35,完璧な夜、辿る形跡
ニコルと先の事の話が出来たことで、セシルの気持ちは落ち着いていて、普段通りの憂いのない笑顔が自然と溢れるようになっていた。
店を売るというのに、antique roseの経営は順調で、ニコルは店の顧客でもあるマリアンナ・ウェルズ侯爵夫人に実質的な権利を売ることになり、そして店を実際に経営する人物を探してくれたのだという。
経営者となるハル・レインウォーター氏はマリアンナの関わる店で働いてきたという、信頼の置ける人でニコルとも同年の24歳とまだ若く、そして店を出来るだけこのままで、という希望を聞いた上で引き受けると言ってくれたそうだ。
「いらっしゃいませ」
そのハルを伴いマリアンナは店へと訪れた。
「店主の妹のセシルよ」
「はじめまして……ミスター レインウォーター」
ハルは人好きのする雰囲気で、笑顔になった。どことなくニコルと似た所があるとセシルは思った。
「なるほど、やはりこういう女性向けのお店では、可愛らしい女性の店員が必要ですね」
「そうね」
マリアンナはハルに向かって頷いた。
ニコルが応対する為にやって来たので、セシルは案内役を交代した。店の事を説明する様子を見ながら、antique roseはなくならないけれど、変わってしまうのだということには、淋しさを感じずにはいられなかった。
「大丈夫?」
エスターがそっと声をかけてきて、セシルは黙ったまま頷いた。
「仕方ないわ、兄さまがそうすると言えばそうするしかないの」
「ウェルズ侯爵夫人ならきっとこのお店をうまく維持してくれます」
「ええ、でも。もう、私の知るお店じゃ無くなるわ」
マリアンナの事はとても尊敬しているし、経営の手腕を疑いもしない。ただ、どれだけ外観が同じであろうと……。
父のお店であったという事実は過去へと消え去り記憶に残るだけになる。そしてそれはいつしか色褪せるように記憶からも薄れ断片的にしか思い出せないだろう。
だからこそ……思い出を上書きされたくなくてセシルはここでしばらく働いてもいいという申し出を断った。
ミリアの誘いをそのまま甘える形で、お願いすることにしたのだ。
***
ギルの訪れは手紙を通して知らされていた。
だから……部屋で待つときは、焦れされられてじっとはしていられないような……それでいて、幸せな時だった。
瞼を閉じて、頭の天辺から、足の先までを思い浮かべて思い出す。
そして、声を呼び起こし、はじめになんて話すのかを想像すると……。
手元には、ギルに渡したい贈り物。
身につけるものを贈る事は、ギルの周りにはセシルとの事は隠されているのではと思ったけれど、銀色に青い石の飾りのついたカフスボタンは目の色と合っていて似合いそうだったからだ。
どうやって渡そうかと考えるのもとても楽しみだ。
いつものように、扉をノックする音がしてそして、待っていた人の声を扉越しに聞いてそして鍵を開ける瞬間は何物にも変えがたい、その瞬間だけの喜びがある。
その夜は……開けて、扉を開けた瞬間に体に回された腕も、それから笑顔で見下ろしてくるその瞳も全てが完璧だった。
「良かった……」
「何?」
「この間は……様子がおかしかったから」
「気にしてくれてたの?」
「ああ、だから間を開けずに会いたかった」
セシルの言動を気にしてくれていた事が素直に嬉しかった。
「兄さまが……お店を売るって……それに動揺してたから」
「店を?」
「そう……でも、とても良い方が買ってくださることになって」
「じゃあ、セシルはその後はどうする?」
「私は友人の、ドレスメーカーで働くつもりなの」
「どうして、言ってくれなかったんだ」
「兄さまは、私を連れてフルーレイスにいくつもりだったから、私。ここを離れたくなくて、でも。ギルには言えなかった」
「ごめん、俺のせいだ」
「だめ、そんな風に言わないで」
セシルはギルの首に両手を添えて背伸びをして、キスをした。
セシルからしたのは、はじめてだった。
「今日は……全てが完璧な気分なの」
部屋の所々にはキャンドルを置いて、そしてギルと楽しむ為の彼好みの少し強めのお酒。それから……念入りにすいた髪と、下ろし立てのドレス。
「ほんとうだ……セシルは、全部が完璧だ」
「気分だけは……」
セシルはギルの訪れは手を引いて、テーブルの前の椅子に導く。
「座って」
「何?」
「手を貸して」
素直に手を延ばすギルのその袖に、カフスボタンを着け直す。
「似合いそうだと、思ったの。あなたにとっては……安物すぎるかも知れないけれど」
シャツの白さとそして、キャンドルの灯りに照らされて今は鈍く光っている。
「俺を想って選んでくれた?」
「もちろんよ……見たら、わかるでしょ?」
セシルの思った通り、瞳の色と良く似合っていた。
「ありがとう、大切にする」
「着けるのは私の前だけで良いの」
きっと、それ以外では場違いなのじゃないかと思ったからだ。
「だめだよ、ずっと着けておく」
「ありがとう嬉しい」
手を引き寄せてギルはキスで返すと
「カフスボタンを……贈る意味は?」
「知らない」
くすくすと笑い
「でも……私の贈る意味は」
セシルは耳許に唇を寄せて
「ずっと側に……いるかのように、繋がっていられますように」
カフスボタンの光る手が、視線の隅を掠めて髪を背に払った。
「……俺の心は、ずっとセシルの元にある」
同じように耳許に囁かれて二人は身を寄せあった。
「ギルが好きな、辛いお酒を用意してあるの。飲むでしょう?」
「セシルが用意したものなら毒だって飲むさ」
その言葉にセシルは笑った。
「せめて惚れ薬と言って欲しかったわ」
「俺にはそれは効かないな。そんなもの必要ないんだから……」
辛いお酒を嗜みながらも、その夜はセシルにとって恋人と過ごす夢のように完璧な時だった。
***
まるで夢で逢ったかのように気がつけばギルはいなかった。
ただ……使った後のグラスとそれから、燃え尽きたキャンドル。そして、無くなったカフスボタン。
そして……胸元に残された薔薇の花弁の跡。それらが現実にあったことだと伝えている。
去っていくのをを見たくない
きっとセシルのその言葉を慮って、そうしてるのだろう。
そうしないと、追いかけたくなるから。そして引き留めてしまいたくなる。
完璧な夜だったはずなのに、やはり朝は完璧じゃない。
ベッドから下りて、そっと窓を開けばそろそろ夜明け。
静寂の街の中、遠くから馬車の音がした。
朝まで居ないのは、セシルの立場を守るため。決して、弄んだりしてる訳じゃない。
そうでなくては……こんな風に一年近くも……気を配ってくれる筈はない。
こんな風に、打ち消さないといけない考えを呼び覚ます朝は嫌いだった。セシルは、窓を閉めて再びベッドへ横たわり温もりの跡を求めた。
ギルはセシルという楽器の巧みな演奏者で、彼の唇も指も新しい旋律をセシルに覚えさせて、そして容易くギルの思いのままにリズムを刻ませ空気を震わせるように聞いた事のないような音を奏でさせる。
そんな時、ギルはとても切ないようなそれがとても艶やかな目を見せて、胸の鼓動をこの上なく速く打たせる。
彼のいない時は、奏者のいない楽器のよう。
音の奏でない楽器はたんなる物で、その見た目の素晴らしい工芸品でもない限りつまらないもの。
たがら今は楽を奏でた後の、余韻を探して浸るだけ。




