昇華のための飛躍(詩のはなし)
わたしは、詩にとって最も重要なエッセンスは、飛躍であると思っています。もちろん骨格や表現も大切ですが、詩にいのちを吹き込むのは、なんといっても飛躍です。それについて、
日常から発して、表現に至り、飛躍を得て、日常へ戻る。
これを、最近、詩作の中で感じました。起承転結に似ています。詩を書くときの簡易的なプロットに出来るかも知れません。
わたしもまた、日常に暮らしています。その中で、やりきれなさや屈託や焦げ付き感を溜めこんでいきます。それらを昇華するための飛躍であるのです。
表現は、飛躍の助走にも似て、それのみでは昇華しきれない部分があるように思います。そして、飛躍のままでは終われないので、日常へ戻るのです。
一例として、即興詩を作ってみます。
「題」
名画の絵葉書
「本文」
(日常)
壁に掛けている名画の絵葉書
(表現)
眼差しは時を越えてわたしへ届く
(飛躍)
乱舞する色彩の竜巻の息吹を
荒れ狂う黒い海の白い牙を
(日常)
キャンバスですらない
100mm x 148mm の四角に閉じ込めて
この短い詩の良しあしは置くとして、(飛躍)の部分にこそ、この詩の中心があります。詩全体が機体とすれば、それはパイロットであり自在に機を操るものです。飛躍を得てこそ、詩という高速の乗り物は縦横無尽に飛び、泳ぎ、潜り、堀り、時空を超えて日常の閉塞を破ってくれるのです。そして、それを受け止められる骨格もまた、必要となるでしょう。しかし、詩とは自由なものですから、これに限りません。飛躍で始まってもいいでしょうし、終わってもいいでしょう。もっとも、先にも書いた通り、わたしには飛躍で終わらせることは、なかなかに難しいのですが。
兎に角、わたしはこれからも飛躍を自由にさせて行きたいと思っています。それはわたし自身の幅であり、またそれを広げるものでもあるからです。飛躍を得ることで、表現も磨かれ、雰囲気も生まれ、詩の質も良くなっていくと考えているのです。
お読み頂いてありがとうございます。