思わぬ知らせ
万条はそれから数日間、ときどきだが道楽部に顔を出した。そこでは小池さんや堀口さんと他愛もない話を楽しくしていた。万条にとってそれは新鮮なことで、高校生活でやりたいことのヒントがそこにあると思ったし、何よりも楽しい時間であった。だが、万条は正式に道楽部に入部しようとは、本気で思っていなかった。
そんな中で、日々は過ぎていき、気が付くと、試験まで残りの日にちが迫っていた。周りの生徒は、ほとんどの者が、勉強をしていた。しかし万条は、あまり勉強せずにいた。
ある朝、万条は学校に登校した。教室へ入ると、ミキが朝からせかせかと勉強をしていた。
「あ、ユイ、おはよー」
「おはよ!」
「ユイ、勉強してる?」
万条はその問いに戸惑った。万条はここ一週間ほど、道楽部へ行っては勉強も碌にしていなかったからだった。
「う、うん……ぼちぼちしてる……」
「ユイ……全然やってないでしょ?」
万条の動揺した態度を見て、ミキはそう呆れながら言った。
「こ、これからやるもん!」
「やっぱり……ユイ。もうテストまで一週間ないんだよ?それに高校初めてのテストだよ?初めから下位だったら、そこから上がるの難しいよ。ユイはやればできるんだからさ……」
「何も言えないよ……はい……ごめんなさい……」
「あ、じゃあさ!」
「ん?」
ミキは万条の不安そうな顔を見て、何か思いついたらしく、言った。
「一緒に勉強しよっか。勉強見てあげる!この前パフェ行けなかったしさ。お詫びといってはなんだけど」
「え?ほんと?」
「うん!図書館で放課後勉強しよ。どう?」
「あ、ありがとう!助かる!」
万条は勉強ができるわけでもなかった。中学生の頃は陸上部で部活を専念してたせいもあってか、勉強の習慣も疎かではあったが、平均の高校よりも少し難しいレベルである桜峰学園に合格するくらいは勉強ができた。
テストは一週間を切っていた。科目は、英語、国語、数学、世界史、地理、生物、化学、物理だった。万条は、数学は得意だったが、暗記科目は苦手で、特に世界史は、全くと言っていいほど覚えていなかった。つまり、このままだとやばかったのである。
放課後。万条とミキは図書館にやってきた。万条は普段、図書館に来ることはない。「静粛に!」という張り紙がある図書館の静かな雰囲気に、万条は緊張した。
「ユイ。図書館とか使わないでしょ?まぁワタシも中学の時、試験前くらいしか使ってなかったけどねー」
ミキは笑いながら、そう言って、本棚と本棚の間の道を歩き出した。ミキに言われるがまま、自習スペースへ向かった。向かっている途中、ミキはある人を見つけて、小声で話しかけて言った。
「あ、大花さん、今日も図書館にいたんだね」
「ええ」
大花は静かに、本棚の前で本を探しながらそう言うだけだった。万条たちと大花はクラスが一緒だったため、面識はあった。しかし、大花はいつも一人でいるためほとんど話したことはなかった。万条は、大花に何気なく、話しかけた。
「本好きなの?」
大花は、本棚からお目当ての本を取り出してから、答えた。
「ええ……」
大花は万条の顔を見た。大花は続けて言った。
「あなたは、えっと……」
「万条ユイ!」
「万条さんは……」
「ユイでいいよ!」
「……万条さんは……とても元気なのね」
「うん!」
「でも……いえ。何でもないわ。お互いテスト頑張りましょう」
「え?う、うん!頑張ろうね」
大花は、他の本棚へ歩いていった。万条は、大花に対して、不思議な印象を受けた。言葉にできないようで、しかし何か近いものを感じた。そして、大花が「でも」といったその先が気になった。万条はつい小声でつぶやいた。
「『でも』なんなんだろう……」
「え?」
「ううん!何でもない!」
「さ、ユイ。勉強するよっ!」
「うん」
万条たちは、その後、席に着いて勉強を始めた。万条は早速、一番やらなくてはいけない世界史の教科書を開いてみた。そこに書いてある、カタカナを発音しながら覚えようとするも、万条はいくらやっても、うまく発音できないのだった。
「あうぐす……とうーす……?」
「アウグストゥスね」
「すごいミキ先生!」
「ちょっとその呼び方やめてよ。ていうか、ユイ。そんなだと、赤点濃厚だよ……」
「え~やばいよ~覚えなきゃ……」
万条は世界史の教科書をじっと見つめて覚えようとするも、全く頭に入ってこなかった。しばらく教科書に書いてあるカタカナの単語を頭の中で発音した。しかし、万条は繰り返していくうちに、頭がパンクしそうになった。
「あーーー!なんでカタカナなの!?」
「ユイ……声大きいよ……」
「あ、ごめんなさい……」
万条の大きな声に、何人かの生徒がこちらを見てきた。万条は、小さく謝りながら、また教科書見始めた。が、再び、頭の中でカタカナが混在し、嫌になり、ついには、教科書から目をはなしまった。
「流れで覚えると覚えやすいわよ」
うしろから聞こえてきた声は、冷静だった。万条は振り向くと、大花が試験とは関係ない分厚い本を持って、万条の世界史の教科書を見ていた。万条はびっくりした。
「え?」
「さっき大きな声出していたでしょ。世界史が問題なんでしょ?」
「う、うん……」
「例えば、そのページ。単語だけを追うんじゃなくて、歴史的な流れの中でその人がどんなことをやったか、どんな人だったか、想像しながら読むといいわ」
「え、う、うん!わかった!やってみるね!ありがとう!」
「いえ、いいわこれくらい。図書館で毎回、騒がれたらワタシの読書もままならないから」
「ぐ……ごめん……」
大花は、万条たちが座る机の横にある机に座って、本を読み始めた。万条は大花の方を見て、ボーっとしていた。
「ちょっと、ユイ。ボーっとしてるよ」
「あ、はい!ごめんなさい……」
万条はその日から、今までやっていなかった分を取り戻すように、一生懸命に勉強した。ミキが監視していることもあってか、万条は勉強せざるを得なかった。2人はその日から、毎日図書館へ行っていた。また、大花もその万条たちの横の机に座って、本を読んでいた。だから万条は、時々、分からないことがあると大花に聞きに行ったりもした。それに大花も毎回、教えてくれた。大花の説明は分かりやすく、万条の分からないことが、大花に聞くとどんどん解決していった。次第に万条は、分からないところがあると、ちょっと嬉しかった。なぜならば、大花と話すことができたからだった。
○
数日が経ち、ついにテストは明日まできていた。万条は、順調に勉強を進めていた。
その日の昼休み。万条は、飲み物を買いに、自販機まで行った。自販機の前まで行くと、万条は、飲みたいものを決めようとした。自販機にとりあえず、お金を入れた。万条はイチゴミルクかコーヒー牛乳かミルクティーのどれを押そうか迷っていた。
「う~ん。どれにしようかなぁー」
「迷える子羊ちゃん」
「え?」
振り向くと、後ろには小池さんがいた。小池さんは、腕を組みながら、万条の後ろに立っていた。
「小池さん!お久しぶりです!」
「うむ。久しいのう。ところでユイちゃん。勉強どう?明日だっけ?」
「はい、友達が勉強を見てくれてるのもあって、なんとか赤点回避できそうですっ!」
万条は、元気よく、敬礼するように答えた。小池さんは万条のその姿を見て、目を輝かせた。
「カッ、カワイイ!一回、ハスハスしてもいい?」
「ハスハス……?」
「そう。もしくはモグモグでもいい」
「モグモグ?」
「うん。もしくは――」
小池さんが、いけないことを言おうとした時、ちょうど万条はそれを遮って尋ねた。
「あっ!小池さん勉強の方はどうですか?」
「え?ア、アタシー?アタシのことはどうでもいいじゃん~」
小池さんは、あたかも勉強していない人の反応をした。そのあとに小池さんはさらに言った。
「まぁ、ホーリーが教えてくれるから助かってるけどさー」
万条はそれを聞いて、大花のことを思い浮かべた。堀口さんが小池さんに勉強を教えるように、大花が万条に勉強を教えている状況が似ていた。
「実は、ワタシも、最近、すっごい頭いい友達に教えてもらってるんです!その人すごく、教え方が上手くて、分からないことがすぐに解決してしまうんです!」
「ほぅー!素晴らしいねぇ!そのコのオツムが欲しいよ……とほほ……」
「そうなんです!そのコ、いままではミステリアスなコだと思っていたんですけど、本当は優しくて……!」
「ユイちゃん、なんか楽しそうだね!」
小池さんは万条の表情を見て言った。万条はその言葉にハッとした。確かに、万条は楽しかった。今はなしていることもそうであるが、実際に、図書館でミキの監視の下でときどき大花と話すあの時間が、何かとても楽しかったのだった。万条はそのとき、はっきりと気が付いた。
――ワタシはもっと、大花さんと仲良くなりたい……。
「え?なっちゃえばいいじゃん?」
「へ?」
万条が頭の中で思っていたことが、知らず知らずのうちに口に出ていたみたいだった。小池さんは、言った。
「仲良くなっちゃえばいいんだよ、簡単さ。自分が良いと思える人と一緒にいた方がいい。それが叶いそうにもないなら、自分から積極的にいけばいいんだよ!アタシが万条ちゃんに、そうしてるようにね!きゃーアタシカッコいいー!」
「自分から積極的に……」
「そうそう。自分から。例えば、あだ名なんてのはもってこいだねぇ。少し恥ずかしいけどねぇー。『ホーリー』もそうだしね」
「あだ名かぁ……」
「ていうか、ユイちゃん。それ」
小池さんは、さっきから一向にボタンを押されていない自販機を指差した。万条は飲み物を買いに来ていたことを忘れていた。
「あ!忘れてた!」
「おとぼけユイちゃん。か、かわええ……」
小池さんに指摘されたものの、まだ飲みたいものが分からずにいた。しかし、
「よしっ!!」
万条は、以前のように、イチゴミルク、コーヒー牛乳、ミルクティーのボタンを一斉に押した。
「〈神の選択〉!」
小池さんはそうバカみたいに叫んで、神が何を選んだのかを、観察した。万条は、体を屈ませて、自販機の取り出し口から、神に選ばれし飲み物を取った。
「またかぁ!」
万条が手に取ったのは、コーヒー牛乳だった。
「いざ、出てくると、なんか飲みたくなくなりますよね……」
「ユイちゃん……それじゃあなぜコーヒー牛乳を押したんだ……」
すると、5限の授業のための予鈴のチャイムが鳴った。2人は以前もあったこの状況に、お互いに顔を合わせて、笑った。
万条は、小池さんと別れたあと、コーヒー牛乳にストローをさして、それを口にくわえながら走って教室へ向かった。神に選ばれしコーヒー牛乳は、意外と美味しく感じた。
放課後になった。
全ての授業が終わり、しばらく長い間、クラスの友達とおしゃべりをし、友達と別れたあとに、最近の日課通りに、万条は自分の荷物を整え、図書館へ行く準備をした。
「ミキ、図書館いこ」
「りょうかーい」
そう言って、万条たちは教室を出ようとした。すると、万条は誰かに声をかけられた。
「ちょっと、万条さん……」
話しかけて来たのは大花だった。万条は、大花が自分から話しかけてきたことにびっくりしながらも、なぜ話しかけられたか分かっていなかった。
「え?どうしたの?」
「『どうしたの?』じゃないわ。覚えていないの?」
「ん……っと……アレね!」
「そうよ。アレよ。早く準備しましょう」
万条は咄嗟に知ったかぶりをしたが、何をするのか分かっていなかった。ミキは、怪訝な顔をして、万条と大花を見たが、状況がよく分からず、その場に残っても仕方がないので、先に図書館に行っていることにした。
「ユイー。先に行ってるね」
「あ、うん!ごめんミキ」
――いったい、なんだろう……ワタシ何か悪いことしたっけ……?もしかしてワタシが分からないこと聞きまくってたことに、ほんとうは嫌気が差してたとか!?それなら悪いことしちゃったなぁ……。
「さぁ、そこの教壇に上がって」
「え!?」
万条は戸惑いながらも、教壇に上がって、きょうつけ、をして突っ立った。すると、大花は、教室の後ろにある掃除用具ロッカーまで行き、箒とちりとりを取り出した。箒を一本取り出したかと思うと、大花はもう一本の箒を取り出した。
「に、二刀流っ!?」
たちまちに万条は、自分が箒でお仕置きされる、と思い、怖くなった。大花は無表情のまま万条まで近づいて行った。万条は大花が教壇に来る前に言った。
「ご、ごめんなさい!!」
「え?」
大花は、よくわからない顔をして万条の顔を見た。
「へ?」
「いつまでそこで突っ立っているのよ。早く始めるわよ。はい、この箒、あなたの分よ」
大花は二つある箒を片方、万条に渡した。
「ん?」
万条はとぼけたような顔をして、口を閉じたまま、下唇をあげて声を発した。
「だから、あなた今日、掃除当番よ。ワタシと。さっきからよくわからないのだけど、何を想像していたの?言わなくていいわ。バカげていそうだから」
「そ、掃除当番……?そっか~、今日掃除当番だったかぁ!えへへ!忘れてたよ!て、ていうかバカって聞こえたような?」
「いっていないわ」
「そ、そっか!」
万条は、その日掃除当番であった。掃除当番の相手は大花だった。万条は状況を理解した。箒をしっかりと掴んで、腕まくりをした。
「よし!じゃ、掃除しよ!よろしく!オーちゃん!」
万条は、唐突に大花をあだ名で呼んでみた。小池さんに言われたことを早速試したのだった。しかし大花はあきらかに戸惑ってしまっていた。
「え?だ、だれのこと?あなた誰と話しているの?」
自分から積極的に、という小池さんから言われたことをまたもや反芻していた。
「オーちゃんだよ!」
「え?オーちゃんって誰かしら?」
「オーちゃんはオーちゃん!」
万条は大花の方を見て力強く言った。対して、大花は怪訝な顔をして返答した。
「よくわからないのだけれど、あだ名ということ?」
「うん!」
「なんであだ名なんかワタシにつけるのか分からないわ。あなた、前から変なコだと思っていたけど、本当に変なコなのね」
「うげっ、へこむよ………」
「……」
大花は黙った。大花は下を向きながら箒でゴミを掃いていた。万条は何気なく言った。
「この前から、勉強を教えてくれたりしてありがとうね……すごくわかりやすかった!ワタシ、勉強が少しだけ楽しいと思った!」
「そうかしら。気のせいよ」
大花は、依然としてゴミを掃きながら言った。
「ほんとだよ!ワタシ嬉しかった!」
万条がそう言うと、大花は一瞬、動きを止めて、再び動かしながら言った。
「……嬉しい?」
大花は、どこか投げやりにそう言った。
「うん!そう!嬉しかったの!」
「……嘘よ。嬉しいなんて。大袈裟だわ」
「嘘じゃないよ。ほんとうにそう思ったの」
万条が再び答えると、大花は完全に動きを止めて万条の方を見た。そしていつもの無表情な顔で言った。
「そんなわけないわ。ワタシをいて嬉しいだの楽しいだのと言った人は誰もいなかったもの。今までで一度も。ワタシはそういうことには疎い存在なのよ。いままでもこれからもそうなの」
万条は、その姿を見て、大花の言うことが意外だと思った。
――才色兼備。
そのイメージが少しずつ、疑わしいものになった。クラスでいつも一人でいる、孤高な大花はが、そんなことを考えていたことに、万条はびっくりしたのだった
。
――オーちゃんもきっと何かに悩んでいるんだ……。
万条は、前から気になっていたことを言ってみた。
「……オーちゃんって他の人とは何か違うものを感じることがあるよ。あ、これはいい意味でね――」
「もうやめましょう。こんなくだらない話は」
大花は万条の言う先を言わせなかった。無理矢理にこの話を終了させようとし、再び、箒でゴミを掃き始めた。大花は完全に、もう万条は何も言ってこないと思っていた。しかし、万条は、大花の予想を超えていた。万条は大花が冷たいことを言ったあとすぐに、勢いよく言った。
「嫌だ!!」
大花はびっくりした。
「え?なにそれ」
「だから、そんなことないの!オーちゃんはミステリアスだけど、こないだ、図書館で会った時分かったの。ワタシはオーちゃんともっと仲良くなりたいって!!」
大花は、少し黙った後に、万条の顔を見て言った。
「言ってる意味が分からないわ。ワタシと仲良くなりたいだなんて。気のせいよ」
「ちがう!」
「…………」
大花は表情を変えずに、まるで本当に否定しているように、そう言い切ったが、万条はまたその大花の言葉を否定するように言った。万条は、そう言ったあと、笑っていた。笑顔で大花の顔を見ていた。万条の瞳は大きかった。大花は万条が、それを本心から言っているように感じた。大花はその笑顔から目を逸らして、教室の廊下を箒で掃きながら言った。
「あなた、普段からいつも笑っているけれど、疲れないの?」
「え?疲れるって?」
「あなたは……いえ。何でもないわ。はやく掃除しましょう」
大花は、自分でも何故そんなことを聞いてしまったかわからなかったので、自分の発言を撤回しようとした。すると、万条は、ちりとりを大花から取って、身をかがませ、大花がゴミを集めたところにちりとりを添えてから、言った。
「ここ掃いて」
「え?ええ」
大花は言われたとおりに箒で掃き始めた。そして、万条は箒に掃かれる小さなゴミを見ながら言った。
「ワタシ、実はオーちゃんを初めてみたとき、似てるなって思ったの」
「……どういうことかしら?」
「さっき、ワタシがいつも笑っているって言ったよね?それってきっと、オーちゃんも同じなんじゃないかな?」
「よくわからないわ」
「ワタシ確かにいつも笑ってるかもしれない。でもオーちゃんもいつも無表情だよね?それって疲れないのかなぁって思うんだ」
大花は、目を見開いた。万条からそんなことを言われると思っていなかった。
「質問を変えるわ。あなた……なぜいつもそんな笑っていられるの?」
「だって、その方が楽しそうじゃん!」
万条は笑って答えた。大花は、溜息をついて、言った。
「あなたとワタシは全く似ていないわ」
「……」
大花はちりとりにたまったゴミをゴミ箱に捨てて、掃除用具を掃除用具ロッカーにしまって、教室の扉の横で万条の顔を見ないで言った。
「ワタシ、先に職員室で日直日誌を届けてくるわ。あなたは先に帰ってていいわよ」
「え?ちょっと……」
大花は教室を出た。
万条は、誰もいない教室の中で、箒を持ったまま立ち尽くした。教室の中の電気がやけに眩しく思えた。
万条はゆっくりと、自分のカバンに勉強道具を入れて、図書館へ向かった。
図書館へ行くと、いつもの机にミキが座っていた。横の机をみると、そこに大花の姿はなかった。じっとその机のあたりを見つめていた。
「ちょっと……。ユイ何やってるの?はやく座れば?」
と、小声で言うミキの声で、万条は自分を取り戻して、ミキの向かいの席に座った。机の上にカバンを置いて、それを開けることもなく、万条はカバンの上に頭を乗せて、枕にした。ミキはその様子を見て、不思議に思った。
「どうしたのユイ?」
「いや~なんかさ~。ワタシこのままでいいのかぁってさ」
ミキは理解できないというような表情をした。
「ん?どうしたのさ急に。なにかあったの?」
「……」
万条は何も答えなかった。ただ、カバンを枕にしていた。ミキは動かしていた勉強していた手を止めて、万条の横になった顔を見た。その目線は、大花の机の方を向いていた。
「そういえば、今日、大花さんいないんだね」
「そうみたい……ね」
「なにかあったの?大花さんと」
「なにもない……と思う……」
万条は上の空だった。ミキはそれを見て、こう言った。
「なんていうかさ、大花さんってユイと話してる時と、ほかの人と話してる時とで違うよね」
「え?」
「なんかそんな感じする。気のせいかもしれないけど」
「……」
「まぁさ、さっきユイは『このままでいいのかぁ』なんて言ってたけどさ。ユイはそのままでいいと思うよ。ワタシ、今のユイのこと好きだもん!」
「ミキ……」
「まぁ、でも勉強は『このまま』だとダメだけどねぇ」
と、ミキは笑って言った。万条もそれを聞いてつられて笑ってしまった。
「よしっ!!」
万条は体を起こして、カバンから教材を取り出した。ミキは黙ってそれを見て、再び自分の勉強を始め、ペンを動かし始めた。
万条は、その日、最後のラストスパートをかけて勉強した。ミキも一緒に勉強してくれたこともあって、ひとまず赤点は回避できそうだった。万条は一通りの試験勉強が済んで安心したのか、さっきまでの悩みは忘れてしまっていた。
「おわったぁー!」
「いや、まだ試験は終わってないでしょユイ。最後まで気を抜いたらダメだよー」
「大丈夫だよー」
「はぁ……。ユイはやればできる子なんだから、はじめからやればいいものを」
「そうなんだよーワタシ、やればできる子だからやらないんだよー」
「あとで痛い目見ることを知ってるでしょ?これからは、ちゃんと少しでもいいからやりなね?」
「はーいミキ先生」
「よろしい。じゃあワタシもキリがいいし、明日は試験本番だから、そろそろ帰ろっか」
「うん!」
図書館を出て、2人は下駄箱で靴を履き替えた。もう陽も沈みかけていて、外は薄暗かった。2人は家路へ向かった。2人は帰り道の途中で、世界史の問題を出し合って、明日の試験に備えていた。そして、試験が終わったら、今度こそはパフェに行こうという約束をしてミキと別れた。
万条は家の前につくと、すっかり陽は完全に沈んでいた。暗い夜の中で万条はある異変に気が付いた。というのも、家の部屋の灯りが付いていたからだった。万条は驚きながらも、家のドアを開けた。玄関で足元を見てみると、見慣れない靴が置いてあった。
「誰か、いるのー?」
万条はそう言って、部屋の奥へ進んだ。リビングの机のところで、お茶を飲んで座っている人がいた。
「おう、ユイ。久しぶり」
それは兄の京太郎だった。京太郎は、大学生になってから一人暮らしを始めていったため、家に帰ってくることはなかなかなかった。そんな京太郎が家にいたことが、万条は突然だったのでびっくりした。
「え、お兄ちゃん。帰ってたの?」
「まぁな」
「どうしたの急に?」
「どうしたのって……可愛い妹であるお前の顔を見に来たんだよ」
京太郎は、笑って言った。
「そっか……」
「てかさ、ユイ。お前太ったんじゃないか?」
「そんなことないよ!もう!」
京太郎はからかったように万条に言って、万条は顔をしかめて、頬を膨らませながら、京太郎を軽く、叩いた。
「ユイもお年頃だなぁ」
その後、二人はしばらくの間、黙りこくった。万条は、何気なしに、兄に言った
「あ、お兄ちゃん。ご飯作るよ」
「いや。大丈夫だ。もう帰るから」
「え?もう帰るの?久しぶりに帰ってきたのに」
「ああ、別に、ユイの様子を見に来ただけだから、長居する必要もないしな」
「そっか……」
また二人は沈黙した。静かな空間の中、二人のお茶を啜る音が響いた。
「じゃ、そろそろ行くわ。」
そう言って、京太郎はリビングを出ていき、玄関口まで行った。万条も、玄関まで、京太郎を見送りに、付いて行った。
「じゃあ、お兄ちゃん、気をつけてね」
「ああ、ユイもな。何かあったら、連絡しろよ」
「うん……」
京太郎はドアを開けた。ドアを開けた瞬間、京太郎は声を発した。
「あ」
「ん?どうしたの?おにいちゃん」
万条はドアの向こう側をのぞき込んでみた。そこに誰かが立っていた。その誰かは見慣れた人だった。
「母さん!?」
「京太郎じゃないの……」
そこにいたのは母だった。万条と京太郎は突然の母の帰宅に困惑と驚きを抱いた。
「母さん、帰って来てたのか?今日は帰り早いんだな」
「ええ……実は大事な話があるのよ」
「大事な話?」
「ええ。もちろん、ユイにも聞いて欲しいの。とりあえず、中へ入りましょう」
「え、ああ……」
京太郎は母の言う通り、再び部屋の中へ戻っていった。そして、三人はリビングン座った。京太郎がさっき飲んでいたお茶はもう冷えていた。
リビングに入るまで、三人は、一言も会話しなかった。母は終始、不安そうな顔をしていて、京太郎は、その母の姿を見て、何があったのか心配した面持ちであった。万条も、この突然の母と兄との再会に喜びを感じながらも、少し戸惑っていた。
――お母さんの話ってなんだろう……。
万条は、嫌な予感がしていた。京太郎も、同じことを感じていたらしく、座ってから、母の顔を見て、催促する様に聞いた。
「で、母さん。話って何?」
兄の質問に母は、まだ不安そうな顔をして、目線も合わせずに、小さく答えた。
「実はね……」
二人は、息を飲んで聞いた。
「私、好きな人ができちゃったの」
「え?」
二人は同時に、声を発した。万条の嫌な予感は当たっていた。万条はその言葉を聞いて、顔を俯かせた。
「それって……」
兄は、母から目線を逸らして、斜め下を見やり、いつになく動揺していた。
――好きな人ができた。ってことはお母さんに好きな人が出来たってことはつまり、その人と一緒になるかもしれない。だからワタシの……、
「新しいお父さん、できるかもしれないの。それで数日後、うちに来ることになったんだけど、その時に、あなたたちにも会ってほしいの……」
万条は、ずっと下を向いていた。隣に座っている京太郎を見た。京太郎の膝の上に作られた拳は、力いっぱい握られていた。
「ずるい」
「え?」
「母さんはずるい」
「京太郎?」
すると、京太郎は、勢いよく立ち上がって、母を見下ろして言った。
「ズルいよ!母さんはいつもそうだ!突然こんなこと言いだして、それに……」
「それに……?」
「それに……いつだってそんな不安そうな、困った顔してるんだよ!そんなんじゃ、子供は嫌だなんて言えないだろ!」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
京太郎は、その母の表情を見て、また怒りを抱きながらも、自分を落ち着かせ、再び、その場に座り込んだ。
「オレはまだ一人暮らししてるからマシだけど、ユイだって、いるんだぞ。それ分かってるのかよ」
「ユイ……ユイは……どう思う?」
万条は、京太郎のいうことも理解できた。それに母に言いたいことはいっぱいあった。
――ワタシだって、もっとお母さんに甘えたかったけど、忙しそうな姿を見ては、いままで遠慮してたし、お母さんとの時間がもっと欲しかった。もし、新しいお父さんが来たら、また気を使うことになるし、甘えることはもっとできなくなる。だから嫌だ……。
しかし、実際に出た言葉は、思っていたことと全く異なるものだった。
「ワタシは、お母さんが幸せになれるなら……それでいいよ……」
京太郎はその万条の言葉を聞いて、母を見た。母は、固定されたように変わらず閉口した表情だった。それでも、京太郎は母が許せなくなってしまい、こう漏らした。
「子供を巻き込むなよ」
母は、顔を手で隠した。顔は見えなかったが、万条は、それを見て母がどんな顔をしているのか、おおよそ想像が付いた。
「じゃあ、オレはもう行くから。もっと早く帰ってればよかったよ」
京太郎は、そう台詞を吐き捨てて、玄関まで行き、家を出てしまった。
万条は母が泣き止むまで母の背中をさすってやった。
その夜、万条はよく眠れなかった。明日が試験であることも、寝る直前まで忘れていた。万条は、勉強しようとしたが、布団にくるまっていた。
万条は布団の中で、小さく、体を丸めた。万条の頭の中では、突然の母の知らせと、今日掃除当番で大花と会話したが、大花が心を開いてくれなかったことが入り混じっていた。
万条はそのまま鼻をすすって、眠ってしまった。