第170話 熱田視察(7)
熱田の海岸線を歩く影が二つ。
一人は人のよさそうな顔をした小太りの青年武将で、膝下まであるロングコートを羽織っている。
もう一人は十五、六歳の目鼻立ちのしっかりとした少女で、ロシア帽子を被り、ロングコートを羽織り、膝まであるロングブーツを履いていた。
素材はこの時代には珍しい、ウサギの毛皮が使われている。
一際人目を惹く出で立ちの二人であったが、奇異の視線を向ける者は皆無であった。
青年の名は小早川繁平。
沼田小早川家の前当主であり、現当主となる小早川隆景の正室の兄でもあった。
現在は土佐一条家の食客である。
彼の傍らを歩く少女の名は桔梗。
尾張と美濃、三河の一部地域を領有する大大名・竹中半兵衛配下のくノ一であり、半兵衛の正室である恒の侍女でもある。
「桔梗さん、寒くはありませんか?」
十数分間、無言で歩いていた繁平がようやく口を開いた。
「私は大丈夫です。小早川様こそ寒いのではありませんか?」
桔梗が即答する。
この五日間、幾度となく似たようなやり取りが繰り返されていた。
「桔梗さん、今日が最後ですから、今日だけは繁平と呼んでもらえませんか?」
「恐れ多いことです」
身分の違いを持ちだして距離を取ろうとする。
昨日までの繁平であればここで引き下がったのだが今日は違った。
桔梗の正面に回ると真っすぐに桔梗を見つめる。
「繁平と呼んでください」
どこからともなく楽隊の調べが聞こえてきた。
奏でるのは一条兼定配下の武将たち。
兼定曰く、「急造の楽隊だからあんまり期待はしないで欲しいんだ」とのことであったが、小舟の上で波に揺られながらの演奏にも関わらず聞く者を十分に魅了した。
その調べに涙を流す忍者たち。
「もう一度言います。私と結婚してください」
「繁平様……」
繁平の真剣な眼差しから桔梗が視線を逸らす。
「私の正室となって頂くことはできませんか?」
「恐れ多いことです」
ここ数日、返答に困った桔梗が口にする言葉だ。
繁平は「またその言葉でにげるのか」、と押し黙ってしまった。
いまにも泣き出しそうな顔をしている。
そんな繁平に桔梗が意を決したように言う。
「繁平様、私には大望がございます」
「大望、ですか? その大望は……、貴女にとって私と結婚するよりも大切なことなのでしょうか?」
直感した繁平が聞き返した。
桔梗の返答が想像できる。
繁平の胸が締め付けられる。
いまにも逃げだしたいのを必死に堪えて桔梗の次の言葉を待った。
「何ものにも代え難いものです」
繁平の予想を裏切らなかった。
桔梗は凛とした顔で繁平のことを真っすぐに見つめてそう口にした。
「その大望を聞かせて頂けませんか?」
涙を堪えた繁平が必死に笑顔を作る。
それに気付いた桔梗がポツリ、ポツリと語りだした。
「私たちの一族はとても貧しく、その日その日を生きるのが精一杯でした。それこそ、酷いときは飢えと病気で毎日のように誰かが死んでゆくのです」
戦国時代の貧しい地域であればそんなこともあるのだろう。
繁平も知識としては知っていた。
まして、桔梗は素破と呼ばれる者たちである。
最下級の暮らしを強いられていたのは想像に難くなかった。
繁平は只、無言でうなずく。
「そんな我らに希望を与えてくださったのが大殿――、竹中様です。その日その日を生きるのが精一杯の我らに明日を与えてくださいました」
文字通り泥をすすって生きてきた。
わずかばかりの報酬で命を懸ける。
命じられた仕事にも関わらず、卑怯者のすることよ、浅ましい仕業よ、と命じた者たちから蔑まれ、忌み嫌われる。
自分たちが何の価値もない存在なのだと信じて疑わなかった。
辛い日々を語る桔梗の頬を涙が流れる。
繁平の胸が締め付けられる。
目の前の華憐な少女が淡々と語る日々を想像して涙が溢れだした。
叫びだしたかった。
少女を抱きしめたかった。
そんな衝動を無理やり抑え込んで、ただただ涙を流しながらうなずいた。
突然、少女が幸せそうな笑みを浮かべて言う。
「大殿の領地に来た日の驚きは、こうして目をつぶると昨日のことのように鮮明に思いだせます」
目を閉じた桔梗が続ける。
「整然とした美しい田畑。そこに注がれる水のなんと清いことでしょう。陽の光に輝くさまは同じ水とは思えませんでした。でも、最も驚いたのはそこに暮らす人々です。民の誰もが幸せそうな顔をしているのです。私たちの里はおろか、いままでそんな領地をみたことがありません」
桔梗の言葉と表情が繁平を打ちのめした。
この少女のなかで竹中半兵衛がどれほど大きな存在なのかを思い知る。
そんな繁平の思いなど気付かない少女は言う。
「私は大殿の御恩に報いたいのです。いいえ、微力でも構いません、大殿のお役に立ちたいのです」
「竹中さんのことが好きなんですか?」
「そんな浮ついたものではありません。この身も命も大殿のためにあるのです」
竹中さんはそんなことを望んじゃいない!
繁平は喉元まで出かかった言葉を飲み込んで言う。
「私との結婚は別にしても、竹中さんは桔梗さんに普通の女性として幸せになって欲しいと願っていると思います」
「そうかもしれません」
桔梗が「大殿はお優しいですから……」、と寂しそうに微笑む。
「じゃあ!」
桔梗が静かに首を振る。
「それが大殿のお考えだとしても、私の気持ちは変わりません。この身も命も大殿のためにあります」
「ずるいな……」
流れる涙も気にせず繁平がなおも言う。
「何で桔梗さんを助けるのが私じゃなかったんだろう……、何で私は小早川繁平なんだろう……」
「繁平様……?」
「何でもありません」
涙を拭いながら愚痴だと、聞き流して欲しいとつぶやいた。
「大殿からうかがっております。繁平様はこの国だけでなく、外の世界をも変えるお医者様だと」
「買い被り過ぎです」
自分自身が何も成していないことを思い知る。
それに比べて、竹中半兵衛や一条兼定の成したことの素晴らしさ、これから成そうとしていることの偉大さ。
その思いが繁平の心に重く圧しかかる。
「繁平様の悪いところですよ」
「え?」
桔梗が初めて繁平をたしなめた。
「繁平様は、ご自身で思うよりもお強く、とてもお優しい方です。ご自身を卑下せずに突き進んでください」
そうすれば竹中半兵衛の言うように、きっと世界の医学を変えることが出来るでしょう、とほほ笑む。
「ありがとうございます。桔梗さんは優しいですね。私は貴女を愛したことを誇りに思います」
「繁平様……」
困った表情を浮かべる桔梗に言う。
「今日のところは諦めます。でも、貴女を正室に迎えることを諦めたわけじゃありません。これからの私を見ていて下さい。貴女の一言で変わった私を見ていてください。竹中さんの偉業には到底及ばないかもしれません。それでも精一杯の私を見ていてください。貴女の前で胸を張れる男になって出直します」
「繁平様なら必ずや偉業を成し遂げられると信じております」
「私は貴女を必ず正室に迎えます」
「私の気持ちは変わりません」
「いいえ、人の気持ちは変わります。私は桔梗さんの気持ちを変えてみせます」
「繁平様……」
「もうこの話はここまでにしましょう。明日の朝には四国に帰ります。今日はお互いに楽しい思い出を作りましょう」
ダメですか? と繁平が目で訴えた。
その情けない表情に桔梗が思わず吹き出すと、繁平が不思議そうに彼女を見る。
「何かおかしなことを言いましたか?」
「いいえ、なにも。繁平様のおっしゃるように今日は楽しませて頂きますね」
「ええ、よろしくお願いします」
何か吹っ切れたような笑顔の繁平が桔梗の手を取った。
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◆あらすじ
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日本に帰っても待っているのは退屈で未来に希望を持てない毎日。
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URL
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