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覚悟とはなんだ?
それはつまり、搾取することへの覚悟なのだ、と、谷本さんは語った。
「どんなに言い訳をしたって。どんなにあれこれを理由を付けたって。先進国の豊かさの何割かは、後進国からの搾取によって成り立っている」
「それはつまり、やたらと安い値段で労働力を買ったり、生産物を買ったりするってこと?」
「それもあるけれど、もっと根本的な問題」
寂しそうに笑って、彼女は拘束された子供たちを一瞥した。
「資源や生産物や労働力の信じ難い価格での買い取りも確かに存在する。日本でバイト同士雑談しながらカウンターに寄りかかって仕事していても一時間にもらえる賃金の額は最貧国からすれば吃驚するような額になる。けれど、それ以上の問題も存在する」
「それは……どういう」
「直接富を不当に奪うことだけを搾取とするなら、アンフェアな取引は搾取だけれど、でもその規模だけでは先進国の豊かさは成り立たない。ねえ、早瀬君、私、以前こんな話をされたのだけれど」
言って、彼女は僕の顔に自分の顔を近づけた。声を細め、間近から直接僕の体内に流し込むように言葉の続きを口ずさむ。
「別に先進国は後進国をいじめていないって話。搾取なんてしていないんだって話。最貧国たちの貧しさはあくまで現地の政情なんかにあるのであって、先進国のせいではないって話」
おかしそうに、謳うように、流し込んでいく。
「むしろ先進国の企業やら何やらが流入するから現地の人々は賃金を得られるし、次第に技術や資産が流入すればそうした後進国もどんどん豊かになるって。本当に貧しくて紛争なんかで混乱していて、他国の企業が入っていかない国はだからずっと貧しくて、でもそういう国からは先進国は何も奪っていないのだから、別に搾取なんてしていないんだって」
企業が関係を結んでいない後進国が更地になったからって、企業はあまり困らない。だって取引していないんだから。だからその企業を有する先進国も別に困らない。ということは、最初から搾取なんてしていない。
むしろ先進国企業は、関係を結んだ国々を豊かにしているのだ。搾取など無いし、先進国の人々は、負い目を感じる必要など無いのだ。
まとめれば、そういう話だった。
僕は、なんて、なんて分かりやすい話だろうと思った。そして同時に理解した。日本の皆が、七瀬のように自殺しないであっさり気楽に生きていられる理由は、つまりこういう話をすとんと飲み込めてしまうからだろうな、と。
くそったれ、だ。
「ええ。本当に、くそったれな話」
僕は。僕らは。
生まれたときから、戦争も民族紛争も起こっていない土地に生きていた。家があり、家族があり、自動車とテレビとインターネットが当たり前に存在し、義務教育が存在し、舗装された道路と電気と水道があちこちに存在していた。テレビゲームと漫画本とブランド品とケーキバイキングに囲まれた世界だ。
勿論貧しい家庭も家族のいない子供もいるが、全体としてみれば、つまり日本とはそういう国だ。アメリカとは、ドイツとは、イギリスとは、フランスとは、エトセトラエトセトラ。
例えば、自分が日本と同じような町に住んでいたとして。
その町の隣町が最貧国のような場所だったらどうだろう?
街の境目を越えると、町並みは一変する。小奇麗な高層マンションや一軒家が姿を消し、砲撃で崩れかけた粗末な家や難民たちのキャンプが立ち並んでいる。水も食料も薬品も足らず、路上で子供が行き倒れていても皆さほど驚かない。
先進国側の街で学校帰りにコンビニでスマートホンをいじりながらパックジュースとチキンを買って塾をサボって友人と漫画を回し読みしている間に、その数百メートル向こうの隣町では同世代の子供が一日中工場で働き、漫画本一冊ほどの賃金ももらえずに家路につく。
先進国側の街の端に、後進国側の街との境目に近い場所に住む誰かさんは、休日にアニメを見ながらパンケーキを食べつつ、窓の外を見やる。窓の向こうには、貧しさから民族問題が再燃し凄惨な争いをしている後進国側の街が見える。自分の自転車より安いロケット弾が民家を半壊させ、咀嚼したパンケーキのようになってしまった赤ん坊がそこから漏れ出でる。
そんな状況で、搾取など存在しないといえるなら、それはもう本物だ。
本物の、頭の悪さだ。
正当な富の所有とはなんだろうか?
生まれたとき偶然豊かだったのだから、自分が豊かであり続けることに責任など無いし、貧しい者たちに対しての責任も全く無いのだと、そんな詭弁がまかり通るだろうか。
まかり通っているのが、現状なのかもしれない。
「何も、強制的に、急進的に『富の再分配』なんてことをやれってわけじゃないけどね」
嘆息し、谷本さんは呟いた。
かつてそれを行おうとした国は、国という単位でさえそのシステムの馬鹿馬鹿しい欠陥に躓いた。
しかしだからと言って資本主義が、僕らのあの世界が、至上の理想世界というわけでもない。
本当に必要なのは、必要な人間に必要なだけの富を、資源を、分配することだ。なるだけ多くの公平さを最初に設定し、個々人の努力や価値によって、その分配の量や質を決めることだ。だれかれ構わず公平に分配しようとすれば努力の価値も人としての高潔さの価値も意味がなくなるが、だからと言って自由競争に任せれば、生まれた瞬間から一生豊かか貧しいかが決まる世界が出来上がる。
世界の富の九十パーセント以上のほんの数パーセントの人間が所有している現在の世界は、その後者に極めて近い。貧しい下町の貧しい夫婦の間に生まれた、高校にすら通えない子供が大企業のトップに上り詰めたりする確率は、ゼロではないがきわめて低い。スタートラインがはるか下方に存在するからだ。それが後進国の紛争地帯の孤児ならどうだろう?二十歳になるまで少年兵や難民として生きてきた人間がマイクロソフトのトップになる未来がどれだけ想像できるだろう。
搾取なんて、存在しない、だろうか。
生まれたときから豊かであって、いくらか成長して自分の判断で生きることが出来るようになった後もその豊かさを正当な富の所有と考え生きることは、果たして、どういう行為だろうか。
「どうあったって、搾取が、そこには存在すると思わない?」
僕は無言で、彼女の顔を、瞳を、見つめ返し続ける。
「こういう状況の中で……人は、そうした構造を欺瞞することを考えたりする。搾取は無いといってみたり、あるいはそもそもそうしたことを考えずに生きてみたり」
そしてたまにテレビで悲惨な後進国の様子を見たときだけ、なんてかわいそう、と呟いてみたり。
「そういう態度は、はっきり言って、恥よ」
「だから、そういう態度を取れない人間は思い悩むことになる」
僕は囁き返した。
「生まれたときから先進国に生きて、先進国の様々な文化を文明をその身で味わい、そこに強く価値を見出してしまった人間は、今更途上国では生きられない。搾取を自覚しながら、その搾取によって合成され支えられて存在する世界を愛しそこで生きることを止められないから」
だから、七瀬はいなくなった。
「そう。だから」
谷本さんは声を僅かに鋭くした。
「だから、私は、覚悟によって、搾取する。自分の愛する、理性を超えて強く求める価値を、生活を、これからも続けるために、自分の搾取を自覚した上で、覚悟の元に、これからも続ける」