第127話 逃亡(8) 三人称
優勢と思い込んで突撃を仕掛けた直後の伏兵。
見たこともない数の鉄砲の一斉射撃。
轟音が小早川隆景の手勢を混乱に陥れた。
「慌てるな! 落ち着けー! 距離はある、音だけだ!」
小早川隆景の声が、混乱する兵士たちの叫び声にかき消される。
「殿! 味方は総崩れです」
「これ以上は益がありません、撤退しましょう」
益がないことなど分かっていた。
それでも……
「小早川繁平はどうなった? 仕留めたのか!」
「分かりません。海へ飛び込んだとの報告はありましたが、それも確認は取れていません」
迫る軍勢と、小早川繁平を仕留めきれなかったことに歯噛みする。
小早川繁平が逃亡を図ったと知ったときから、どこか手引する勢力があるだろうとは予想していた。
大友、尼子、山名、宇喜多、三好。そして一条。
最悪の予想は三好家。
だがその最悪の予想をあざ笑うように、一条家と伊東家を中心に長曾我部、相良、大友、肝付の旗を翻す船団が現れた。
「連合したというのか……」
隆景は己のつぶやきに戦慄する。
小早川繁平を担ぎ上げて、小早川家の切り崩しにかかる未来に、背筋が凍る。
さらに竹中家の軍勢が自分を脅かす。
理不尽な状況に、隆景が慟哭する。
「なぜだ、なぜ竹中家がここにいる! なぜ、あれ程の戦力を投入してくる!」
なんの取柄もない、部屋住みの若造を始末するだけだったはず。
それがなぜ、我が身が脅かされる状況になるのか。
「撤退する! 手勢をまとめろ! 証拠を残すな!」
隆景の号令と、正面を指さす武将の声が重なった。
「と、殿! 騎馬の一団が我が方の手勢を抜けてきます!」
「なに!」
傍らの武将が示す先に、竹中本軍の旗が翻る。
「竹中本軍です。いや、竹中重治本人です! 当主自らが先陣を走っています!」
「後続多数! 竹中重治の後ろに多数の騎馬!」
「防げ! 討ち取ることは考えなくていい、近づけるな!」
竹中重治の突撃に隆景が肝を冷やす。
同時に肝を冷やして叫ぶ男がいた。
明智光秀。
竹中重治が投入した、今回の最大戦力の指揮を任された男。
「なぜだ! なぜ大殿が先陣を走っている! 百地丹波! なぜお前が、大殿と一緒になって先陣を走っている!」
予想はできた。
無茶を言って独走した主に、止めきれなかった百地丹波が追いすがる。
光秀の脳裏に善左衛門の声が蘇る。
『武芸の腕はあるが実戦はからっきしだ。野盗討伐で寺に討ち入ったときも冷や汗ものだったが、稲葉山城攻めではあわや敵に討たれるところであった』
『殿を前線にださせない。これは我々の命題だな』
「矢だ、大殿と小早川隆景の軍勢との間に矢を射かけろ! 大殿を近づけるなー!」
悲痛な叫びに応え、無数の矢が放たれた。
小早川隆景へ刃が届く道を切り開く矢と、竹中重治を近づけないようにする矢とが乱れ飛ぶ。
「小早川隆景の軍勢が撤退していきます」
「鉄砲隊、第二射の用意を急げ! 小早川隆景を逃がすな、千載一遇の機会だ! 弓隊は大殿を近づけさせるな!」
光秀のなかに安堵と焦燥が、ない交ぜとなって沸き上がる。
「大殿の手勢が、小早川隆景の軍勢に突っ込みましたー!」
その叫び声に光秀が腹をくくった。
「利三、鉄砲隊の指揮は任せた!」
「と、殿?」
突然の命令に茫然とする斎藤利三をよそに、光秀の号令が轟く。
「騎馬隊と足軽は突撃だ! 敵は小早川隆景! 突撃ーっ!」
光秀の率いてきた騎馬隊と足軽隊が、弾かれたように飛びだす。
竹中重治を睨みつける隆景の耳に、新たな脅威の知らせが飛び込んでくる。
「明智光秀の部隊が突っ込んできます!」
「防げ! 明智隊を近づけるな。撤退だ、撤退する!」
隆景が馬首を巡らせた。
騎馬のいななき、兵士たちの怒声と悲鳴が、喧騒となって辺りに響き渡る。
甲冑の音、刃の交わる音が、罵り合う声を相俟って、乱戦であることを伝える。
「殿、小早川隆景が逃げます!」
隆景の背中を一瞥した光秀が声を張り上げる。
「大殿は! 大殿は無事か!」
「ご無事です! 本軍は健在です!」
その声に安堵した光秀が、隆景に向かって騎馬を駆けさせた。
「小早川隆景を討ち取れー! 逃がすな!」
二十騎以上の騎馬が光秀に呼応して駆ける。
刹那、光秀は無数の火花を目の端に捉えた。続く轟音が夜の闇をつんざく。
光秀が率いてきた鉄砲隊が放った第二射。
隆景と共に撤退していた騎馬がいななきと共倒れる。武将が悲鳴を上げて、くずおれる。
「小早川隆景、健在!」
隆景と彼を守る騎馬隊は、半数以上が健在だった。
その光景に光秀が天を仰ぐ。
「届かなかったかーっ」
隆景を討ち取る千載一遇の機会。それを逃したことに歯噛みする。
そのとき馬蹄を響かせて、疾走する騎馬の一団が、夜の闇に浮かび上がった。
「騎馬の一軍が抜け出ました!」
「明智秀満隊!」
「秀満様の部隊が抜け出ました!」
光秀が号令で応える。
「矢を射かけろ! 秀満の進む道を切り開けー! 秀満の刃を小早川隆景に届かせろー!」
即座に矢が放たれた。
秀満と隆景との間に立ちふさがる歩兵に向けて、無数の矢が降り注ぐ。
「殿が我らの進む道を作ってくれたぞ! 突っ込め! 手柄は目の前だ!」
秀満が鼓舞する。
歓声と共に秀満率いる騎馬の一隊が、隆景の部隊に切り込んだ。
「明智隊が突っ込んできたぞ!」
「殿をお守りしろ!」
「ち、近づけるな!」
秀満隊の突撃に隆景の部隊が混乱する。
大きく崩れた。
混乱するなか一人の武将を守るように騎馬が集まる。
「あいつに間違いない!」
秀満はそう叫んで、槍を投げた。
秀満が小早川隆景と予想した武将が乗る馬を槍が貫く。
馬が倒れ武将が放り出された。
その武将目がけて秀満の駆る騎馬が駆ける。数騎の騎馬武者がそれを追う。
「と、殿ー!」
「お守りしろ!」
落馬した武将を、守るように駆けていた騎馬武者が、慌てて騎馬の足を止めた。
「俺が、明智秀満だー!」
混乱のなか、秀満の叫び声が轟く。
騎馬から飛び降りざまに、落馬した武将に切り掛かった。
秀満の刃は隆景の振り上げた右腕を切り飛ばし、わずかに頭をかすめる。
「ぐうっ」
右腕を切り落とされ、こめかみを傷つけられながらも隆景が地面を転がって逃れようとする。
「まだまだ!」
秀満が転がる隆景に、再び切りつけた。
「小僧が!」
秀満の刃を、隆景の振り上げた右脚が受け止めた。
刃は肉を裂き、骨を断ったところで止まる。
「殿ー!」
「若造がー!」
隆景の周りを固めていた二人の武将が秀満に切り掛る。
それを秀満と共に突撃した武将が防いだ。
「撤退だ、撤退しろ!」
「退けー! 」
両軍のあちらこちらから、撤退の意思を示す声が次々と上がった。
◇
「小早川様、大丈夫ですか?」
夜の海、桔梗が小早川繁平の手を引く。
少し離れたところで囮役の八郎太が松明を大きく振った。
「八郎太さん、囮はもういいです」
「殿、あれは八郎太殿が竹中様から任された役割です。口出しは無粋と言うものです」
背後の田坂頼賀に小早川繁平が反論する。
「だめだ、私なんかのためにこれ以上死んでほしくないんだ」
「皆、殿を無事に一条様の下へお連れするために、命を懸けているのです。それを無駄にするようなことはされるな」
田坂頼賀のいつになく厳しい口調が響いた。
その直後、桔梗の震える声が聞こえる。
「一条様の小舟です。あと少しです、小早川様」
二十メートルもないところで、松明を振る若者が叫ぶ。
「小早川さん! 俺だ、一条兼定だ! 約束通り迎えにきたぞ!」
「一条家のご当主が、なぜこんなところに……」
田坂頼賀が茫然とつぶやき、八郎太と桔梗はその姿に、自身の主である竹中重治を重ねて息を呑む。
「一条さん」
小早川繁平がつぶやいた瞬間、幾つもの鈍い音が間近で聞こえ、右肩に激痛が走った。
「グワッ」
「小早川様っ!」
「肩に矢が刺さったようですが、深手ではありません。大丈夫です」
「ゴフッ」
桔梗に答える小早川繁平の声と、くぐもった声が重なった。
「田坂様っ」
桔梗が短い悲鳴を上げた。
「田坂さん! 矢を受けたのか! 診せて、すぐに治療をしないと」
辺りからは小早川繁平を追う毛利勢と、救出にきた一条兼定の軍勢の叫び声が飛び交う。
小早川繁平にはどこか遠くの声に聞こえた。
ハッキリと聞こえたのは田坂頼賀の弱々しい声。
「殿、お逃げください。私はここまでです」
「大丈夫だ、まだ大丈夫だ。治療すれば助かる」
助からない。
田坂頼賀の背に突き刺さり、胸へと抜けた幾本もの矢。それを目の当たりにしてすぐに分かった。
「殿、年が明けて、からの殿は、人が変わられた、ようでした」
「しゃべらないで。一条さんのところにたどり着けば助かりますから」
涙で視界がにじむ。
「いままで、の無気力な、と、殿が嘘のように、か、変わられた。殿が変わられて、私も、変わりました。き、希望が持てました」
「田坂さん!」
「殿、よ、良い夢を、見させて、い、いただきました。ありがとう、ございます」
「田坂さん……」
「お家を再興してください……」
田坂頼賀が目の前で海に沈んだ。
「田坂さん!」
「小早川様!」
海に潜ろうとした小早川繁平を桔梗が抱き着いて止める。
「桔梗さん、放してください。田坂さんを助けないと……」
「小早川さん! 逃げるぞ!」
いつの間にか追手を駆逐し、一条兼定の乗る小舟が側まできていた。
「一条さん、田坂さんを、田坂さんを助けてください。たったいま、海に沈んだんです」
「よし、分かった。誰か――」
「殿、あの者は助かりません。致命傷でした。既に絶命しています」
一条兼定の言葉を遮って、土居宗柵が首を横に振る。
「何を言っているんだ。小早川さんが助かると言っている以上は助かる。すぐに助け出してくれ」
「戦場で幾つもの死を見てきました。あれは、無理です」
「だったら、俺が行く!」
「ごめん、一条さん。もう、十分だ。ありがとう……」
立ち上がった一条兼定の脚を、引き揚げられた小早川繁平が掴んだ。
「いいのか?」
「助からない。あれは助からない……助からないって分かるんだ……」
小早川繁平の嗚咽が響く。
一条兼定は無言で、松明の灯りを消すように指示をだした。
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是非とも、そちらもよろしくお願い申しげます。




