蚊取り線香と龍
暑くて蒸す夕暮れのことだった。
築三十年を越す木造アパートの一室で,部屋の隅に置かれた机に向かい,男は書き物をしていた。
日に焼けた畳の上で,蚊取り線香が静かに煙を吐いていた。やがて,一匹の蚊がポタリと畳に落ちたのを見届けると,彼は意を決したかのように頭を赤くして喋り始めた。
「俺はもう嫌だ。毎日毎日,蚊の相手ばかり。こんな生活,うんざりだ」
彼は誰に対してというわけでもなく,つぶやいた。
「俺はもっと大きなことがしたいんだ。世のため,人のために貢献したいんだ。人にすごいと言われる存在になりたいんだ」
そこで一呼吸入れると,蚊取り線香は吐き捨てた。
「俺は龍を叩き落とす」
何をバカなことを,と男は思った。蚊取り線香に龍が落とせてたまるものか。
だいたい,蚊が虫であるのに対し,龍は雲の上から世の中を統治する存在なのだ。蚊取り線香など相手にする必要がないほど強い。だが,龍は小心なところがあり,自分のことを中傷されると,すぐにかっとなってしまう癖があった。怒らせたら,それが蚊取り線香であろうとも,容赦はしないだろう。
「やめたほうがいい。痛い目に遭う」
男は手を止めずに答えた。
何を,と蚊取り線香は息巻いて,煙をモクモクと吐き出した。
こいつは変わらないな,と男は思う。蚊取り線香のほら吹きは,今日に始まったことではない。煙草に喧嘩を仕掛けて大火傷を負ったり,ネズミにかみ殺されそうになったりしても,同じことを繰り返し続ける。
「俺は,今度こそはやるんだ。あの悪い龍をこの煙で叩き落としてやる」
部屋が煙で白っぽくなってきた。
あの悪い龍―――。蚊取り線香がそう言うのは,間違いとは言い切れない。強大な権力を手中に収める龍には,世の中の底辺に溢れる無数の魂の声など届かない。それらは龍にとっては塵か埃でしかなく,対話の対象ではない。龍の都合で海や山を作れば,多数の罪なき命が氷河で凍てついたり,海中の屑となったりした。龍を恨む者は少なくない。
だが,龍の悪口を言う者はいなかった。悪口を言う者は全て,龍に燃やされてしまったからだ。みんな,龍の気まぐれを恐れて,龍の顔色をうかがいながら暮らしていた。
「もう,口をつぐむんだ。さもないと,龍に聞こえるぞ」
それでも,蚊取り線香は,俺はやる,俺はやる,とつぶやき続けた。
部屋の窓にはめられた網戸の外側に,一匹の蚊が止まっていたが,やがて,空高く飛び上がっていったことを,男も蚊取り線香も知らなかった。
それから二,三日過ぎた午後,にわかに空に分厚い雲が立ち込め,ゴロゴロと雷鳴が轟き始めた。辺りは夜のように暗くなった。
すると,シャンシャンシャンシャン,という銅鑼の音がどこからともなく響き渡り,その音に乗るかのように,巨大な龍が雲の中から顔をのぞかせ,男のアパートめがけて降下してきた。
男は,接近してくる龍をアパートの窓から見ていたが,そのあまりの巨大さに,もう生きた心地がしなかった。
龍はアパートの遙か上空で止まった。大きすぎて前足すら雲の中に隠れたままだ。つまり,雲から出ているのは,龍の頭の部分だけ,そのくらい龍は大きかった。
巨大な舌先が,シュッと伸びて,男のアパートの網戸を一瞬で破壊した。
龍のギラギラした目が,男と蚊取り線香を見ていた。
どうするんだ,と男は,蚊取り線香を見た。
すると,蚊取り線香は,待っていました,という風に,モックモクと煙を吐き始めた。大量の煙が立ちのぼる。だが,龍には届かない。何しろ龍の鼻息で,アパートが吹き飛ばされるのではという勢いでビリビリ震えているのだ。
それでも,蚊取り線香は,頭を真っ赤にして,煙をモクモクと吐き続けた。よく見ると,蚊取り線香は震えていた。
「おい,もうやめるんだ。龍に謝ろう。許してください,と言うんだ」
男は蚊取り線香を止めようとした。しかし,蚊取り線香は,フン,という気合いとともに,男がむせるほどの煙を吐きながら叫んだ。
「おい,龍,お前はバカ野郎だ。みすみす命を無駄にしにくるとはな。その勇気だけはほめてやろう」
龍の目が怒りでギラリと燃えた。舌が炎のようにチロリチロリと動いた。
すると,龍はすうっと息を吸い,次の瞬間,激烈な炎の塊が,目にもとまらぬ速さで吐き出された。熔けるような熱風に,男は思わず閉じた。
恐る恐る開けると,目の前で蚊取り線香だけがメラメラと燃えていた。
龍はずんずんと空に昇っていってしまった。
―――自分の情けない気持ちは,自分が一番よく知っている。今まで何度も変わろうと努力してきた。蚊取り線香は蚊取り線香としてしか生きられないのか。
蚊取り線香は薄れていく意識の中で,一粒の涙をこぼした。
蚊取り線香がいなくなってから,部屋が静かになったかというとそうではなかった。なぜなら,蚊が増えてしまったからだ。
男はうちわで蚊を払いながら,机に向かっていた。だが,既に2カ所,蚊に食われ,痒さで書き物に集中できない。
男は振り返って,畳の上を見た。
そこにあるのは,蚊取り線香が入っていた空っぽの器だけ。今となると,白く立ちのぼる煙が懐かしかった。
男は立ち上がり,蚊取り線香が入っていた器を手に取った。器の中に敷かれた不燃マットは,ヤニと焦げで真っ黒になっていた。焦げは渦巻き状になっており,そこに蚊取り線香がいたことを物語っていた。
男は不燃マットが不自然に膨らんでいることに気がついた。マットをめくって,下を調べてみる。
すると,不燃マットの下から,薄っぺらな小さい手帳が出てきた。薄汚れていて,焦げ臭い臭いがした。
男はなぜか,緊張した。
ゆっくりと手帳を開いた。
中には,焼き印のような字で,日付と正の字が克明に記録されていた。記録は5年前の夏から始まっていた。
○年7月22日 丁
○年7月23日 正丁
○年7月24日 一
・・・
正の字は,―――おそらく落とした蚊の数だ。
蚊取り線香は,落とした蚊の数を,手帳に書き留めていたのだ。
日によってばらつきはあるが,夏の期間,途切れることなく正の字は続いていた。
男は夢中で正の字を数えていった。
合計1014匹。
男は大きくため息をついた。あいつはきっちり仕事をしていたんじゃないか。自分のやるべきことに責任をもって。毎日こつこつと煙を吐き続け,欠かすことなく蚊を落とし続けたのだ。
そして,それを評価してやれたのは,男以外に誰がいたというのだろう。
蚊取り線香は,誰かに認めてもらいたかったのだ。なのに,蚊取り線香がいくら蚊を落とそうが,男は振り返りもせず,机に向かっていた。「ありがとう」の一言も伝えずに。
蚊取り線香は仕方がなく,落とした蚊の数を手帳に書きとめていった。自分を明日への仕事へ奮い立たせるために。
男は初めて後悔した。
しかし,その想いは,もう蚊取り線香には届かない。
近くで蝉が鳴き始めた。
窓から見える空は茜色に変わり始めていた。
男はその空に,龍と戯れる蚊取り線香が見えた気がした。
蚊取り線香は,龍に臆せずにたて突いた勇者として,世の中の底辺に溢れる無数の者たちの中で,英雄として,後世に語られることになったという。