4,お忍びデビュー (Gilseld)
イングレス王国の王子 ギルセルドは、明るい金髪と青い瞳を持ち、背はすらりと高く父親のシュヴァルド王に似た華やかな容貌をしていた。3歳年上の王太子である兄 エリアルドが、やや冷たく感じさせる容貌に対して朗らかで親しみやすい雰囲気がある。
叔父である王弟 アルベルトは若い頃、よく王宮を抜け出していたそうで、ギルセルドはその手腕をこっそりとよく聞き出していた。
成人間近の今、ガチガチの王子教育はもう終わりにして良い頃だし何よりも、馬車からでなく歩いて王都を見てみたいという興味は、ようやく実現したのだ。
街を歩く若者がしていそうな服は、近衛騎士であるライナス・ウェルズに頼んだ。ライナスは話が通じやすい。
「悪さは程ほどにお願いします」
そう言って、服を一式渡してくれた。
しかし、ライナス程話が分かる従者や騎士は、他にはなかなか居ない貴重な存在だった。
王宮の外れまで歩いていき、堂々と外へと出る。入るのは厳重だが、王宮から出掛ける人にそこまで気をつけて居ないといのが、アルベルトの証言だ。しかし、しょっちゅう抜け出していたアルベルトは、それがなかなか通用しなくなったと言うが……。
馬車や騎乗してでなく、徒歩でゆく王都はすれ違う人皆、誰一人王子だとは気づいていそうに無く、その事が新鮮でとても楽しくなる。
ちょうど社交シーズンは終わりに近づき、夜な夜なの夜会に飽いた貴族たちもそろそろ領地へと旅立ちはじめて身分がバレてしまう危険は下がってきていた。
最後の買い物を楽しむ貴婦人たち。
休みが近いからか、はしゃいで元気よく走ってるスクールの子供たち。
活気づく王都の姿がそこにあった。
はじめての独り歩きで、治安が良くない界隈にはいかないだけの分別はあったというのに……。どうやら脱け出したギルセルドを探してるのか、平服を身に付けた近衛騎士のガレス・ブラックウェルとセイド・クロッソンを見つけてしまった。
彼らが大っぴらに名前を呼んで探し回るわけにもいかない、というのがギルセルドの強みだった。
しかし……子供じゃあるまいし、捕まるのではなくて自分で帰りつきたい。ちょうど、婦人たちが出てきた店の扉へと滑り込む。
「いらっしゃいませ」
澄んだ高い声の若い女性の声がした。
女性ものの雑貨で華やかな店内に、適度なフリルで飾られた小柄な女の子……女性が立っていた。
長い真っ直ぐなストロベリーブロンドを半分だけ結った髪型は愛らしく、細い首筋にさらりとかかっていた。
後先考えずに入ってしまった事に、ギルセルドは気まずく思いながらも外が気になる……。入ったことは見られていないはずだが……。
「……何かおさがしですか?」
困惑を悟られたか、店員の女性は声をかけてきた。
とっさに
「あ……ああ、女性への贈り物はどういったものがいいのだろうか?」
いざとなれば、従姉妹のプリシラとアンジェリンの為に何か買うことにするかと、そう思ったのだ。
「そうですね……お知り合いの女性にならこちらのレースのハンカチですとか、もう少し親密ならレティキュールや扇、もっと口説きたいのならやはりジュエリーでしょうか」
慣れたようなその滑るような説明の言葉に、ギルセルドはまじまじと見つめてしまい、少し笑った。
こういう店員の女性がいるなら、男一人で入っても女性への贈り物を問題なく購入することが出来そうだ。
「なるほど……」
「そうは、言っても……それほどあなたはこちらの説明も商品も必要なさそうですわ」
まるで買う気もないのに入ってきたことを知っているかのような口調にますます可笑しくそして、彼女に興味が沸いてきてしまった。
「おさがしなのは……〝抜け道〟とか……?」
そんな風にずばりと言われてギルセルドは声に出して笑った。
王都に店を出している店員というのはこれほど客の心を読むのだろうか?それとも彼女が特別なのだろうか。
何にせよ……。
これまで知る令嬢たちと比較にならないほど、楽しい気分にさせてくれたのは間違いなかった。こんな風に思わず笑わされたのは記憶にないほどだ。
「もう、大人だと言うのに過保護なんだ」
甘やかされた坊っちゃんだと、侮るかと思いながら見つめると彼女は頷き
「お生まれは選ぶことは出来ません。ですが、時には違う自分になってみるのも必要でしょうね」
なんだかギルセルドの心をふわっと軽くするような、言葉に一気に好感が高まった。
「俺は……来年成人なんだけどね、なかなか大人だと思ってもらえないらしい」
そんな良いところの坊っちゃんだと宣言しているような発言にも彼女は柔らかな笑みを崩さず、
「必要なものはこちらですわ」
お店の奥へと案内し扉を細く開いた。
そこには細い路地が覗いていて、正にギルセルドが望むものだった。
「名前を聞いても?」
思わずそう尋ねていた。
王宮では誰もが、自分達の親や知り合いを介して名前を売り付けてくる。こちらから訊いたのははじめての事だった。
「セシルです。セシル・ハミルトン」
「俺はギル………・ウィンチェスター」
ウィンチェスターは、あまり周知されていないギルセルドの名の一部である。
「サー?ロード?それともデューク?それとも……」
セシルの言葉にまたギルは笑えてしまった。敬称を片っ端から言うつもりかと……!
「ただのギルでいい。俺は今は……ただのギルだ」
セシルの前ではそれでいたいと、そんな気持ちが沸き上がった。
「わかりましたわ、ギル」
ギルと呼び捨てにされた事がなぜか嬉しい。セシルの呼び方は耳に心地よかった。
「なにも買わずで悪かったな」
「私は今日はあなたに恩を売りました。お気に召したら、またお越し下さい」
恩を売った……その洒落た言い方にまたギルセルドはセシルを見つめ返した。
「じゃあ、きっと必ず来る」
お気に召したら……。
気に入ったに……決まっている。
「ではお待ちしております」
細い路地を抜けて、大通りにまた出てギルセルドは王宮へと急いだ。すでに、警備には連絡がいっていたのか騎士たちが怖い顔をしながら待っていた。
「許せ」
ギルセルドは一言、言った。
「……どれだけ心配したと思っておられる?」
従者であるフリップ・カーソンが一番恐ろしく怖い顔を見せた。
「次からはちゃんと言っていくよ」
「次!」
「でないと、黙ってまた出掛ける」
「全く!アルベルト殿下は悪いことをお教えになられた」
「叔父上は悪くない。ただ……俺には必要だった」
「必要なものですか!」
「必要だ」
何をどう言われようと、ギルセルドはもう一度セシルに会いにいくつもりだった。
街へ行きたいギルセルドの主張は、アルベルトの助けと、それから何故かエリアルドさえ
「私の代わりにあちこち見てきて様子を知りたい」
そう言って後押しをしてくれて、出掛けるときにはもう少し変装をという事になり、黒髪の鬘をつける事で落ち着いた。お付きもなしとなったが、きっと街中に平服の騎士を配備するつもりだろうが……。
セシルにきっと必ず来るといったその言葉を実現するには、少しばかり時間がかかってしまったが、記憶をたどりなんとかantique roseを見つけることが出来た。
ふと窓に写った自分が長い黒髪をしていて、セシルは不審に思うだろうかと心配になってしまった。
「いらっしゃいませ」
記憶にある、澄んだ声だ。
「ギル?」
訝しげな響きはあったけれど、1度会っただけなのにすぐにその名で呼んでくれた事に、嬉しくなり笑みがこぼれた。
「そう、良くわかったね。この前の商品が気に入ってね。また来てしまった」
「ありがとうございます、そう言って頂けると嬉しいです」
セシルの声には本当に嬉しそうな響きが感じられて、ギルセルドは、低い位置にある見上げてくる顔を見つめた。
「今日はね、逃げてきた訳じゃないから」
「よろしければ、お茶を飲みながらゆっくりとお選びくださいませ」
「じゃあ……そうさせてもらおうかな」
店の奥には接客用のスペースにソファが置いてあり、貴族の婦人が好みそうな艶のある飴色とレースのファブリックなどの調度類で揃えられていた。
「どうぞ」
セシルが出してくれたのは湯気のたつ紅茶で、それはひどく美味しく感じられた。
「ありがとう」
ふと、熱いほどの視線を感じて見れば磁石のように引き合ってしまう、そんな美しい金茶色の、輝く瞳を見つけてしまった。
まるでセシルの瞳には魔力が宿っているかのようだった。
「セシル……君の目はとても綺麗な色をしてる」
気がつけばそんな言葉を呟いていて、セシルの頬がみるみるうちに美しく薔薇色に染まるのを感嘆の想いで見つめていた。恥ずかしそうに頬に手を当てるそんな仕草も、なんの裏の想いもなくて素直に感じ入ってくれているのが胸を熱くさせてしまう。
「そういう言葉には……慣れてないです……」
セシルは、飾られていたレティキュールと扇を手にして、ギルの目の前に並べた。
「こちらは……もうすぐ人気がでそうな商品ですわ、贈り物をお探しでしたらお勧めです」
「へぇ、俺はやはり男だから疎くて。これは二つある?」
「二つ……ですか?」
戸惑うようなその言葉にはもしかすると恋人が二人いると思われたかと、ギルセルドは思った。
「今お持ちしますね」
「従姉妹のだ」
弁解じゃなく、真実だ。セシルには……それを伝えたい。誤解されたくなかったのだ。
「え?」
「近くに、従姉妹の姉妹が住んでいる」
従姉妹の為に、何を選んだかはもはやどうでも良かった。
「仕上げには一週間程かかります」
ただ……次に来店する理由が出来た、その事が重要だった。
「分かった、それくらいに取りに来よう」
「はい、お待ちしております」
嬉しそうなセシルの顔に、ギルセルドは浮かれそうだった。
身分が違う……。
それが……どうだっていうんだ……!
ギルセルドには兄がいて、世継ぎの王子ではない。それに……公爵家の存在もある。その事に今回ばかりは、感謝してしまいそうだ。
そんな事よりも今は……次にセシルに会うこと、ただそれだけを考えていたかった。