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きっといい年になる
はじめて人を撃ち殺してから一年近く経ったその日、僕はレジカウンターの内側でぼうっとしていた。
『ファミリアマート』は日本第三位のコンビニエンスストアのフランチャイズチェーンであり、国内に一万一千以上の店舗を持つ超有名企業である。日常の一部に組み込まれ常識の一部に絡みつき既に二十年だか三十年だかが経過した、この国の風景の一部だ。
時間は二十一時を回った辺りで、都市中心部やそれと繋がる周辺部の駅構内はそれなりに混雑する時間である。そうした場所にある店舗では複数のアルバイト従業員が忙しく動き回っている。
が、僕の立つ『FM篠不治店』は住宅街にひっそりと立つ住宅地型の店舗であり、そうした喧騒とは無縁だった。売り上げに直結する店の周囲三百メートル圏内には多数の住宅が存在するが、背の高いマンションやすし詰めの社宅アパートなどはほとんど存在しない。上品な一戸建てと古い時代からの木造平屋が多く見える土地が広がるこの場所で、夜の九時という時間は静けさがそれなりに降り積もってくる時間帯である。つまり、暇だった。
知性の感じられない白々とした蛍光灯の灯りに照らされた店内にはひたすらに流行の歌謡曲と保険や塾のCM音声が流れ続けており、店舗側面のガラス面から見える夜闇に包まれた閑静な住宅街の景色とあわせて現実感が恐ろしく薄い。まるで世界中でこの店だけが生き残ってしまって、実は全人類皆僕を残して死んでしまったような感じだが、何故かそうした空気感は心地よくもあった。
しばしそのまま立ち呆け続ける。レジの液晶タッチパネルに映りこんだ自らの顔をふと見やると、不快というほどでもないが特別目を惹くものも無い二十一歳の青年が見えた。前に美容院に行ってから一月半経って微妙に色々崩れてきた髪、少しだけ骨ばった首元、色の濃い瞳。そんなものの集合が、僕だった。
少しだけ表情を引き締める。そうして、僕は多分十分ぶりくらいに声を発することにした。
「こないだの返事だけど」
薄く唇を開いて吐いた言葉に、かたん、と音を立てて、隣のレジの前に僕と同じように立ち呆けていた人影が振り向いていた。
細く、華奢な影だった。
同僚の一人であり、僕が担当する平日夜番とシフトが最も多く被る一人であり、本日共に働くたった一人の相棒である彼女――小村真弓は丸い瞳を大きく開き僕を直視している。どこか愛玩動物らしく見えてしまう幼い顔つきだが、細く伸びた首や実は力強さを秘めた瞳は中々に可愛らしい。
いつもはゆったりとした空気を纏う彼女だが、今は肩を強張らせ、息を詰めている。
「僕も、小村さんのこと、好きだよ」
対して僕のほうは、台詞の重要さと裏腹になんだかちっとも態度に硬さが出てこない。緊張やストレスみたいなものが、まるでどこかに消えていってしまったみたいだ。
「えぁ、ちょと、は、はい」
つっかえつっかえに、意味不明な言葉を漏らしなんとか頷く小村さんへ、更に僕は付け加える。
「だから、そっちの気が変わってないなら」
「変わってない! です!」
がつこん、と彼女が肘をレジにぶつける。言葉の勢いそのままに何故かこちらに踏み出そうとして思い切りカウンターに半身をぶつけたのだ。レジの操作キーがいくつか押し込まれ、無効な操作に対するアラーム音が馬鹿馬鹿しく鳴り響く。
そうして、小村さんの緊張の意図が途切れる。僕らはひとしきり笑い、客が一人もいないのをいいことにしばし歓談し、それから正式にお付き合いの始まりを了解しあった。
「あのさ、ちょっと気が早いかもなんだけど」
その日のシフトが終わり、店のバックスペースで着替えを終えた僕は、小村さんと肩を並べて帰路に着くその直前、大事な提案を行うことにした。
「ひょんなことから手に入った航空券やら何やらがあってさ。旅行みたいなものなんだけど、予定が合えばどうかな、って思って。海外になるからちょっとハードル高いかもしれないんだけど……」
*
アルバイトを始めようと思ったのは、単純に遊ぶにも旅をするのにも学業を快適に行うにもちょっとしたお金というものが必要だと思ったからだった。要するに、「遊ぶ金ほしさに」というやつだ。
一方で、その働き先に自宅から少しばかり距離の離れたコンビニエンスストア、ファミリアマートの店舗の一つを選んだのには、ちょっとした別の理由もあった。
ともかく、僕はバイトを始め、しばらくは特に何も語ることのない時間が過ぎていった。
そもそも、コンビニというものの中で、何か劇的な出来事というものはそうそう起こらない。起こらないように出来ている。強盗や万引きは別としても(それだって最早日常でしかなく、劇的と呼ぶべきドラマには当たらないわけだが)、少年漫画のような鮮烈な出会いも血沸き肉踊る戦いもあまずぅっぱい色恋も、コンビニにはさして存在しない。
特別な商いというわけでもなく、集うアルバイターは「とりあえず近場で」という程度の理由で集う学生か、人生の道を踏み外してそんな場所でもなければ働けない人間たちであり、言ってしまえば烏合の衆だ。僕も含めて、当然。
そんなわけで、爛れた午睡の夢の中のようなぼやけただけの日常がしばらく続いた。あまり賢くは無い店長と今すぐ死んだって誰も何も惜しまないんじゃないかというような存在感の薄いオーナー、適当にしゃべって時間を潰す程度にはお互い役に立つ同僚の学生アルバイター。彼ら彼女らと、僕は薄っぺらい日常を三ヶ月過ごした。薄っぺらいが、まあそこそこに楽しい。一般的な大学生の生活そのものだ。
イレギュラーが起こったのはちょうどその三ヶ月目だった。
「今日ねぇ、新しい子、入るからさ」
五十過ぎのどこかとぼけた感のある女性店長が、着替えを終えた僕に店のバックスペースのロッカー前でそう告げた。
夜六時。ここから十一時までが僕のいつものシフトだった。タイムカードの打刻機にデジタル表示された時刻が六時三分前を示していた。
店長の背後からすっと歩み出た『新しい子』は僕が何かを口走るより先に素早く唇を開いた。
「よろしくお願いします。谷本です」
シンプルな、しかし短く謳うような、ぞっとする響きを持った声に、僕は喉を詰まらせることになった。
彼女は何というべきか、よく漫画なんかである「近寄るのに勇気のいる美人」だと初めはそう感じた。吸い込まれそうな黒い髪は長く、いつも頭の後ろで一つにまとめられていた。薄い色の肌とほとんど感情を形に乗せない唇。そして、夜の湖面のような底知れない深さと冷たさを湛えた瞳。
彼女は僕と同じ大学二年だった。だが僕とは異なり、どこかで経験でもあったのか、ほとんど教えられずとも驚くほどさくさくと仕事をこなしていた。躊躇いなく、ただ淡々と目の前の作業を処理していく様は、どこかラジコンか何かを思わせた。
谷本さんとは担当シフトの時間帯も曜日も、多くが被っていた。一度に労働を行わせる人員が非常に少ないコンビニにあって、同じ時間に仕事を行う同僚とそれなりに上手くやらない人間はあまり長くは働けない。そういうわけで、僕は徐々に、彼女に言葉を向けることにした。
そして、そんな折、いつも何故かフラッシュバックするのは、僕がアルバイトを始める前のことだった。谷本さんとは似ても似つかぬ――しかしなぜかその影が被るある一人の友人のことだ。
*