いに来るよ、絶対に」
なんて不公平なんだろう。
セシルからは彼に会いに行くことは出来なくて、ただ待つだけだ。けれど、会いに来るよ、その言葉はまるで星が輝くかのように今日の別れに、光を灯してくれる。
それだけで、セシルは待てる。そんな風に思えたのだ。
やがてセシルの家の前で停まった馬車から、ギルはまるで貴婦人を扱うかのように手を貸して下ろしてくれ、扉を開けるまでしてくれたのだ。
「ギルは……まるで私だけの王子さまみたい……」
「え?」
「女の子って、小さな頃には思い描くの。いつか王子さまと、みたいに……」
くすっと微笑むと、ギルはセシルの髪を一房掬いとって
「おやすみ、良い夢を私だけの姫君」
「おやすみなさい、あなたも……いい夢を……」
セシルは部屋まで急いで行き、窓から路地を見下ろすと、ギルはまだ馬車の前に佇んでいて、窓が開いた気配に視線をあげてきた。
手を振り合うと、そのまま馬車に乗り込んでやがて馬車は小さくそして見えなくなった。
……誰かを見送るのは……嫌なものだった。
特に、次に逢うのがいつになるか分からない、そんな時は。