28,湖の屋敷
テーブルに突っ伏して寝てしまっていたセシルは、すでに真っ暗になっている事に気づいて洗ってないままだった食器に気づいた。小さく欠伸をしながらそれを持ち、洗ってそれを拭いた所で扉がノックされていることに気づいた。
ギルからは来るとは手紙には書いてなくて、もしかすると兄がきたのか?と恐る恐る
「誰?」
と声を出す。
「俺……ギルだ」
とそう答えがあり、慌てて鍵を開けた。
雨の気配の残る風と共に、闇に溶けるような黒髪とそれを払うような青い瞳が飛び込んでくる。
扉を閉じる事も忘れてセシルはその体に頬を寄せた。
「信じられない、今は……これは夢の中?」
さっき起きたのは間違いで、もしかするとベッドの上なのじゃないかとそう思ったのだ。
けれど夢にしてはすべてが鮮明すぎて、感触もそして香りも。
目を閉じてそしてまた目を開ける。
「急にきて、ごめん。でも……やっと時間がとれたから。来てしまった」
腕に閉じ込められるように抱き締められて、セシルは深く息をした。
「ごめん、だなんて……。とても私は嬉しいのに」
ようやく逢えたばかりだというのに、離れていた時間がすぐにその事を思い出させてしまう。
「私が……どうすればずっと……一緒にいられるか、聞いたらギルを困らせてしまう?」
小さな声は、ギルの掠れた声を導いた。
「困らせられるわけがない。俺だって同じ気持ちだ。だけど、まだ」
「無理よね」
こんな情況でニコルとの話をするわけにはいかない、とセシルは言葉を飲み込んだ。
「あのね、ギル。兄さまが……帰ってきたの。だから私は今日もそれから明日も……お店はお休みしてるの」
「お兄さんか、良かったね。それは一安心じゃないのか?」
「それがね、兄さまったら。奥さんと赤ちゃんまで……連れてきたの。何も聞いてなかったら驚いたわとっても」
「結婚してたのか?知らない間に?」
「そうなの。どちらかというと、あんまり男らしくないから本当に意外だった」
くすくすと笑うと
「そういう時、妹のセシルは少し淋しくなるのか?」
「少しね……まるで別の人に会ったみたいな気がした」
セシルの言葉を聞いてギルは髪を撫で慰めるような仕草をした。
「それは、何となくわかるな。俺も兄が違う人になった気がした」
「本当?お兄様も……」
「さっき……明日も休みだと、言った?」
「言ったわ」
「前に………湖のある屋敷に行ったのを覚えてる?」
「もちろん」
「セシルがまだ……起きてられるなら、そこへ行ってゆっくり過ごすのはどう?」
「あそこで?」
もちろんセシルは忘れるはずがなかった。
思い出のネックレスはいつも、胸元にあり光っている。
「そこなら……ゆっくり過ごせるの?」
「ここに俺が朝までいるわけにはいかない。もし近所の人に見られたら、セシルの評判にかかわる」
「私の事なんて」
「それは俺にとっては一番大事なんだ」
セシルはギルを扉の前で少し待たせて、そして外へ出れるように急いで着替えをした。
そしてまた魔法のように現れた馬車に乗って、馬車の車内からギルが御者に通じる窓越しに行き先を伝えていた。
「シンストーンへ」
馬車についた灯りが仄かに路を照らしている。
馬車は規則正しい音を聞かせながら、二人を乗せて行く。
あの日と同じ月は、今日の曇り空では見られないだろうけどそれよりも、頼りなく細くなりかけていた信じる気持ちがまた、しっかりと沸いてくる。
信じて大丈夫なのだと……。
しばらく走った馬車は、灯りのほとんど灯っていない屋敷の前へと着けて、御者台から降りて扉を開けたのはセシルの知らない、強面の男性だった。
ギルに手を取られて降りるとギルは自ら屋敷の扉をあける。
この前と違い、最小限の灯りしか灯っていない屋敷は一段とシンと寂しげに見えた。
扉横にあるランプを一つ持ち、前に利用した部屋へと向かう。
部屋のランプを一つずつ灯して、ギルはベルを鳴らした。
「今日は来ると伝えていなかったから」
しばらくしてやって来た男性の使用人が、酒肴を乗せたワゴンを押してそれから、一礼をして下がっていく。
その間、一言二言しかギルと言葉を交わしていない。
「ねぇ……そういう、ものなの?」
まるで決まり事のようにワゴンが来るなんて、そういうことを当たり前のように泰然としている姿を見ればやはり別の世界にいる人なのだと感じさせられてしまう。
セシルには躊躇うような調度類だが、そこにゆったりと座りそれがしっくりと似合っている様を見れば何を聞いたわけではないけれど生まれ育ちの差と言うものを見せつけられた気がした。
「座って……隣に」
さっきまでは暗かったから気づかなかったけれど、ランプに照らされた今ギルの顔を見れば目の下に隈があるのが分かった。
「あまり眠れていないの?」
隣に座り、そっと指先で目の下をなぞる。
「色々と、やらないといけないことがあったんだ」
「大変だったのね」
ギルの飲むのはどうやらお酒のようで、作る様子はとても手慣れていた。
「少し飲む?」
「じゃあ、少しだけ」
薄めていれてくれたようだけれど、喉を熱くするお酒はたくさん飲めそうにはなかった。
「美味しさが分からないみたい」
そう笑いながら言うと、ギルはつられて笑った。
「ずっと……磨り減るような事をしてたから……今は凄く、満たされる。癒される」
ゆっくりと唇が重なって、そしてまた重なる。
繰り返されるその行為に、次第にお互いの熱が上昇していく。
触れられる手は優しくて、セシルは身を預けた。
どこかに残っていた、緊張はほどけていき本来持ち合わせていた想いだけが、残って浮き出された。
「もっと……ふれあいたい……」
微かな望みが、唇をついて溢れた。
グラスの氷の溶ける音がして、でもそれよりは吐息の方がもっと近くて、飲んだお酒の苦さは甘いようなキスがそれを打ち消して行った。
痺れるような指先は、いつもよりも鈍感なようでいて、それでいて体の隅々に至るまで敏感でまるで作り変えられたかのよう。
時は深夜……、雨の止んだその静かな室内には、時を刻む時計の音とそして衣擦れの音が艶かしく、それに合わせて詠うように熱い息が重なっていった。




