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仕事だから。十九世紀の夜明けからこのかた、仕事だから仕方がないという言葉が虫も殺さぬ凡庸な人間たちから、どれだけの残虐さを引き出すことに成功したか、きみは知っているのかね。
コンビニで働く時間。静かな住宅街の夜に明るい店内で黙々と商品を並べ、売り、廃棄し、ゴミ用コンテナに放り込むその時間。
僕が思い浮かべるのはそうした言葉だった。以前読んだ、今は亡き作家のSF小説にある一文で、その作品は全編感心しきりな文章に満ちているのだけれど、僕がずっと思い浮かべ続けているのはそれだった。
簡単な想像をしてほしい。近所のコンビニには大体いつでも弁当からサンドイッチからお菓子からデザートから中華まんから、様々な商品がいつでも陳列されている。品揃えは季節によって移り変わるものの、基本的なところは変わらず、通年二十四時間それなりに揃えられている。
そんなことが、何故可能だろうか。それを可能とするシステムは、如何にしてそれを可能としているのだろうか。
からあげ弁当なんてあって当たり前である、というこの日常を可能とする仕組みがどんなものなのか、考えてみれば子供だって分かるはずだ。煌びやかな店が煌びやかに商品を展開し続けられるその絢爛さの理由を。
コンビニに限らない。スーパーマーケット、薬局、レストラン、誰でも知っているあの店この店。求められるだけ求めようとする人間に与えられるだけ与えることで最大限利益を出すその仕組みには、独特の渇いた臭いが染み付いている。
それはつまるところ、小規模なコンビニですら一日数千円単位で排出される廃棄食品の香りだ。都市部の繁盛店や駅構内の大規模店舗であればそれは数倍以上に膨れ上がる。
業務用の九十リットルゴミ袋一杯に詰まったおにぎり・菓子パン・パスタ・パックジュース・サラダ・プリンその他諸々。大の大人ですら引きずらずに持ち上げて歩くのはそれなり以上に困難な重量の廃棄物を、僕らは、日本中の、世界中のそれなりに豊かな国家の様々な店の従業員は、よっこいしょと台車か何かに乗せて、捨てに行く。
ところで抹香臭い話になるけれど、世界では六秒だか七秒だかに一人の子供が餓死しているらしい。大人も入れれば、さて何秒だっただろうか。ともかく僕が業務用電子レンジでからあげ弁当一つ温める間に六、七人の子供が先細って朦朧とした最後の意識の一片を手放し循環器系が活動を止め、冷えて固まって死ぬわけだ。
今更ではあるし馬鹿馬鹿しい感じもするけれど、十分にクレイジーではある。
だけどほんとうにクレイジーなのは、そうしたことを知識として当たり前にほとんどの人が知っていて、勿論僕も知っているのだけれど、仕事中には態度として、あるいは意識としてすら、そんなクレイジーさが表に出てはこないということのほうだ。
店内スピーカーから流れる流行の歌謡曲や保険のCMなんかを聞きながら、早くシフトの時間が終わらないかとぼやきつつ、鼻歌混じりに仕事をこなすことができるのだ。
仕事だから。
そんな言葉の土台の上で、皆そうして当たり前に働いている。目の前で子猫が轢かれれば悲鳴をあげるような慈愛や臆病さをもった何の変哲もない人々が、今や文明の力で随分狭くなったこの地球上でたった数万キロ離れた場所で死体の山が築かれるのを横目に暮らし、楽しみ、そして働くことが出来る。
食品関係に限る話でもない。どんな仕事も今や、先進国においてはそんなものだ。使えるものは何でも使い、利益を上げる。永遠に、毎年毎年利益の上昇を目指し続ける。そこには足るを知るなどという概念は欠片も存在しない。
そうしたクレイジーさから逃れることの出来る職業など、ほとんど存在しない。ありはしない。農家や漁師ですら、大量の燃料と機械を用い、一体自分たちが生産しかき集めた資源の何割がまともに人の口に入るのか分からぬままに毎日働き続けている。
ビルには煌々と明かりが灯り、工場では二十四時間アルバイト従業員や外国人労働者が作業を続け、路傍にはタバコと空き缶が転がり、それ一着で貧困の底にある第三世界に学校なりなんなりが建設できそうな服を着込んだ少年少女が自らの不幸を嘆き自殺する。
そしてコンビニ店内では、BGMとして流れるアイドルグループの歌の合間に、アナウンスが流れるのだ。
「ファミリアマートでは、売り上げの一部を国連の食糧支援を行う機関に寄付しております」
世界の恵まれない子供たちに、というお定まりの文言と共に、正義と善意と倫理の輝きを撒き散らすように、アナウンスは行われ、一部の商品には寄付を示すマークが印刷されたりシールで貼り付けられていたりする。
いつの頃からか、僕らはそうしたクレイジーさの中で生きている。原始的な生活を行っていた大昔の時代、当たり前に食べ物を奪い合い槍や弓で殺しあっていた時代の狂気はすっかり現代的なこの狂気へと移り変わっている。
僕もまたそうした一員であり、明日から肉を食うな風呂は週に一度だと言われればぶちきれて抗議する人間の一人だ。誰かを、先進国の狂気を糾弾したいわけではないしその資格もさして存在しない。
僕が気になるのは、そうしたクレイジーさを皆、どうやって折り合いつけて生きているのかということだった。人の屍を、貧困を、戦争を踏みつけて生きる日常をどう飲み下しているのか。
大学生になるまで生きてきて、少し気づいたことはある。
人々の多くは無関心と思い込みを軸に、自己欺瞞でそれをデコレートして生きている。
テレビで途上国の貧しさをかわいそうと嘆きつつその合間に挿入されるCMの時間に新車への買い替えの意欲を刺激される。食品の出所と保存方法や加工方法を気にはしても、屠殺場には興味を抱かない。
世界の惨状、捩れた富の偏在にストレスを受けないために、自己欺瞞がするするとその触手を伸ばす。
だから、絢爛豪華な、三百六十五日廃棄食品を数キロ単位で捨てる店が飢餓民のための支援を行っていると宣伝できるし、それを善意として社会の中に組み込んでおけるのだ。
いままでこうした認識を共有できる相手は、少なくともコンビニという職場にはいなかった。けれど、谷本さんは、どうだろう。
多くの本を共有し、会話を交わし、言葉と意識を触れ合わせ、僕は彼女の賢さをある程度知っていた。だから、あるとき訊いてみた。あの寄付のアナウンスにあわせて。
「これ、すごい無茶苦茶言ってると思わない?」
軽く笑いながら、短く。
谷本さんは、その時ちょうど食品の廃棄登録を行っていた。レジで廃棄する食品をスキャンして記録し、足元に置いたゴミ袋に放り込む作業だ。
彼女はほんの少しも、一瞬たりとも動きを止めなかった。目を泳がせなかった。息を乱さなかったし、反射的に言葉を返すこともしなかった。
ただただ自然に、それまでの雑談と同じように、
「そうだね、ほんと、おかしいね」
と呟きつつ、どさどさとゴミ袋に賞味期限まであと二時間残っている弁当を放り込んだ。
そういう反応は、初めてだった。誰しも、極僅かに引きつった笑いを見せたり、普通にドン引きしたり(当たり前だ)、何を言っているかわからないといった表情を見せるのだけれど、彼女は異なっていた。
分かっていて、やっている。
何を言わずとも確認せずとも、それが分かった。彼女もまた、僕と同じで、分かってやっている。クレイジーさを自己欺瞞で押さえ込んではいない。
ただ彼女と僕の違いは、その躊躇のなさだ。クレイジーさに疑問をもちどこかで自分のやっている仕事、生活の隅々まで整えられた先進国の金ぴかの資源たちに戸惑っている僕と異なり、彼女はそうした戸惑いを纏っていない。
そうして、谷本さんとの出会いから半年が経つころには、僕はもう本当に、彼女に強く興味を抱いていたのだ。
*本文中の以下の部分に関しては引用となります。
(伊藤計劃 虐殺器官 早川書房ハヤカワ文庫JA 2010年 310項)
仕事だから。十九世紀の夜明けからこのかた、仕事だから仕方がないという言葉が虫も殺さぬ凡庸な人間たちから、どれだけの残虐さを引き出すことに成功したか、きみは知っているのかね。