24,兄の秘密
いつものようにantique roseにやって来てお店の扉の鍵を開けようとして、それがかかっていなかったことに気がついてセシルは血の気が引いてしまった。
思わず固まって立ち尽くしていると、
「どうかしたの?」
訝しげにエスターが後ろから声をかけてきた。
「鍵をかけ忘れていたみたい」
「え?」
緊張したようすのセシルに、エスターは微笑むと
「ここは任せて」
と頼もしく微笑み、傘を手にしてさっと一振りすると、セシルよりも前を歩いて店へと入った。
店は特に荒らされた様子もなく、いつも通りなのに安堵しつつ、
「上と地下も見てみましょう」
エスターの声に、恐る恐る二階へと続く階段を上がると中から話し声が聞こえてきた。
「誰か居ますね」
「……まさか……」
開いていたからと誰か部屋に入り込んだのだろうか? そんな事をする泥棒が居るだろうか?
そう思っている間に、エスターが勢いよく扉を開けた。
「兄さま?」
そこに立っていたのは、今帰って来たと言わんばかりのニコルだった。見覚えのあるセシルと同じストロベリーブロンドの髪と、それから垂れ目がちの金茶色の瞳。男性にしては、すこし繊細な容貌をしている。
「セシル!………と、」
「お兄様でしたか。安心しましたね、私はエスター・アンドリュースと申します。こちらで働かせて頂いております」
エスターが冷静に微笑みお辞儀をした。それにニコルは店主のニコルだと答えている。
「そうなの……連絡もなく帰って来たから、泥棒かと思ったわ」
『あれ、手紙は出したつもりだけれど』
兄は振り向いてフルーレイス語で言った。
『きっとまだついてないのよ』
ニコルは……一人では無かったのだ。
くるんとした金の巻き毛と青い瞳のおっとりとした雰囲気の優しい感じのする女性だった。そして……その腕にはニコルとセシルに似た瞳の赤ん坊。
『紹介するよ。妹のセシル、セシル、彼女は俺の奥さんのアデル。それから娘のローズ、可愛いだろ?』
にこっとアデルは微笑んで、よろしくねとだけ口にした。
奥さん、とセシルは口の中で呟いた。
「兄さま、私は何も聞いてなかったわ」
「驚かせようと思って」
ポリポリと額を掻いて、
「それに……、父さんの世話をしてくれてた彼女とまぁ、なんていうか、慰められているうちに……そういう仲になったとか、手紙には書きづらくって」
「……まあ」
セシルは二人の顔を代わる代わる見つめた。
「私はお店を開けてきますから、ゆっくり降りてきて下さい」
エスターがにっこりと微笑んで
「ありがとう……ミセス・アンドリュース」
「ごめんな、セシル」
「わかったわ。……おめでとう、兄さま、それからアデルさん」
「ありがとう、よろしくね」
それにしてもまさか奥さんと子供までいたなんて。
もっちりとした頬を綻ばせてご機嫌にしているローズは文句なしに可愛らしくて、セシルはむちむちとしたその手に触れた。
『可愛いお手てね、ローズ』
「そういえばセシルも、もういい年頃だよな?」
「兄さま、ご自分が結婚したからって人にも押し付けるのはやめて下さいね。部屋は一応掃除はしてましたけど、赤ちゃんがいる環境としては……大丈夫なの?」
「大丈夫、二人でやってみる」
ニコルはにこにこと返した。ずっと父と暮らしていた兄ならばきっと大丈夫だろう。
「私はお店にいるわ、何か用があれば」
「わかった。頼むね」
セシルは階段を降りて、ため息をついた。
なんだか兄が違う人になったような気持ちだった。
やっと帰って来たニコルは、他の人の物であるかのようで……。
何もかもが突然すぎて動揺していた。
店へと降りるとちょうどマリアンナ・ウェルズ侯爵夫人が入ってきた所だった。珍しく一人ではなく、夫人連れだった。
「いらっしゃいませ」
「セシル、こちらはわたくしの友人でシエラ・アンブローズ侯爵夫人よ」
「はじめまして、店主の妹のセシル・ハミルトンです」
「こんにちは、セシル」
微笑んだシエラは、マリアンナと同じ年頃に見えて金の髪と紫の瞳が美しくて、全身からうっとりするほどの優雅さが溢れている。二人とも一目見れば女性として憧れずにはいられないだろう。
マリアンナにしては珍しく立ったまま、店内をあれこれ手に取り二人の夫人は楽しそうに話をしている。
「ええと、あなた」
「はい」
「これと、それと。それからあちらをお願いするわ」
エスターが快く応じて、セシルはソファをさりげなく示した。
「お店の方は順調?」
「ええ、ウェルズ侯爵夫人のお力添えのお陰だと思っております」
「堅苦しく言わなくて大丈夫よ。それにしてもお兄様はまだ帰る気配はないの?」
「いえ、それが……今朝突然に」
「あら、突然になの?」
面白そうにシエラが微笑んだ
「それも……知らない間に、奥さんと赤ちゃんまで」
そうこっそりと話すとマリアンナは扇越しに声をあげて笑った。
「ブレンダの言うとおりだわ。やっぱり好い人がいたのね」
「アップルガース伯爵夫人とそんなお話を?」
「ええ、あなたもわかるでしょうけれど、とにかく女性というものは、お喋りが好きだもの」
そうマリアンナが言うと、シエラも控えめに微笑んでうなずいている。
目の前には、エスターが商品を並べる。
「ミセス・アンドリュース、少しお願いするわ。私はお茶をご用意してきます」
商品の説明を任せてキッチンへと下がり、お茶を用意する。
そしてトレーに乗せて、運ぶと和やかにエスターは接客をしていてセシルは、そっとお茶を並べた。
「兄は上に居るのです、ご挨拶に来させてもよろしいでしょうか?」
「あら、そうなの?それはからかってやらなくては」
ふふふっとマリアンナが笑い、セシルはニコルを呼びに行った。
二階へと上がり扉をノックして開けると、
「兄さま?少し下へ来られる?」
そっと開けて、その光景にドキッとしてしまった。
アデルはローズに授乳していて、それをとても優しくニコルが見守っていたからだ。
それは美しい家族の姿に見えた。
「誰か来られてるのか?」
「ウェルズ侯爵夫人とアンブローズ侯爵夫人が」
「そうか、それは是非ご挨拶に伺わないと」
ニコルは立ち上がると、アデルの額とローズの頬にキスをして
『大事なお客様なんだ、ご挨拶に伺ってくる』
そう優しく囁いた。
『いってらっしゃい』
『アデルさん、ごめんなさい。すこし兄さまを借りますね』
セシルもまた懸命におっぱいを飲んでいるローズを刺激しないように囁く声で言った。
「……驚いたわ……」
「ああ、授乳?セシルはまだだもんな」
「それも、だけれど……兄さまが、ちゃんとお父さんに見えて……」
「なんだ、淋しいのか?アデルとローズは大切だけれど、セシルも俺にとっては大切な妹だ」
「その妹を2年も放ってたくせに」
「それは……ごめん。俺も、必死だった」
「よーく、分かったわ。今日のそれも朝の一瞬で」
くすっと微笑む。
ニコルは店へ入ると、きちんと顔を引き締めてマリアンナのそばへと行き挨拶をしだした。
時おり笑い声がしているから、きっとからかわれているに違いない。
「セシル、また来るわね」
マリアンナがそう声をかけて、
「ねぇ、お兄様も帰ってきたしセシルには、わたくしが良い旦那さまを紹介したいわ」
「え?」
「それとも……誰か約束をしている人でもいるの?」
「あの……」
どう言えばいいのか戸惑う。
「実は……想う人がおりますから……今は」
「あら……そうなの?残念だわ」
「わたくしも、また来るわねセシル」
シエラもそう言い、二人は楽しそうに店を後にした。
「なんというか、美しい夫人だな」
ニコルの言葉にセシルは頷いた。
「あ、そうだ。今日の夜は一緒にご飯にしよう。あそこ……たしか、flying pumpkin。そこにいこう。ミセス・アンドリュースも一緒に」
ニコルの提案に、一言つけ加えなければならない。
「息子さんもじゃあ一緒に」
とセシルが言うとエスターは
「じゃあお言葉に甘えますわ」
と答えてくれた。
ひさしぶりにとても賑やかな食卓になりそうだった。




