万条ユイの葛藤
翌日。テストが始まった。今日の科目は、苦手な世界史がある日だ。しかし万条は、世界史の暗記事項ではなく、昨日の母の言葉を思い出していた。
――新しいお父さんができるかもしれない……。
万条は、複雑な気持ちだった。朝、目が覚めても、昨日のことは忘れていなかった。いっそ、朝起きたら嫌なことを忘れてしまうことができたなら、どんなに楽だろうか。
学校に着いてからもそのことが離れずにいた。学校に着いて、教室に入って、ふと、大花を見かけた。とっさに万条は、
「あっ!オーちゃん……」
と、話しかけるも、大花の反応はなく、空回りしていた。万条は、その大花の対応にも気を少し落とさざるを得なかった。昨日から、大花のことと家のことの2つのことが万条の中で問題化していて、試験の当日だというのにそのどちらもが解決されないままだった。
自分の空回りに気が付いて、教室の自分の席で、静かに、頬杖を付いて、校庭を見ながら、ボーっと座っていた。
「よっ!ユイ!ちゃんと勉強した!?」
すると、ミキが話しかけてきた。万条は、それに気が付くと、一回、顔を横に振り、今考えていることを今は忘れようとした。
「おはよー!ミキはやった?」
「まぁある程度ねぇ。ていうかユイ。今、ボーっとしてたけど、どうかしたの?世界史の教科書開かなくても大丈夫?」
と、笑いながらミキは言ってきた。
「え?」
「いや、さっき、ワタシが話しかける前、すごくボーっとしてたよ?」
「そ、そう?」
万条は、閉口した。いま、確かに万条は、ボーっとしていたが、それは昨日のことのせいであった。しかし大花のことはまだしも、自分の家庭の事情を、ミキに言って何になるのだろうか。加えて、今、ミキに言うことで、ミキのテストの邪魔になってしまうかもしれない……。
「ん?どうしたのユイ?」
「え?なんでもないよー。昨日、夜遅くまで起きてて、ちょっと眠くてさ……あはは……」
「……ふーん……まぁワタシも眠いよ~。でも試験終わったら、存分に寝れるぞ~?」
「ね!はやく試験終わらないかなぁ~」
ミキは、少し万条の様子に疑問を抱いた。今日の万条は元気であるけど、どこか上の空だった。試験なのに、教科書も開かずに、ただ、外を見ている。ミキはこの光景を何か、誰かに似ているような気がした。
ミキは大花の方を見た。大花は、テスト前にもかかわらず、頬杖をついて、窓の外を見ていた。
試験は始まった。試験が始まると、万条は、ミキと図書館で勉強した甲斐もあってか、壊滅的にできなかったこともなかった。が、同時に、試験の出来に手応えをかんじることもなかった。
そうして全ての試験はあっという間に終わった。試験というものは、試験までの時間は長いが、実際に試験が始まってしまったらその後はすぐに時間が過ぎているように感じてしまうものである。
試験最終日は、すぐにやって来た。試験最終科目の終わりの時間がどんどん近づいていた。試験終了まで、あと1分。時計の針の動く速度が、とても遅く感じられた。
「はい、やめ!解答を回収します。」
「終わったーーー!!」
「やったぁーー!」
「こら!お前ら!あまり騒がない!試験が終わったからと言って、節度を持って行動するように!」
試験は、そうして終了してしまった。最後の科目である英語が終わり、生徒たちは歓喜した。帰りのホームルームが終わったあと、周りの生徒たちは、試験後の開放感に浸り、次の休日に何をして遊ぼうとか、部活動の話をして盛り上がっていた。
万条もその中の一人だった。万条は、苦手なテスト勉強が終わって、ひとまず、安心した。しかし、万条は、急に不安になった。テストが終わって、安心したと同時に、考えなくてはいけないことが浮き彫りになってしまったのだった。
「ユイー!今日、パフェ屋行かないっーー!!甘いもの食いたくはないか!」
万条は、ミキの言葉が耳に入っていなかった。
「ユイ?聞いてる?」
「え?うん!聞いてるよ!全然、テストできなかったよー」
「ユイ……。全然、聞いてないじゃん……」
ミキは、呆れた顔をしてから、笑顔を作って、万条に体をくっつけて言った。
「どうしたんだ~?ユイ?もしかして、英語の最後の大問間違えたのかぁ~?あからさまなひっかけ問題だったよね~?」
「え!」
「え!ほんとうにひっかかったの?ま、まぁ、そんなことよりもユイ。パフェでも食べに行こうや!」
ミキは言ってはいけないことを言ってしまったと思い、都合よく、話題を変えた。
「うん!行こう!」
万条とミキは、一緒に教室を出ようとした。
「おい、万条。ちょっといいか。すぐに終わる」
すると、、咲村先生が万条に話しかけてきた。万条は、ミキに、「先に校門で待ってて」と言い、咲村先生と話した。
「はい!なんですか?せんせ!」
「いい返事だな。で、要件なんだが……」
「はい、なんですか?」
「試験も終わったということで、保護者も交えた、次の三者面談のことなんだが……」
万条は、「保護者」という言葉を聞いて、動揺した。からだは小刻みに震えはじめた。
「どうした?万条?」
「せんせい……」
「なんだ?」
万条は、咲村先生に、家のことを言おうと思った。
「あの……」
「ん?」
しかし、いざ、言おうとしてみるとその先は、なかなか言えないものだった。
「いや、なんでもないです!母と話し合ってから日程を決めてもらいます!」
その様子を見て、咲村先生は怪訝な顔をして言った。
「そうか……。それにしても、あの道楽部はどうだった?」
「あ、はい。先輩たちは面白くて、楽しいです。でも……」
「入部までは決心がつかない……ってことか?」
「はい……とても楽しいんですけど……」
「じゃあ、なぜだ?」
「その……あそこは小池さんと堀口さんの場所というか……」
「う~ん……そうだろうか……」
「はい……。ワタシが小池さんや堀口さんの居場所をお邪魔しちゃう気がして……それに今は……」
「今は……何だ?なにかあったのか?言ってみろ」
万条は、咲村先生に、家のことを言おうとした。しかし、自分から言うことは憚られた。万条はついに、思った言葉を飲み込んでしまい、他の言葉を発した。
「いえ……また今度言います」
万条の言うことを、咲村先生は真面目な顔して、聞いていた。そして、そのあとに笑って、万条の頭をポンっと撫で始めた。
「まぁ、万条。そのうちにもう一回道楽部に行ってみろ。入部しないにせよ、その旨を一言、挨拶でもして、言ってこい」
「はい……」
「大丈夫だ、万条。お前は強い。じゃあ、私は行くぞ」
咲村先生はそう言って、その場から去って行った。万条は、しばらくの間、その場に佇んでいたが、ミキが校門で待っていることを思い出して、急いで、校門まで駆けていった。
「ごめんねー!ミキ!」
「あー、ユイー。遅いよー」
「ごめん、ごめん」
「じゃあ、行こっか!」
「うん!」
パフェ屋に行く途中で、万条はやっぱり、家のことを考えていた。そしてさらにさっき咲村先生に言われた、三者面談のことも考えていた。家のこととなると、自分一人で解決できないので、それに歯がゆさを感じていた。その万条の悩ましい様子は、ミキにも鮮明にわかるほどで、ミキが話しかけても、万条の返す答えは「うん」だけだった。ミキは、万条のこの様子を見かねて、歩きながら、言った。
「ねぇ、ユイ」
「うん」
「最近、様子おかしくない?」
「うん」
「あなたの名前は?」
「うん」
「ちょっとユイ~!!!」
ミキは万条の体を揺すった。万条は、すると、我に帰って、驚いた。
「わっ!ミキ!どうしたの?」
「こりゃ、重症だわ……ユイ、最近、様子がおかしいよ?」
「え?そう?」
「うん。どう見ても、おかしいよ。どうしたの?」
「その……」
万条は反応できなかった。家のことをミキに言ってもミキに心配をかけてしまうだけかもしれないし、言っても暗い話になってしまいそうであったからだ。万条は、その先を何も言えずにいた。そのどっちつかずな態度にミキは何かを悟ったのか、急に大きな声で言った。
「あ、わかった!もしかして……好きな人でもできた?」
「へっ?」
万条は顔を赤らめた。しかしミキの答えはかなり見当違いだった。それを釈明しようと万条は否定した。
「違うよミキ!ワタシは……」
「あれ~怪しいな~これは」
「ほんとに違うよ!」
万条とミキはパフェ屋に着いた。万条は以前、小池さんと堀口さんと来ていたことは言っていなかった。ミキは、パフェ屋の前に着くと、すごくテンションが上がり始めた。ミキは店頭にあるメニューを見始めて、どれにしようかと迷い始めた。
「みてー!ユイ!どれにするー?」
「そうだなぁ……」
万条は、メニューを見ないで、ぼんやりとどこを見るでもなく、ボーっとしていた。店内に入って、ミキは既に、注文するものが決まっていたらしく、店員さんがやって来てからすぐに頼んだ。
「スペシャルミラクルプリティイチゴパフェひとつ!ユイは?」
「えーっと。ワタシはチョコバナナパフェ」
「かしこまりました。では、ごゆっくりどうぞ」
店員さんはそう言ってその場から、去っていった。ミキは、万条に、いきなり尋ねた。
「ねぇ、ユイ。で、誰が好きなの?」
ミキは完全に、万条に好きな人ができたものだと思っていた。万条は、それを否定はしたものの、ミキは聞き入れようとはしていなかった。
もし仮に、万条がはっきりとここで、「好きな人ができたんじゃなくて、家での環境に変化があって、新しいお父さんができるかもしれない」と言えば、ミキは驚くだろう。驚くというのは、その家庭の環境の変化その事象自体に驚くということもあるが、また、元気で、人当たりの良い万条が、そんな家庭だったという事実にもまた驚くだろう。
万条は、正直に言ってしまいたい気持ちもあった。洗いざらいをすべてぶちまけてしまいたいという思いがあった。しかし、万条にはそれができずにいた。
ミキは完全に、万条に好きな人ができたから、最近、ボーっとしているものだと思っている。そっちのほうが、断然に、会話の内容は、女子高生らしく和やかだった。
万条はこういうことを、言語化して頭で思考することはなかったが、なんとなく分かっていた。だから万条は、どうすることもできなかった。
「あはは……好きな人はほんとうにいないよー」
「えー、教えてくれないのかぁー。もしワタシに言う気になったら教えてよ?サポートするからさー!」
「ありがとうミキ……」
万条は、少し虚しくそう言った。決してミキが悪いのではないことはわかっていた。これは万条の問題であったし、巻き込んでもしょうがないのだ。ミキが、万条が何に悩んでいたかを分からなくてもそれはしょうがないことである。ただ、万条は自分に虚しさを抱いていた。
――ワタシが、本当に相談できる人っていないのかも……。
万条の頭の中に、ふと小池さんと堀口さんの顔が浮かんだ。
――あの2人は、お互いに色々なことを相談し合えることができているのかな。もし、そうなら、ワタシもそんな……。
そんなときに、なぜだか、さらにあるもう一人の顔が思い浮かんだ。
「で、ユイさー。あのこの前のアレ見たー?」
「え?なになに?」
「あのアレだよー。この間、見た雑誌に載ってたんだけど――」
そのあと、万条とミキは他愛もない会話をして、パフェを食べていた。
万条たちはパフェを食べ終わってから、それぞれ別れた。ミキは相変わらず勘違いしたままだった。
ミキと別れて、万条は誰もいない家にとぼとぼと歩いて帰った。帰り道は、暗く、街灯がなければ迷ってしまいそうだった。
○
テストが終わってから、数日が経っていた。あともう少ししたら、「新しいお父さん」と会う日がやってくる。万条は、未だそのことで頭がいっぱいだった。
昼休み。万条は、いつものように昼ご飯と飲み物を買いに、購買へ向かった。購買へ行くと昼ご飯を買い求めに、大勢の生徒たちが溢れていた。万条は、狙いであるあんぱんを買おうと、生徒の群れの中を抜けて、あんぱんが並ぶところへ行った。そして購買のおばさんに言った。
「おばちゃん!あんぱんください!」
「あ、万条ちゃん。ごめんねぇ。今日はもう売り切れよ……」
「え~~~」
万条は、生徒の群れの中を抜けて、肩を落としていた。
「あーあ。あんぱん、買えなかったなぁ……」
「どうしたのだ?迷える子羊ちゃん!」
すると、聞き覚えのある声が、不意に後ろから聞こえた。万条が振り返ると、そこには、小池さんがあんぱんを持って、立っていた。
「よっ!ユイちゃん久しぶり」
「あ、小池さん!お久しぶりです!そういえば、ワタシ、先輩たちに話があったんです……」
万条はいつもよりも元気のない表情で言った。そして道楽部には結局、入部しないことを言おうと思っていた。
「え?話……?ていうかユイちゃん来てくれなくてアタシ寂しくて死んじゃうよ~このこの~」
小池さんは、肘でつつきながら言って、あまり元気のない万条の顔つきを一瞥した。
「あんぱん、食べたいかい?あげようか?」
「え?いいんですか!」
万条は子供のように飛び上がって喜んだ。小池さんは笑って言った。
「あはは!ユイちゃんは可愛いなぁ!じゃああげよう」
「ありがとう!小池さん!」
小池さんは、あんぱんを万条の前に差し出した。万条が受け取ろうとすると、小池さんは、腕を上げて、あんぱんを万条の頭の上まであげた。
「え?」
「ふふふふっ!」
あんぱんをくれなかった小池さんは高らかに笑ってから言った。
「しかし、条件付きだ」
「え?条件?」
「そう。条件」
「ど、どんな条件ですか?」
「なぁに、簡単なことさ」
「……はい。その条件とは?」
「ぜひ、アタシの妹になってくれ」
「へっ?」
「あ、じゃなくて……お昼を一緒に食べてくれ」
「え?それだけですか?」
「うん。そうだよ」
「はい……いいですよ!」
「じゃあ、いこうか!道楽部に」
万条と小池さんは、道楽部の部室へ向かった。行く途中では、試験終わりということもあって、周りの生徒たちは活発だった。校庭で、遊ぶ人、教室でおしゃべりする人、部室で何かの練習をしている人。万条は、久し振りに道楽部の部室へやって来た。万条は、ひとつ気が付いた。そこに堀口さんはいなかった。
「あれ、今日は堀口さんはいないんですか?」
「そうなのよー。だから、アタシ寂しくて死んじゃいそう……堀口来ないかなぁ」
「……いいなぁ」
つい、万条は、思ったことをこぼしてしまった。万条は小池さんと堀口さんの仲の良さが羨ましかったのだった。
「あ、なんでもないですっ!」
「え?何がいいって?」
と、小池さんは、笑いながら、万条の言ったことをわざと掘り下げて聞いてきた。
「なんていうか、小池さんと堀口さん仲が良くていいなぁって思ったんです」
「……なるほどね」
小池さんは、小さく口を開けて、にやけながら、そう言った。そして万条に、あんぱんを差し出した。
「はい、約束したあんぱんだ!」
「ありがと!小池さん!」
万条は、あんぱんを受け取ると、すぐにそれを食べ始めた。おいしそうにそれを急いで、頬張っていた。
「ユイちゃん、ゆっくり食べなよ……」
「美味しかったぁ!!」
「食べるのはやっ!」
万条は食べ終わると、座りながら、伸びをし始めた。万条は体をだらけさせて、何気なく、小池さんに言った。
「あの、小池さんって、どうやって、堀口さんと友達になったんですか?」
「えっ?あははは!」
「え?どうしたんですか?」
「いやぁ。当時のことを思い出しちゃってさ~」
小池さんは、何か懐かしいものを見るような目になって、微笑み始めた。そして言った。
「アタシさー。実は小さい頃に両親が離婚してて、ぐれちゃってさー。あはは!しょうもない話なんだけどさ!」
万条は、その言葉を聞いて驚いた。小池さんが、そういう家庭であったことだけでなく、そのことを他人に笑って話していることが、不思議でならなかった。
「あ、そうなんですか……」
万条は、机の上にあるお茶を飲んだ。
「ユイちゃん。アタシはね。寂しかったのよ。でもアタシはそれをどうぶつけていいか知らなくてね、遊びほうけてたのよ。アタシは、家にも帰らずに、よく友達と夜遅くまで遊んでいたの。学校の勉強もそっちのけで、テストの成績も下から数えられるくらいで、出席数もろくになかった。でも高校二年生の時ね。そんな、どうしようもないアタシにある転機があったの」
「転機……ですか……?」
「うん。いつだったかなぁ……。あっ、そこにノートがあるでしょう?ちょっと取ってくれる?」
小池さんは、部室のドアのよこにある机の上に置いてあったノートを指差した。万条は言われたとおりにそれを取ってみた。
「……道楽部活動記録ノート?」
「そうそう。まぁ名前なんかはどうでもいいのよ。ちょっとそれ貸して」
万条は、小池さんにそれを渡した。それを受け取って、パラパラとめくり始めた。
「あ、あった。去年の夏前ね……」
万条は、そのノートのことが気になった。そして、小池さんに言った。
「そのノート何が書いてあるんですか?」
「記録よ」
「記録?」
「そう。なんでもいいからって、咲村先生がねぇ。もうほんとにあの先生はお節介なのよ。何か、問題のある生徒を放っておくことができないのよ。それをあの人は、自分で言わないけれどね」
「ちょっと、それ見てもいいですか?」
小池さんは、返事をしないで、それを万条に渡した。万条はノートを開いて、その書いてある内容を見てみた……。