第79話 伏兵 三人称
暗闇と響き渡る轟音、次々と湧き起る味方の悲鳴。突然の攻撃と見えない敵、未知の武器に兵士たちの間に驚きと不安が広がって行く。
「な、何だ? 何が起こったんだ?」
「ど、どこからの攻撃だ?」
「美濃勢の攻撃だっ!」
「今の音は何だ?」
指揮するはずの武将たちの混乱は兵士たちを更なる恐慌状態に陥らせた。
「森だ、森の方から矢が飛んで来るぞっ!」
「し、死んでるっ!」
「森だ、森に敵が潜んでいるっ! 逃げろっ!」
「た、助けてくれっ!」
松明の灯りに照らされた街道の右側面に広がる青田に、幾人もの兵士たちが身を躍らせるようにして飛び込むと、それに遅れて武将たちの指示が飛び交う。
「右側だっ! 右側の田へ、青田の中へ身を隠せっ!」
「馬を盾にしろっ!」
その声に兵士たちが我先にと青田の中に飛び込む。
河尻秀隆は伏兵に気付かずにまんまと攻撃を受けた事実と、混乱する自軍の様子とに苛立ちを覚えていた。
「落ち着けっ! このままでは敵の思う壺だぞっ!」
だが、兵士たちの混乱が収まる様子はない。
「矢ですっ! 河尻様、銃声に続いて弓による攻撃が続いております。負傷した者の大半は矢によるものです」
「確かか?」
「はい、種子島の発砲と同時に大量の矢を射かけて来たようです。今も弓による攻撃は続いておりますが、種子島の攻撃はありませんっ」
河尻秀隆は馬首を巡らせると、
「落ち着けっ! 銃声は止んだっ! 敵は森の中から矢を射掛けている。隊列を組みなおせっ! ――」
混乱する部隊へ向けて大声で指示をだす。
「――槍隊は盾を構えて前面へ。弓隊は槍隊の後ろから森へ矢を射掛けろっ!」
その声と同時に三度目の銃声が響く。銃声に続いて、街道の右側に広がる青田から悲鳴が上がった。
「うわっ!」
「伏兵だっ!」
「青田の中に伏兵がいるぞーっ!」
「槍で突かれた。敵だっ、敵の兵が潜んでいるぞっ!」
青田に飛び込んだ者たちのあちらこちらから、悲鳴と伏兵の存在を報せる叫び声が上がる。
その声に隊列を組もうと動き出した槍隊と弓隊の動きが止まった。
混乱は最後尾にまで達していた。河尻秀隆の目には最後尾付近の兵士たちが松明を持ったまま青田へと逃げ込む様子と、街道に転がる幾つもの松明の灯りが映る。
「河尻様、街道の左右からの挟撃を受けています。ここは一旦青田側の敵を蹴散らすか、街道を後退して体制を立て直しましょう」
そう進言した武将の目は、種子島と弓矢で遠距離から攻撃してくる森側に伏せていた敵よりも、自軍の兵士たちと切り結んでいる青田側の敵へ突撃すべきだと訴えていた。
街道を後退するのは混乱に拍車をかけると判断した秀隆はすぐに号令をする。
「青田の敵を蹴散らせっ! 態勢を立て直して迎撃するぞっ!」
秀隆の号令が届かない者たちも次々と青田の中へと駆け込んだ。
◇
島清興の傍らに突然現れた黒装束の武将が声を上げる。
「島様、織田兵はこぞって青田の中へ、罠の中へと飛び込んでいきます」
百地丹波の配下、竹中家では『忍者』とか『忍び』と呼ばれる者たちだ。
「いつ着替えたのだ?」
緊迫した場面ではあったが、怪訝に思った島清興が思わず口にする。
全身黒づくめで、顔も黒い布で隠され眼だけが覗いている。背中には刀を背負い、甲冑の類は身に着けていない。
清興に問われた黒装束の武将は誇らしげに口を開く。
「はい、つい一時間程前に着替えました。大殿様から頂戴した我らの戦装束でございます」
「殿が?」
島清興の中に幾つもの疑問が湧き上がった。だが『大殿のする事なので何か理由があるのだろう』、と納得してそれ以上触れることはしなかった。
押し黙った島清興に黒装束の男が告げる。
「暗くてはっきりとは分かりませんが、島様の作戦通り青田の中に伏兵がいると勘違いして、益々混乱をしているようです」
「私の作戦ではない。殿の作戦だ。私は殿のご指示に従っているだけだ」
「そうは申しますが、この部隊の大将は島様です。大殿がこれだけの種子島を任せたのも島様だからでしょう」
竹中家が保有する種子島、百五十丁。その内五十丁は浅井賢政に貸し出されている今、自由になる全ての種子島が島清興の指揮下にあった。
島清興はその事実に、主君である竹中重治からの信頼の厚さに昂揚する。
「おだてるな――」
口ではそう言ったが、一瞬だけまんざらでもない顔を見せると、すぐに気を引き締めて夜目の効く黒装束の男に指示を出す。
「――敵の状況を詳しく報せてくれ」
「畏まりました」
黒装束の男の返事と共に、彼の配下たちが一斉に走りだした。島清興はその後ろ姿から街道とその向こうに広がる青田へと視線を向ける。
「青田に設置した罠は有効の様だな」
青田の中に伏兵は配置されていなかった。
槍の穂先や折れた刀剣が走って来た兵士に突き刺さるような形でそこかしこに設置されている。
報告した武将の言う通り、織田勢の兵士たちは青田の中に身を隠すどころか、あたり構わずに槍や刀を振り回す。
居るはずのない敵を相手に槍や刀を振り回して仕掛けた槍や刀剣に自ら突っ込んで行った。
敵の状況を確認するように眺めている島清興の背後から別の黒装束の男が報告した。
「街道に残っている敵兵はいません。混乱状態が続いているようで、青田の中から味方同士で切り結ぶ音が聞こえます」
島清興は主である竹中重治の描いた通りに作戦が運んでいる事にほくそ笑む。
「よしっ! 弓は間断なく射掛けろっ! 鉄砲隊は第一隊と第二隊の準備が完了したら私に報せてくれ」
「はい、畏まりました」
◇
織田の兵士たちは森の中から轟く轟音と降り注ぐ矢から逃げるようにして青田の中を突き進む。それは最早軍勢の体を成してはいなかった。
青田の中を槍や刀を振り回して、恐慌状態で進む織田兵たち。
そんな中、一人の武将が異変に気付いた。
「おい、青田の中に敵兵士は居ないぞっ!」
「罠だ、槍や刀が仕掛けられているだけだっ!」
だが、混乱の中にある織田軍の兵士たちには容易く伝番していく事は無い。
業を煮やしたように一人の武将が大声で叫ぶ。
「青田の中に伏兵はいないっ! 槍や刀剣が仕掛けられているだけだっ! 慌てるなっ! 同士討ちを――」
指揮する武将の声はそこで途絶える、背中に幾つもの矢を受けたその武将は青田の中へと沈み込むように倒れた。
だが、それに続く武将もいた。
「罠だっ! 伏兵はいないっ! 敵の罠に踊らされるなっ!」
その声は少しずつ広がって行くが混乱を治めるには至らない。
「河尻様っ、統制が取れません。兵士たちが混乱しておりこちらの声が届かない状況です」
秀隆も言われるまでもなく分かっていた。もはや、自軍の状態は敗走する軍勢のそれである。
◇
青田に伏兵はおらず、罠が仕掛けられているとの叫び声は、森の中から弓矢を射掛ける島清興の部隊にも届いていた。
「敵が気付いたようです」
黒装束の男の言葉に島清興は小さく首肯すると、一際大きな声で指示をだす。
「ここまでで構わない。あらかじめ指示しておいた手順で退却させろ」
清興の言葉に従って、彼の指揮する部隊は大きく動き出した。
兵の大半が森の中を通って退却し、種子島を携えた島清興率いる百人余りの兵がこれ見よがしに街道へと向かう。
島清興が種子島を手に傍らを走る黒装束に聞く。
「織田勢の様子はどうだ?」
「何人かが街道に向かって移動しておりますが、ほとんどの者はこちらに気付いてもいないようです」
「大半は青田の中だな?」
「はい。敵兵の最後尾が青田の中ほどまで入り込んでいます」
「十分だ、このまま街道へ出るぞっ!」
清興の号令で街道へ飛び出した兵士たちは街道に出ると、即座に隊列を組み種子島を構えて射撃の体制を取る。
◇
「河尻様、街道に美濃兵が姿を現しましたっ!」
秀隆が街道を振り返ると、森の中から生い茂った夏草をかき分けて、美濃の兵士たちが次々と姿を現しているところだった。
わずかばかりの松明の灯りに浮かび上がる美濃兵たちは、ほとんどの者が種子島を携えている。
「何て数の種子島だ……」
秀隆の耳にそんなつぶやきが届いた。
街道に現れた美濃兵たちの数は秀隆の予想よりもずっと少ない。だが整然と隊列を組み、自分たちに向けられた種子島の数は想像をはるかに超えていた。
「伏せろっ! 青田に身を隠せっ!」
種子島の威力を知っている河尻秀隆が真先に怒声を上げた。続いて部隊長と思しき武将たちの声が響く。
「伏せろっ!」
「全員地に伏せろっ!」
あちらこちらで響く指示の中、今回の奇襲部隊の大将を務める島清興の号令が下される。
「鉄砲、構えろっ! ――」
島清興の号令で五十人の武将が狙いを定める。
「――撃てーっ!」
号令に続いて乾いた音が響き、青田の中から悲鳴と呻き声が上がる。
第二射は行われなかった。
混乱する織田勢を尻目に街道に姿を現した百人余りの美濃勢が守山城へ向けて一斉に走り出した。
「敵の、美濃の伏兵はあの程度だったのか――」
走り去る美濃勢の後ろ姿を茫然と見送りながら、河尻秀隆が立ち上がる。
「――ふ、ふざけるなっ! たった、たったあれだけの兵にやられたというのかっ!」
「河尻様落ち着いてください」
秀隆は怒鳴り散らす彼に落ち着くよう声を掛けた武将を睨み付けると、大声を轟かせる。
「兵をまとめろっ! 追撃するぞっ!」
「負傷者がかなりおります。先ずは死者と負傷者の正確な数を把握しませんと――」
言葉を遮って
「構わんっ! 動ける者だけでいいっ! すぐに兵をまとめて連中を追撃するっ! 負傷者は後から来るように伝えろ、守山城で待っていると伝えろ――」
追撃の決定を下す。
「――敵の数は少ないっ! 守山城を包囲する兵は五百。今の伏兵と合わせても六百余りだ。追撃するっ、続けーっ!」
だが、秀隆の声が幾ら大きくとも、青田の中で恐怖に怯え、混乱する兵士たちには届かなかった。




