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コンフリクト。
それが最初に思い浮かんだ単語だった。
七瀬はなんと言っていたっけ?
あれもしたいこれもしたい。
脳機能が、人間の「価値への意思」というものが、寄せ集めの場当たり的進化の集積によって形成されたものであるとした時、起こりえる不具合。
本を読みたい。でもゲームもしたい。同時に映画も見たいし、朝遅くまで寝ていたい。
競合する意思が、価値への意思同士が、ぶつかり合い、悩ましい状況を作り上げる。精神に負荷が発生する。どうしよう、どうすればいいだろう。アレをすればこれが出来ない、こちらを立てればあちらが立たない、そこかしこでコンフリクトは起きる。
人間はそれを選択という行為で乗り越える(少なくともそう見える)けれど、コンフリクト自体がなくなるわけでも、コンフリクトによってかかる負荷が消えるわけでもない。
僕が、バイトの時間、静かな夜の住宅街で、欺瞞的な店内のアナウンスを聞きながら廃棄食品を捨てまくるときに感じるあの戸惑いもそうしたコンフリクトの一つだとしたら――。
僕より賢く、そして僕以外の僕みたいな多くの人間よりちょっぴり賢かった七瀬は、どんなコンフリクトを、コンビニで働きながら、感じていただろう。
彼女は多趣味で、この先進国世界での生活を存分に楽しんでいたしこれからもずっと楽しみたがっていた。
だが同時に、その価値への意志に相反する別の価値への意志が、そこにあったなら。
コンフリクトが、競合が、摩擦が、起こる。そうして彼女は、さっくりスナック菓子の封でも切るようにして、自分の血管を切開したのではないか。
「……どうして、谷本さんには、分かったの?」
苦い――本当にどうしようもない苦味を感じながら、僕は問いかけた。
彼女は珍しく、口を開いた後でほんの一瞬だけ、答えの前に時間を置いた。言葉を選び、舌に載せるまでの僅かな空白に、僕は彼女の唇に視線を落とした。
「なんとなくね。似てる気がするなぁって。その七瀬って人と」
「似てる――谷本さんが?」
「勘違いだったら恥ずかしいんだけどさ」
恥ずかしがるような悩むような顔をして、そう付け加える。
僕はしばし考えてから、そうだね、と呟いた。
「確かに、似ているかもしれない。いろんなことを目一杯楽しんでるところとか」
谷本さんも七瀬も、なんともしっかり、この国の日常を、文化を、文明を、味わっている。人生をしっかり謳歌している。噛み締めて味わっている。
二人は似ている。けれども――
「でも、どうかな。どうだろう」
信号が、変わる。青になった歩行者信号を見て周囲の皆が一斉に歩き出す。
僕は動けなかった。足も腕も腰もどこもかしこも、力が抜けて萎えてしまったみたいだった。
要するに、このクレイジーな消費社会で、七瀬はどんな理由からかアルバイトを始め、そしてそこで感じることになった意識のコンフリクトによって亡くなったのだ。一方でこの社会、先進国でしか味わえぬ様々なものごとに強烈に価値を見出し、しかしもう一方で彼女の別の価値への意志がそれに相反する価値へと彼女を引っ張ったのだ。
善への意思。倫理。なんでもいい、とにかくそういうものだ。自分の生活は、生活の中での様々な価値は、多くの貧しさの上に、貧しさが築く死体の山の上に立ってでも味わってよいものなのかどうか。
今更後進国の貧しい暮らしなんて出来ない。
だけど、そうした貧しさを下敷きに生きていたくもない。
右から左から同時に引っ張られ――引き裂かれた。
谷本さんと七瀬は似ている。だけど、似ていない。
だって、七瀬は耐えられなかった。あのコンビニで働き、いろんなことを強く実感し、死を選んだ。
けれど谷本さんは生きている。生きているのだ。躊躇いなく仕事をこなし続けて、今も元気に生活している。
「それなら、僕は?」
自問の声が、肺の底から漏れ出る。
僕もまた、この国のこの生活にはまっている。今更抜け出せない人間の一人だ。かわいそうな第三世界の子供たちのもとに今すぐ飛んでいって現地で十年も二十年も支援活動なんてしたくないし、できもしない。
かと言って、谷本さんほど躊躇なくゴミ袋に食品を詰め込むこともできていない。
僕は今後、どうなるのだろう?
「大丈夫だよ」
いつの間にか下を向いていた僕に、降り落ちるようにそんな言葉が投げられる。
顔を上げると、谷本さんがすぐ目の前で、足を止めたままの僕に手を伸ばしていた。
「君は、大丈夫」
強く美しい瞳が真っ直ぐに僕をとらえている。長く美しい指が真っ直ぐ僕に伸ばされている。
根拠は、と僕が返すより先に、彼女は僕の左腕をそっと掴んだ。
「私みたいに――ううん、もっとしっかり、生きていけるようになるよ」
「なんで」
「だって、そのために私、あの店に入ったわけだしね」
よく分からないことを口走って、彼女は僕の腕を引っ張った。
穏やかな力加減で引き寄せられ、僕は歩みを再開する。煌びやかな町をゆったりと歩いていく。彼女の指が腕を掴んでいるその感触が、どこか優しく、しかしおぼろげで、なんだか現実の町の現実の地面を踏んでいる気がしなかった。
しばらく歩いて――ぐるぐると町の景色が瞼の上を、瞳の上を滑っていって、いつの間にか僕らは駅のホームにまでたどり着いていた。
大量の乗客が電車と共に去ったばかりでがらんとしたホームで、彼女はそっと僕に、囁いた。
「あのさ、ちょっとした提案なんだけれど」
高くも低くもない、不思議な響きの声だった。
彼女はいいながら、バッグに手を入れ、封筒のようなものを取り出した。口を開き、中身を僕に見せる。それは、航空券らしかった。見覚えのあるメジャーな会社のものをはじめとして、複数枚のチケットらしきものが封筒の口から覗いている。
「こんど、予定あわせて、遠出、しない? ひょんなことから手に入ったんだけどさ、そんなにお金かけずにいける旅行、みたいなものかな。海外だから、ちょっとハードル高いかもだけど」
急な話だった。けれど僕は先の話の混乱と疑問を持ったままで、なんとなく頷いてしまっていた。あるいはそれは、その誘いが恐らく重要なもの――彼女にとっても自分にとっても――だと察していたからかもしれない。
「よかった」
と、彼女はぱっと笑顔になって、それから自然に、もう一度僕の手をとったのだった。
年末の忙しい時期を終えて、少しした頃。その辺りに、僕と谷本さんはバイト先に休みの希望を出した。幸い店の人手は足りていたからすんなり僕らは休みを取ることができた。
二人一緒に店長にシフト希望としてその休みのことを伝えると、店長は怪訝な表情をしてみせた。「なんだ、君らそんな仲良かったっけか、結婚でもするの?」とアホなことを呟く店長に対して、谷本さんは「まあ当たらずといえども、ってところですかね」と答えた。
そんなこんながあって、僕と谷本さんは、一月初旬、日本を旅立ったのだった。