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肉は食べたいけれど、牛やブタや鳥や魚は殺したくない、と言う人間に、肉を食する資格があるだろうか。人に殺してもらうだけならまだしも、自分は肉を食べるけれど動物を殺してなんかいないと主張したり、殺していることを忘れたり無かったことにしたりしている人間に、その資格はあるだろうか。
谷本さんが言う覚悟とは、そういう話だった。
「試すって言うのは……そういう、ことなの、か」
僕は途切れ途切れに言葉を搾り出した。並べられた子供と、それを撃ち殺すための拳銃。その意味を理解して。
「その通り。このイベントは、そういう、覚悟を持った人間を向かえ、その覚悟を試すと共に、強化するもの」
「強化?」
「そう。もっと厳密に言えば……先進国で生きるという『価値への意思』に対して圧力をかける、人間に広く存在するある種不変的な、特別な『価値への意思』を沈黙させることで、『先進国で生きる価値』がコンフリクトを起こさないようにする」
「何を――」
「人は皆、様々な『価値への意思』を持つ。スポーツや芸術に命をかけたり、学問にそれを見出したり、読書や戦いにそれを感じたり、ね。でも、そうした個別的な価値への意志とは別に、圧倒的に多くの人間が抱える価値への意思が存在する」
「何を言っているんだ? そんなものって、一体それは」
言い差した僕を遮るように、谷本さんは次の一言を放った。
「理性的な、善への意思」
振りかぶった刃物を容赦なく頭蓋に叩き付けるように。彼女は躊躇せず、口にする。
「脳も意識も生物としての適応進化の産物だとするなら、価値への意志もその一つ。世界の様々な価値を見出し追い求める価値への意志は、人によって様々で、個性の一部として機能する。だけど、一方で、広く、普遍的に近い形で存在する価値への意志もまた存在する。それが、理性的な、善への意思」
「普遍的? 善き行いへの意識が?」
「そう。科学に関心を示すのも、文学に関心を示すのも、人間の一部だけだけれど、善は多くの人々の行動の底に存在してその意識を規定するでしょう」
善が多くの人に機能として存在し、意識活動の根底で蠢きその影響を与えている――そんなことが、あるのだろうか。
「人は、基本的に善なる生き物だと? 性善説みたいな?」
「いいえ。そもそも性善説って言うのはそういう話じゃなく、ただ人が善を知れば善を成すよりほかにないってだけの話。定義によって善は悪より価値で、そして人は自らにとってより価値ある行いを知ればそれを選ぶよりほかにないから」
それはその通りかもしれなかった。選択肢は色々あれど、人は最善しか選べない。自らにとってもっとも善いと思うものしか、選ぶことが出来ない。
「知性と理性を発達させ社会を持ち生存する中で。世界をより根本的に分解し、統合し、知識として体系化し、また情感的に味わうという脳機能――価値への意思は、人類を地上に繁栄させることとなった。けれど一方で、そうしたある意味で非理性的な価値への意思とは別に、個人や集団がより生存するための機能として、理性的な、善的な価値を目指す脳機能が多くの人々に刻まれているならば」
陽が傾きかけ、谷本さんの顔に僅かに影がかかっていた。
「もしかしたらそれは、非理性的な『価値への意思』に対するカウンターやフェイルセイフになっているのかもしれない。なんにしても、人は悪行をなすときですら、無思考的になるよりは『善い行いである』と思い込もうとするし、実際そう主張する。意識的な活動であればあるほどに、人は善を意識するように設計されている」
どこぞの大虐殺も、今この悲惨な国で起こっている紛争も、掲げられているのは民族統一だの純血だの悪逆たるグローバリズムへの聖戦だの、そういう『正義』であり『善』を前面に押し出した宣伝文が踊っているのが常だ。
コンフリクトの正体とは、だから、
「そうした理性的善と非理性的な善以外への価値への意志の衝突や矛盾。それが私たちを蝕む、場当たり的進化を繰り返した脳の欠陥」
だから、ね。
彼女は、言葉を、声を区切って、薄っすらと晴れ晴れしたような色の覗く声音で語り続ける。
「黙らせてやらないと、ならない。好き勝手に価値を目指そうとする『価値への意思』か、そうした意志に対し善意から警告を投げ続ける『善への意思』の、どちらかを」
「ああ……」
僕は吐息と共に呻きとも感嘆ともつかない声を上げていた。
理解は遅かったかもしれないが、一旦訪れてしまえばあとは一気に理解することが出来た。
試すと共に、その意志を、強化するイベント。
僕が拳銃なんか持たされて、何の罪もない途上国の子供を撃ち殺せと言われているのは、それは、
「搾取を是とするなら、それを実際にここで直接行えってことか。それが試しになり、そして、実際に殺すことで覚悟を――搾取への覚悟を確たるものにして、善への意思を黙らせる……そういう、こと、か」
なんて。
なんて回りくどくて、無茶苦茶で、いくらかの部分で矛盾していて、非効率的なやり方だろう。
けれど僕は理解すると共に、どうしてか、そんな無茶苦茶なはずのこのイベントが、自分の内側ですとんと飲みくだされ消化されるのを自覚していた。
肉を食う覚悟を問われた人間が、例えば自分で獣を殺してみるように。
僕は今、途上国の「かわいそうな子供たち」を自分で殺すために、ここにいるのだ。
「……私は今みたいな話を、私の前にこれを行った人から聞かされた。このイベントのための諸々の情報、手続きの手順、連絡先なんかのハウツーと共に。日本の地方都市の片隅で、ね。搾取の意志を覚悟として抱くのか、内なる善にしたがって先進国の内側で干からびていくのか、どっちかを選べ、って。早瀬君、君は」
君は、どちらを選ぶ?
問いが放たれ、突き刺さる。抗いようもなく、僕から意志を、意識的な答えとそのための行動を、引きずり出そうとする。撃つのか、撃たないのか。これから先、日本で、自分の生が必要とする搾取に心痛めてやつれていくのか、それとも覚悟と共に大手を振って先進国的日本的生活を楽しむのか。
僕は、銃把を握りなおした。手の平には、不思議なことに汗のひとつも浮かんではいなかった。
振り返ってみれば、指を縛られ目と口を塞がれた子供たちは変わらずそこにいた。荒く細い息の音が耳を澄ませば聞こえてくる。もはや周囲の男たちがライフルを突きつける必要もなく、囚われ、力なく座り込んでいるだけの、子供たち。
この子達が思い描いていた世界というのは、どういうものだったんだろうな、と僕は考える。僕の子供の頃は、世の中はもっと明るくて、素敵で、正しさに満ちていると思っていた。多分先進国の子供の多くにとってそれは同じだ。
この子供たちはどんな目で世界を見つめ、どんな認識を抱いていて、もし大過なく成長することが出来たならば、どんな認識の更新を受け入れることになるだろう。混沌と卑しさがたっぷり堆積したこの世の中にどんな感想を持つのだろう。
それだけのことを一通り思い浮かべた後で、僕は、子供たちの中の一人を指差した。
さきほども観察した、僕から一番近くにいる女の子だ。
「目隠しと猿轡を取ってくれ」
僕は周囲の男たちに、そう呟いた。谷本さんが僕の言葉を別の言語に変換して伝えてくれたが、なんとなく言いたい事はそれ以前に伝わっていたのだろう。逞しい肉体を持った男たちの内の一人が、谷本さんの声より早く動いて、女の子の口と目から布を取り去り、肩の辺りを掴んで持ち上げ、僕の目の前まで引きずってきてくれた。
眼前につれてこられたその子の瞳が、僕をじっと見上げる。栄養が不足し肉つきも顔色も悪いくせに、その瞳には驚くほどの力があった。
といっても、直線的に僕らを憎むような力でも、生気にあふれた困惑の色でもない。様々なことに諦観しながら、ただじっと、抗議でも怒りでも悲しみでもない色で、僕らを見つめる不思議な瞳だった。どこかで見たことがあると思ったらそれは、テレビの中で時々報道される「可哀想な国の可哀想な子供たち」の瞳の色だった。何を言うでもなく、カメラをじっと見つめる、不可思議で、じりじりと焦がすような視線。
僕は撃鉄を操作し、コッキングする。シンプルな銃がシンプルな動作によって射撃の準備を終える。
目の前の女の子は、それもじっとただ見つめる。自分がどうなるのかは、たぶん既に察しているのだろう。震えて怯えるでも失禁するでもなく、ただ座り込んでいる彼女に、僕は銃口を向ける。至近距離で、撃てば誰でも当たる、一メートルもない距離だ。
僕は、女の子に微笑みかけた。その愛らしい口元、小さな鼻、痩せた頬、長い睫がチャーミングなブラウンの瞳に、笑いかけた。
そして、問いかける。
「次は、平和で豊かな先進国に、生まれてきたいと思う?」
引き金を引いた。