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大学で始めてできた異性の友人がいつの間にか死んでいた。
出来の悪いライトノベルのタイトルみたいな話だが、そういう話だ。
彼女は二十歳で、つまり僕と同い年の若者だった。意味不明な前衛映画を見ながら寝るのが好きで、読書で徹夜をするとすっぱり翌日の講義は休み、お祭りの会場や観光地のような場所で一年中暮らしてみたいと語っていた。
死因は失血性のショック症状で、彼女の血液は彼女自身が日常的に使用していたアートナイフで作られた非常に無駄の無い上手な傷口からリッター単位で流れ出し、家賃五万少々の安マンションの排水溝に流れた。傷口同様綺麗に無駄なく、セオリー通りに風呂場で行われたその行為の意味を彼女の親族や友人一同はしばらくの間探し回っていた。
けれど何も見つからず、彼女の死は医師や警察の調査で自殺と断定されつつも、その理由に関しては曖昧なまま葬儀が済み埋葬が済み終わった出来事リストに並べられていく。
僕は彼女の死をかなり遅く知った。彼女の同姓の友人伝いに、彼女が火葬されて後に、長く姿を消していた彼女が気まぐれで旅行に出かけたわけでも講義をサボりすぎて留年したわけでもないことを知った。
あとは単純な話だった。僕は彼女の自宅を知っていたし彼女の交友関係もある程度知っていたから、片っ端から聞き込みをかけた。彼女の死の時期や自殺の手法などは全てそうして知ったものだ。
そして、頭の弱いコンビニ店員の一人――僕は後にそれが店のオーナーだと知るのだが――から、彼女がアルバイトを行っていたことを聞き出した。個人情報、という言葉の重要性は、その扱いの粗雑さとともに年々大きくなっているらしい。
結局調べごとはそこまでだった。それ以上の情報は何処からも手に入らなかった。だから僕は、ネットでそのコンビニを検索し、求人情報を確認し、電話をかけることにしたのだ。
*
「はい、今日のはこれ」
そう言って谷本さんが差し出したのは、『ファイト・クラブ』の新訳版だった。最近発売された文庫版で、毒々しいがシンプルな表紙が中々にそそられる。一緒に彼女は、以前貸した僕のオススメ作品も返却してくる。
「ありがとう。じゃあ、お返しにこれ」
そうして僕も、同じく借りたものを返し、新しい一冊を差し出す。
谷本さんがファミリマの篠不治店で働き始めてから一月する頃には、僕は大分彼女と仲良くなっていた。
彼女は有体に言って美人で、それなり以上に賢くもある。一方で、趣味においては分かりやすく、それなりに本を読み、映画を鑑賞する。入試や就職面接での「ご趣味は」に対するテンプレートの一位と二位をそろえた感じだ。
ただ、二流の大学に進み、凡庸な一個人をやっていると分かるのだが、このテンプレ趣味は実はそう多くの人にまともに楽しまれていないものであるのかもしれない。
一年に何冊本を読むのか。雑誌抜きで。こんな質問が、ただそれだけで攻撃的な色を感じられてしまうような空気が既にあちこちにある。既にしてある意味で、読書という凡庸で一般的で日常的で中流的であったはずの趣味は、ハイソなものになりかけているのかもしれない。
ことさらに読書量を誇ったり、自意識過剰気味に他者に読書遍歴を知らせるような輩だってそこかしこにいる。あと二十年もすれば、「趣味は読書です」という一語はほんとうに日常的な場所を飛び出すのかもしれない。
ご趣味は?
バレエとオペラの鑑賞です。
バイオリンの演奏です。
教会での神学に関する議論です。
読書です。
そんなわけで、僕と谷本さんは貴重な同志というわけだった。意識的に趣味を他者と共有しようとしても無意味な場合が多いが、たまたま同好の士を見つけ、楽しみを交換するのはやはりいいものだ。
谷本さんについて。
気づいたことはそれほど多くないが、店内で談笑する仲になるころにはお互い色々と相手のことを知っていくものだ。彼女はよく声を上げずに笑う。軽く吐息の音だけを残して、口元の動き一つで驚くほど綺麗に笑う。
それから、やっぱり、指だ。身長はさほど高くない谷本さんだが、その割りに指は長めで、目を引く美的価値がある。
「指」
レジカウンターの上に賞味期限の近い商品の入ったかごを置き、廃棄商品の登録を行っている谷本さんに、ある日僕はぽつりと呟いていた。
「何?」
視線だけでこちらを向いて、彼女は訊いてきた。手は休めず動かし、レジのタッチパネルとキーボードをリズミカルに操作している。
たたたん、たん、たん。
長く細く白い指が踊り、駆け回り、跳ねる。
「いや、指がさ。すごい綺麗だな、って思って」
「何それ」
軽く笑みを浮かべて、彼女は最後に確定キーにその指を乗せる。
僕は少し悪戯っぽく、腕を組んで芝居がかった声で評論した。
「各指の長さのバランスも、肉つきも、骨の太さも関節の節の形も爪の縦横比も皆整ってる。誇るべきだと思う、マジで」
「変態くさいな早瀬さん」
早瀬ってのは僕のことだ。
「本物のフェティッシュな人間に見せたら大人気だと思うよ」
笑って言い返すと、彼女はすっと僕のほうに手を差し出した。
「舐めまわしたい?」
こういうあんまり品のよくない悪趣味な発言が時々飛び出すのは、彼女の欠点かもしれなかった。
「どうかな。瓶とかに入れて食卓に飾るほうがいいかも」
暇なバイト時間をそうして僕と谷本さんは適当に消費し浪費した。
冗談の応酬がいくらか続き、それから最後に一つ息を吐いてから、谷本さんは呟いた。
「でもまあ、便利は便利かな。色々」
「例えば?」
尋ねると、少しばかり考え込んでから、彼女は自分の指を見つめて答えた。
「あんまり上達しなかったけど、ピアノとか。細かい作業とか。いろいろ持ちやすいのはいいよ。大判の本とかダブルカラムとか」
「ふぅん」
男に生まれると分かりづらいけれど、小柄な女性にとっての不便というものはあって、手の大きさもそういうものの一つに含まれるのかもしれない。その時、僕はそんな他愛もないことを考えただけだった。