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「人間には、この世界で何がしかの価値を見出しそこに向かおうとする絶対的な意志が存在して、そういう価値への意志の総体こそが人を人足らしめている根源的な要素だと、そう思わない?」
雨上がりのキャンパスは奇妙なほどに明るく、そこかしこが濡れたまま陽の光をぎらぎらと反射していた。図書館のテラス席は図書館本体と最近出来たばかりの新校舎に挟まれたあまり広くない空間に位置しており、まるで過密な都市でそこだけが買い忘れられた土地のようだった。
僕は白いプラスチックの椅子の上でぼけっとするのを止めて、視線を正面に向ける。そこには一人の同年の女性が腰掛けている。僕にとってはさして華々しいものではない大学生活において貴重な友人の一人である女性だ。白く、やや肉つきのわるい頬の上に、陽に透ける細く淡い色合いの短めにカットされた髪が揺れている。部屋着みたいなだらしないよれたシャツを着込んでいるくせに、それがなぜか吃驚するほど決まって見える。不可思議な病人的薄弱さと、豪胆な自由人的空気感を両方纏った人間。
彼女は――西野七瀬は読んでいた文庫本を丸テーブルの端に置いて、見るともなしにあさってのほうを眺めているようだった。
「何だそれ」
苦笑して、呟く。このときの僕は、またも講義をサボってしまっていた七瀬に図書館で出くわし、今度は一体何をしていてサボったのかと聞いたのだ。
彼女の答えは簡単で、つまり今テーブルに置かれた本がそれだった。
それを受けて、楽しめることが多すぎるというのも考え物だね、と言った僕に対しての七瀬の言葉が、先の一言だ。
「単に生存や繁殖を欲するだけじゃない。言葉を持ち知性を持ち生きる……その中でも、人間が人間としてあり得る理由、みたいな話だよ」
七瀬は片手に持っていたパックジュースのストローに口をつけ、ずぞぞと素早く飲み干した。
「何の話だよ、だから」
「人は価値を知り、求める。けれどその価値というものはとっても複雑で、生き物としての快不快や生存への有利さなんてものを超えたレベルで存在している。音楽、絵画、小説、スポーツ、探検や開拓、多くの学問……」
七瀬は僕の惑いの声を無視して続ける。角度によっては灰色に見える瞳が校舎と空の色を映して複雑な模様を見せている。
「どんなに辛くても、それが生存に寄与しないどころか逆効果でさえあるにもかかわらず、そうした諸価値へと向かう意志を捨てられない、持ち続ける人々がいる。天才スポーツ選手や、学者、芸術家。ううん、それだけじゃない。市井の一般人の多くだって様々な価値への意志を持ち、それによって駆動している。どうして生きるのに娯楽が必要で、社会に文化と芸術が必要なのか。ストレスの軽減や効率的な生存のためなら、現代のこの豊かに無駄の多い風景は必要ない」
「単純に、多様性が種としての強みだったんじゃないのかな、動物としてさ」
「そうかもね。でも、だからこそ、これこそが特徴なんだと思う。人間の。農業という革命無しには十分に発揮することの出来ない特徴。他にこうした、『価値への意志』を備えた動物はいないし、いたとしてもすぐに滅ぶ」
僕は突如芸術に目覚めたライオンを想像した。この宇宙、世界からある美的価値を発見し、それに惹きつけられ、目を離せない一頭のライオンだ。
夕陽に目を奪われ、腐りゆく仲間の死体に感じ入り、広い草原の漠とした風景に心奪われる。
間違いなく生きてはいけないだろう。そんなことしてないで狩りでもしろよ、と言いたくなる。
地球上で覇権を握り、食糧生産において余剰を作り上げた人類だからこそ、というわけだ。
確かに、と七瀬は続けた。確かに、価値への意志は、様々な価値をこの宇宙から見出し追いかけるこの奇妙な特徴は、ある意味では人間を強い種にしたかもしれないと。
科学技術の革命的進歩は余人には理解できないほどに熱心に、マニア的に、狂気的にその『価値』を追った者たちの成果であるといえるし、時に文化的芸術的価値は人の心を大きく変え、方向付け、その背中を押すことで動かしたりもする。
「でも一方で、それは人を殺すし、種を殺しもする」
信じる神の違いによって君を殺そう。信じるイデオロギーの違いによって君を殺そう、君たちを殺そう。度々人はそういう理由で大規模な殺し合いを演じる。
結局、
「場当たり的な進化で獲得した機能の一つなんだよ。脳機能――前頭のどこかにある不思議な脳機能の一つ」
謳うように、詩を諳んじる軽やかさと厳かさで、彼女は言う。
「だから、七瀬の趣味の多さも、没頭の深さも、そのせいで折角一緒にとった講義をサボりまくるのも、そうした脳機能のせいだ、って言いたいの?」
僕が指摘してやると、彼女はにぃぃ、と深く笑った。あまり人には見せない、それこそライオンみたいな笑顔だった。言い当てられたことに対する満足感を表すように、彼女は笑みで細めた瞳を僕に向ける。
「たのしいもの、いっぱい」
冗談めかして、彼女は子供のように言う。
言葉通り、彼女は趣味人で、いろんなことを楽しむことに熱心だった。あるいは、楽しむことに熱心である才能があるというべきか。
僕は彼女に誘われたことで生まれて初めて美術館や科学館に足を運び、ミニシアターというものを知り、いくつかのマイナーな観光地を回り、本を読むようになった。
「さすがに講義休む理由としては無理がないかな。ようは、色々遊びたいのは根源的な人間的性質の発現だって言いたいんだろ? でもそれで単位落としてたらどうにも……」
指摘すると、今度は彼女はただの笑みではない、どこか意味ありげな色を含んだ笑みに、表情を変えた。
「場当たり的な進化……人間の脳機能も、この精神の、意識という機能も、その意識が指し示す価値への意志もまたすべて場当たり的な進化の産物だとしたら。この動物としての身体が無駄な構造や機能を多く含む、過去の進化の寄せ集めに過ぎないとしたら、脳機能も、その結果としての意志も、そういったものに過ぎないと、そうは思わない?」
深く椅子に腰掛け、背もたれにゆったりと寄りかかって、七瀬は僕に告げる。
「生物としての場当たり的な進化――変異と淘汰と適応と拡散の中で多くの機能が追加され削除され――結果として、私たち人間は言語的理性的意識的生物になった。進化という変化は大きな利便性をときにもたらす変わりに、整理された無駄の無い一個の生物を神が作るような奇跡はあまり起こしてはくれない。だから、そこかしこで不具合が起きる。コンフリクトが発生する」
「不具合?」
「そう。脂肪の蓄積が過去に生存のために有利に働いた結果、現在の人間が肥満に悩むように。価値への意志という脳機能においても、それは起こりえる」
「つまり――あれもこれもしたい、って状況が発生したり?」
「そう。それぞれの絶対的な価値への意志、欲求は最初から整理され無駄をなくし優先順位が付けられ理性的に機能するわけじゃない。あれもこれもしたい。一つ一つの意志が時には反発し、潰し合い、矛盾し、その宿主たる個人を、人間を害することだって、考えられる」
そこまで聞いて、なるほど、と僕は溜息をついた。
なるほど、なるほど。よく分かった。七瀬は、その人間的脳機能がもたらすもの――大脳前頭葉の不可思議な仕組みとその仕組みの不完全性がもたらすコンフリクトの結果として、講義をサボったりするわけだ。
「このぐうたらめ」
一言にまとめると、またも彼女は機嫌がよさそうにころころと笑ったのだった。
こういうどこかとんちんかんな、しかしなんとも元気一杯に人生の楽しんでいる人間が身近にいるのは、それはそれでいいな、と僕は思いながら、一緒になって笑ったのだった。