第一話 いつもの朝に
最初に見たものは、見慣れた白い天井だった。
最初に聞こえたのは、耳慣れた時計の音だった。
何の変哲もない、いつもどおりの部屋だった。そこにあるのは静寂と、静寂に紛れるわずかな息遣い。
部屋の中には、二人の人間がいた。要約すれば、自分と、誰かだ。
「……………」
睡眠からの覚醒。身体状態を確認――異常なし。危険がないらしいことは、すぐに分かった。自分でない誰か……要約すれば侵入者は、寝息を立てていたからだ。
――この時、彼は既に気づいていた。何が起こっているのか。侵入者は、誰なのか。
ベッドの上で、天井を見つめていた目線を、ベッドの上へ下ろす。
そこには……スヤスヤと寝息を立てる、金髪の少女の姿があった。自分の胸の上に頬を押し付けて、しかも割と幸せそうな顔で。
再び天井を見る。
……状況だけ見れば、恋人か夫婦が情熱的な夜を過ごした、その朝だ。
だが、二人がそんな関係であるわけもなく――当然、そんな事実がないのも自分が誰よりもわかっている。昨夜ベッドに入り、就寝するまでの間、確実に一人だった。
となれば、結論はひとつしかない。
こめかみを押さえながら――といっても、両手を少女に封鎖されてしまっているわけだが――溜め息を吐く。
こういう場合の対処方法は、既に確立されつつあった。
とりあえず、息を吸い込む。そして――
「キルヒアイゼン上等兵! 何を寝ている、さっさと起きろ!」
怒鳴りつける声に、はうあっ、と眼を見開いたかと思うと、金髪を翻す暇もないほどに迅速に、ベッドから降りて敬礼した。
そして、今度はぱちくりと眼を瞬くと、こちらの顔を認めたのか、あ、という顔をした。
その少女の姿は、一言でいえば、可憐だった。すらりと伸びた手足の細さは、『華奢』といって相違ない。さらさらと光るような金色の長い髪、瞳は美しいスカイブルーを写し取ったかのような蒼。
その造形は、男が見れば十中八九見とれてしまうに違いないほどの、金髪碧眼の美少女だ。こんな美少女に朝から抱きつかれていたと思えば、鬱陶しい気持ちもどこかにいってしまう。それも事実である。
ゆえに、彼――九桐斎は、いたって平静に、優しく朝の挨拶をした。
「……おはよう」
とりあえず挨拶をすると、「あわ、あわわわわ」と慌てふためき始める。
普段の(それなりに)凛々しい姿を見ていると、どこか笑いを誘う光景ではある……のだが、今笑えば彼女の自我を崩壊させる契機になりかねないので自粛した。
「お、おはようございます、ちゅ――その、斎さん」
「ああ、おはよう、クリス。とりあえず、俺のベッドで寝てた理由について聞かせてもらえるか?」
いや、その、と口を変えながら金魚のようにぱくぱく口を開閉する少女。白磁のような頬が真っ赤に染まっている。
そして唐突に、「失礼しましたーっ!」とダッシュで逃げ去っていった。
これもまた、見慣れた光景と言えばそうである。
(どうせ、また酒でも飲み過ぎたんだろ……)
――クリスティーナ・キルヒアイゼン。それが少女の名前だ。故あって今は共に暮らしているが、別に血縁関係があるとか、そういうわけではない。
もちろん恋人でもなければ夫婦でもない。
言ってしまえばただの同居人で、書類の上でももちろんただの他人だ。敢えて形容するならば……保護者、といったところだろうか。
実を言えば、『もうひとつの』名前を聞けば誰もが驚く類の有名人でもあるのだが、彼女がその話を嫌がるので、ここではやめておきたい。
ちなみに、見た目からはまだ十代の少女にしか見えないが、実は二十歳を超えている。
成人であるがゆえ、酒を飲む分には法律的にも問題ない……のだが、彼女が酒を飲み過ぎて酔い潰れ、挙句人のベッドで寝る、という悪癖が割とよくあるのも確かだ。人が眠っているベッドにもぐりこむ、というのも少なくない。
(弱い癖に飲みすぎるのが悪い……)
駄目人間、というような類の少女ではない。むしろ規則正しい生活を送っている方だ。
ただ、朝も夜も問わずに怒涛のように襲いかかる類の仕事は、彼女の中にどうしてもストレスを蓄積させてしまうのだろう。
とはいえ、ストレスのはけ口を酒ばかりに求めていては、体によくない。そろそろ何かひとつ趣味にでも目覚めて、新しいストレス発散方法を彼女も編み出すべきだろう。
うんうん、と頷きながら彼女が秘蔵している酒類の類を、今度どこかにひっそりと隠しておいてやろうと思った斎である。
無論、彼女が知れば泣いて止めるだろうが、それで全てが片付くほど人生は甘くない。今のうちに、そういうことを叩きこんでおいた方が彼女の為だ――きっとそうに違いない。
密かな決意を固める斎のことを、朝ごはんを支度すべく台所で駆けまわるクリスが知る術は、無論なかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「ごちそうさま」
「ごちそうさまです」
クリスの作った朝食(ちなみに斎の希望で今日は和食だ)に下鼓を打った後、残った食器を重ね、台所まで持って行く。
それに倣ったクリスに、斎は片手を振った。
「ああ、置いといてくれ。片づけておくから」
「あ、すみません」
敬語でクリスが返す。下ろしていた髪は、今はポニーテールにまとめられている。今朝の無防備な雰囲気とは違い、もういつものしっかりとした雰囲気に変わっていた。
なお、家事は分担だと最初に決めているので、斎としてはごく当たり前のことでしかない。
ちなみにだが、彼女の方が年上であるので、当然ながら敬語は本来必要ない。が、忠告するたびに「好きでやっていることですから」と返され、苦笑はしても止めてはくれないのだ。
とはいえ、彼女との付き合いも長い。もう慣れたが、若干むずがゆい時もある。
ちなみに最初はと言うと、むず痒いどころか勘弁してほしいと思ったものだ。そう思えば、なるほど、人間は成長する生き物だと実感する。
「そういえば斎さん、今日は入学式ですよね」
「ああ」
四月一日。春の訪れるこの季節は、ここ日本ではごく当たり前に入学式の季節である。
当然斎も、その準備は昨日のうちに済ませてあるので、クリスの手を煩わせるところはない。疑問に思いながら、素直に頷いた。
「その入学式って、私も……その、行っていいんでしょうか?」
ん? と眼をやると、彼女の頬は若干朱に染まっていた。
当然ながら、入学式にも父兄の参加枠というのはある。確かに、説明会の時に、もらった書類の隅に書いてあった記憶があった。彼女の仕事についても、今日は休みだと聞いている。ただ……
「……目立つからな、君は。俺の知り合いだとバレたら、少し面倒だ」
「だ、大丈夫です! 潜入任務も経験があります!」
「そういう問題ではないんだが……」
ただ、彼女の名前は嫌というほど知られているが、顔は実のところあまり知られていない。その理由と言えば、何せ、本人が写真を撮られるのを嫌がるからだ。
何でも、写真は嫌いなのだと言っていたことを聞いたことがある。
(……フム)
皿を無意識的に洗いながら思案する。その間も、彼女はずっとこちらを見つめていた。
「……まあ、別にいいか」
「い、いいんですかっ!?」
飛び上がるように――あるいは飛びつくかのように――ぱっと彼女は顔を輝かせる。
何がそんなに楽しいのか分からないが、まあ、別にバレないだろう。万が一バレたとしても、自分の知り合いだということは彼女も明かすまい。
第一、彼女は既に何度か買い出しで外に出ている。それでもバレていないのだから、それほど難しい話でもないはずだ。
「ただ、ある程度の変装はしてきてくれ。帽子を被るぐらいでもいい。バレないに越したことはないからな」
「了解です!」
それを聞くや否や、彼女はダッシュで部屋に駆け込んだ。苦笑しつつその背中を見送る。
(まったく……思い立ったら速いな)
いつもそうだ。いつでも全力。そんな彼女だからこそ、少しばかりのわがままなら聞いてやりたくもなる。
……ただ、この時の彼は、若干見通しが甘かった。
それを彼が認めざるを得なくなるのは、あと三十分は先の話なのだが。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
塞翁が馬、という諺がある。
――幸運が転じて不幸となり、不幸が転じて幸運となる。
そういった意味合いであるが、当然、そうでないことの方が圧倒的に多い。不幸は所詮、不幸以上の何ものでもないし、幸運は所詮幸運であって、必然ではない。よって、何の気もなしに不意に起こるし、そしてその偶然が、或る一人の人生すらも壊してしまうことだってある。
不幸にせよ、幸運にせよ、それは同じことだ。
よってこの時、九桐斎の身に起きた不幸が、後々になって取り戻せるとは断言できないのである。そして断言しよう。彼女の身に起きた事件は、あくまでも事故であって、故意ではない。断じてない。
……さて、では言い訳をしよう。
食器を洗え、まずランニングに向かった。日課である。約12kmの距離を走り終えたとき、既に三十分は経過していた。
そして学校へ行く準備を整える。服を着替え、鞄の中のタブレットPCを確認し、部屋を出る。
さて、それじゃあ時間もあるし、クリスに準備が出来たか声をかけてみるか、ということを唐突に思い付き……そして、それが悪かったのだろう。
トントン、と部屋のドアをノックし、そのままドアノブを握る。
「準備は出来た……か……」
言いながら、がちゃり、とひねった。言葉の最後が消えかかっていったのは、その先にあった光景に、思わず絶句したからである。
そこには、ズボンを脱ぎかけた状態のまま硬直した、金髪の少女が居た。
上に着る白い服ははだけられ、彼女の前に設置された鏡からは、形のいい胸と純白のブラとが覗いている。そして眼前には、同じく白のパンツに包まれた彼女のお尻。
彼女のスタイルの良さと肌の白さに改めて驚かされながらも。この段階で、既にもうどうしようもない窮地に立たされてしまったのだと、九桐斎は理解した。
そして起こせるアクションは、彼の場合たった一つ。
「……失礼した」
がちゃり、と扉を閉めて外に出る。
『――△■●%っ!?#@▽◇――っ!?』
扉の中から、言葉にもならないような悲鳴が轟いた。
「……すみません……」
それから十分後。斎による誠心誠意をこめた(扉の向こうからの)謝罪にようやく折れたのか、がちゃりと彼女はドアを開けた。
おずおずと頭を下げたその顔には、申し訳なさと恥ずかしさが半分半分くらいで映っていた。未だ頬を若干赤く染めつつも、こちらに視線を合わせようとはしない。
「お待たせしてしまった挙句、お見苦しいものを……」
「いや、お見苦しくはない。クリスは綺麗だからな」
言ったとたん、「はうあ」とクリスはまたもや頬を染めた。褒め言葉に弱いことは普段の経験から分かり切っている。こ誤魔化されるのは彼女としては本意ではないだろうが、無論、彼女が綺麗だと思うのも真実であるから問題ない。
……ともあれ、そんなこんなで。ようやく、彼らはそうして家を出た。
登校路を並んで歩きだす。
お互いの服装としては、斎は無論だがただの制服で、対して四十五分という長い着替え時間を使ったクリスは、白のワンピースに鍔広の帽子……いわゆるサハリハット、という出で立ちであった。
こちらの視線に気づいたのか、クリスは少しだけ目をそらすと、ためらうように、言った。
「……その、似合ってますか?」
「ああ、とても」
お世辞ではなかった。クリスもそれを理解したのか、ぱっと花のような笑顔で嬉しそうに微笑んだ。
それに、とクリスは言った。
「髪も下ろしてますし、帽子で隠してますから、まずバレないと思います」
「そうだな」
確かに、いつものポニーテールが、今はロングヘアに変わっていた。美しい金の髪が、さらりと風に揺れる。
なるほど。目の前にこうしている彼女は、普通の少女だ。多少、というか、過分な脚色をせずとも十分すぎるほどの美人ではあるが、それだけだ。
斎の言葉を皮きりに、二人の間に満ちたのは、朝の静謐さを含ませた沈黙だった。
しかし不快ではない。それはお互いにだったのだろう。二人の歩く速度に、淀みはない。
「……学校かぁ」
彼女が口を開いたのは、五分かけて歩き、ターミナルのゲートについた時のことだった。
ゲートで指紋とパスを認証し、構内に入る。ターミナルは、コロニー全体を縦横無尽に走る輸送エレベーター……通称『クレードル』へと繋がる。エレベーターといっても個室式で、最大で時速は300kmにも及ぶ代物だ。
しかし、今この『クレードル』は、やや斜め下方向に向かって、時速50km程度の緩やかな速度で輸送路を滑っていた。だが、たとえ300kmの速度を越えても、その振動や苦痛といったものはまったく内部には伝わってこなかっただろう。アーマードにも応用される重圧軽減装置のおかげだ。『揺り籠』の名はここに由来する。
斎は、クリスの言葉に何も返さなかった。
返さなかった、というより、返せなかった……といったほうが正しいだろうか。そもそも今の言葉は、答えを欲している風でもなかった。今も彼女の視線は、自分ではなく窓の外を流れて行く景色を見つめている。
その視線につられて、同じく斎も外に眼をやった。
地面は、緩やかな湾曲を描き、そしてその端で、上空へと湾曲していく大地は、白い霞に隠されて消えていく。やがてそれは白から青へと代わり、やがて澄み渡る蒼い空に、薄い雲が流れていく。
それは偽物だ。本来は、この上空で誰かが暮らしている大地が見えるはずなのだから。しかしそうと分かっていても、斎は、その空は美しいと思った。
だからきっと、地球の空はもっと美しいのだろう。
「綺麗ですね」
「ああ」
素直に答える。毎日のように見ているこの光景が、何度見ても飽きることがないのは不思議なものだ。本来、コロニーに青空はなかったが……精神的にどうとかというような話になったらしく、上空には、精巧な青空を模した立体映像が映し出されていた。
――コロニー。かつて提唱され、そして様々な経緯を辿り、そして今に至った人の居場所。
それはかつて、宇宙にある仮初めの宿として造られた。しかし今や、人類が決して欠かすことの出来ない居住の地となっている。
たとえば今、自分たちが暮らしているこのコロニー……日本国第二十一番コロニー『アストライア』は、およそ360万人がその生を営んでいる。それが日常であり、それが今の人々の一生だ。
……人は、コロニーで暮らし、コロニーで死ぬ。
もちろん、それが月ということもあるし、火星ということもある。あるいはもしかすれば、ようやくテラフォーミングが始まった、地球ということもあるかもしれない。
しかし総じて言えば。……人は今、宇宙で生きている。
不意に、クレードルの機械音声が、目的地への到着を告げた。
景色が急速に変化していく。クレードルが音を立ててその速度を弱めると、青空だった景色は漆黒に変わった。ターミナルの中に入ったのだ。
がしゃり、と音を立ててクレードルがドアを開く。到着だ。
さて、と鞄を掴む。
「それじゃあ、行こうか。学校に」
「はい」
微笑みながら頷いて、クリスも立ち上がる。
――結局。最後まで、彼女の言葉の意味を聞けないままだったと、斎は思った。
だが、それでもいい。時間は山ほどある。聞きたい時に聞けばいい。彼女の話したい時に、聞いてやればそれでいい。
きっと、人生とはそういうものなのだろう。
話数が話数なので、二話につき一話でまとめて更新しようと思ったんですが…それもそれで面倒なので。なお説明は読むのが面倒臭くなりかねないので極力少なめですが、世界観については徐々に徐々に明かされていく予定です。11/4 一部本文を修正しました。