3,紅茶と刺繍
ギルは一週間を待たずにまた来てくれた。
店の扉をくぐったギルを見た瞬間に、またしてもセシルは跳ね上がってしまう心臓を御する事が出来ずに、早鐘を打たせたままいらっしゃいませ、と声をかけた。
「まだ……出来上がっていないのです」
約束の一週間はまだ来ていない。
「わかってて、来た。どうやって刺繍をするのか見ても?」
出来上がりがまだなのがわかってて、それでもわざわざここへ来てくれた、その事に頬が染まる。
「もちろん……」
店を奥のソファのさらに奥は、キッチンとそして作業をする裏方になっていて、セシルはそこで刺繍をしていた。
「あの……退屈じゃありませんか?」
側にいるギルを意識するあまり指が震えてしまう。
「普通なら……退屈しそうなんだけど、なぜかセシルのすることを見て、話をしているとね……。俺はどうやら楽しいらしい」
微笑みはあるけれど、からかわれているとは思いたくない。
扉が開く音がして、ギルが頷くのを見てセシルは店へと出た。
そこに立っていたのはブレンダ・アップルガース伯爵夫人だった。
小さな孫がいる優しい風貌の気さくな貴婦人は、セシルの心をホッとさせてくれる客の一人であった。
「こんにちはブレンダ様」
「こんにちは、セシル」
「ご依頼のお品は出来ておりますわ」
「良かったわ」
ブレンダから、彼女の次男の妻への贈り物の美しいサテンのケースに納められた銀細工の鏡とブラシに名前を掘るのを付き合いのある公房に頼みそれは仕上がっていた。
ソファに案内したセシルは、棚から商品を出して、その間にギルのいるキッチンに紅茶を淹れに戻る。
一緒にギルの分も淹れてそっと前に置いて、ブレンダの元へと戻った。
「お待たせ致しました。いかがでしょうか」
「ええ、思った通りいい感じだわ。ありがとうセシル」
にこにこと微笑んでセシルを見つめるブレンダは、満足そうに頷いている。セシルはそれを綺麗にラッピングするとブレンダの前にそっと座った。
「それはそうと、お兄様はまだ戻らないの?」
セシルはそっと肩を竦めた。
「ええ……未だに、帰りたくないみたいで」
「きっとそれは……向こうで好い人がいるわね」
くすくすとブレンダが笑う。
好い人……それなら、手紙に書いてくれてもいいのに、とセシルは思ってしまった。
「何か困ったことがあったら、わたくしに連絡しなさいね」
「ありがとうございます。そのお言葉だけで十分です」
「遠慮しないで。息子たちも結婚したし、そろそろ主人も爵位を譲ってゆっくり過ごそうと言うのよ。だけど、時には誰か頼られてくれないと、わたくしは一気に老け込んじゃうわ。だから、ね。お願いねセシル。うんとわがままを言って困らせてちょうだい」
「まぁブレンダ様ったら。これからお孫さまがいらっしゃるのに」
「あまりお祖母ちゃんが口を出すとお嫁さんに嫌われてしまうもの」
ブレンダはそう言って、立ち上がると
「また次のシーズンにねセシル」
「はい、またお待ちしております」
貴族たちは、これから領地へと帰っていく。
それはきっと……ギルもなのだろう。
店の外で待っていたブレンダのメイドへ荷物を手渡して、セシルは再び店の奥へと向かった。
ギルは余った布のはしっこに、見よう見まねで刺繍をしていた。
「難しいな。簡単そうにしてるのに」
「何でも……練習が必要ですもの。まずは簡単なものからです」
セシルが出してきたのは、本当に簡単な図案だ。
「して、みますか?」
「やってみよう」
なんだかむきになっている風なのが、なぜだかとても可愛いくみえてしまった。
「った」
みれば人差し指にぷっくりと赤い血が出ていた。
「あ……」
とっさに、その針で刺した指を口に含んでしまってセシルはその指の主と目があって、赤面してしまった。
指をガーゼで押さえて、
「続きは……またに」
それだけを言うのが精一杯だった。
「怪我なんてして……怒られます」
「セシルまで、子供扱い?」
ふるふると首を振った。
「こんなに、綺麗に手入れされている手なのですから」
「そう?良く見てよ」
パーで開いたその手には、何かで出来たタコがあったりして確かに滑らかではない所もあるが、爪の形を見れば常に綺麗に整えられてきたとそうわかる。
「でも……綺麗です」
「俺には、こんな綺麗な刺繍が出来るセシルの手の方がずっと綺麗に思える」
「ギル」
「ありがとう、手当てしてくれて」
にこっと明るい笑みを見て、セシルは思わずうつ向いた。
「これに懲りずに、また来ることを許してくれる?」
「もちろん……お待ちしております」
また、来てくれる。
そう聞いて、そっとうつ向いた顔を上げた。
ギルもまた、セシルに会いたいとそう思ってくれているのだろうか……。それは望む答えを当てはめている気がして、だけど、そうに違いないと確信してる自分もいて思わず、瞬きもせずにその表情を焼きつけた。
*****
約束の一週間……。
二つの刺繍は出来上がり、もはや次に来店してもらう理由は無くなってしまった。
出来上がったレティキュールを見つめながら、セシルは切ないため息を吐いた。
これが出来上がればギルは、ここへやって来る。けれど、これを渡せば、もうここへ来る事は無くなってしまう。
待つ人が形となって現れたのは、きっちり約束をした一週間。
「いらっしゃいませ」
にこっと微笑むギルは、この日も黒髪だ。
「奥に、座っても?」
「もちろん」
ギルのいう奥は、裏方の奥らしく勝手知ったる堂々とした足取りで、入っていく。
「あの、指は……」
「セシルの手当てが良かったから、もうすっかり」
怪我をした左手の人差し指をピンと立てて見せた。
手当て、と聞いてとっさに口に含んでしまったことを思い出して、またしても赤くなってしまう。
誤魔化すようにセシルは紅茶を淹れて、客人から貰ったお菓子を出した。
出してあったレティキュールを眺めているギルは、とても楽しそうで、
「ありがとう。きっと従姉妹たちは気に入るはずだ」
「それなら嬉しいのですけど」
ギルの従姉妹は、どんな人なんだろう……。
「そういえば、この店はいつ来てもセシルしかいないけど」
「兄は……いまフルーレイスにいるので、ここにいるのは私だけなのです」
「じゃあ、休みはないとか?」
「社交シーズンは終わりましたから、そろそろまとめてお休みを取ろうと思ってます」
「そっか……」
ギルはなにか考えた風で、
「じゃあ…少し俺と出かけたり出来るね」
「え……」
「明後日の朝、ここに迎えに来る」
「どこへ?」
「たまには…港町とかで食事をしたいんだけど、二人になりたい相手が居なくて。セシルとなら……そうしたい」
ここから近い港町と言えば、ブレイトか。
馬車なら日帰り出来ない事もない。
男性と二人きりだなんて、断るべきなのか……。
本音は断りたくない。そんな気持ちが、セシルの唇を動かしていた。
「海は……見たことがないのです。楽しみ、です」
「俺も、実は初めてなんだ。楽しみだよ」
明後日……。
その日、また逢える……。