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I5

 終礼の挨拶が済んで皆が帰宅や部活へと銘々の目的に向かう中、掃除当番である俺は用具入からモップを取り出す際に

「それじゃぁ清十郎、また後で」

 大きな陸上部のバッグを肩にかけた小さな疾風にそう声を掛けられ、

「おう、頑張ってきなさい。食堂で待っててやる」

 と軽く手を挙げて応え、床の拭き掃除を開始した。

 当然の事ではあるが、帰宅部の俺と陸上部の疾風では下校時刻が異なるので普段は別々に帰ることになっている。帰ることにはなっているのだがしかし、別々に帰った回数を数えてみれば、これが文字通り数える程しかない。多々色々、なんのかんのと言いながらほとんど毎日、一緒に帰っているのだ。

 例えば今日にしろ、俺が掃除当番だから普段よりは下校時刻が遅くなるので、食堂で疾風の授業ノートを使って復習でもしている間に、陸上部の部活も終わるだろう――そんな事情となり、つまりはなんのかんので一緒に帰ることになったのだ。

 こういう結末を毎度毎日迎えてしまうから、俺は疾風との関係を幼馴染ではなく腐れ縁と言うマジナイめいた表現をしてしまうのだろう。

 教室はさして綺麗になった印象はないものの、それでもチリトリ数回分ぐらいのホコリが今日もゴミ箱に回収され、窓から茜色の光が差し込む夕暮れ時に掃き掃除は終了した。毎日毎日掃除してもこの程度にゴミが出て、しかも掃除前とあまり変らないように見えるのは、俺の密かな七不思議である。

 先生による最終チェックが終わり、

「お疲れ様でした」

 の挨拶と共に掃除は終了した。後は『幼馴染の嫁持ちは爆発すれば良い』という意味の分らないレッテルを張られた俺が、その意味の分らない罰として任されたゴミ捨てを終えるだけだ。

 ゴミ箱を身体の前に抱え、静かになった廊下を進む。グランドから微かに聞こえるランニングの掛け声、バットが硬球を打つ音、ホイッスルの音。それらに運動部が練習に励んでいる姿を思い描く。この雑多な青春の音に、疾風も一生懸命になって紛れているのだろうか。

 そんなことを何となく思いながら、下り階段へ続く方の廊下に折れた。


 パコーンと辞書クラスの本で顔を殴られて尻餅。


 あまりに唐突、あまりに意味不明。非常事態宣言打ち出しそうな顔の痛みに悶えていたら

「ごめんなさい。大丈夫ですか吉岡先輩?」

 聞き覚えのある声に鼻を押さえつつ涙目を向ければ、そこには今日の昼に騒いでいた俺と疾風に『痴話ゲンカなら外でお願い致します先輩方』と呆れていた後輩――憑神(ツキガミ)(レイ)が、胸の前で厚い本を数冊抱いていた。

 彼女は少し頬を染めて目を逸らしつつ

「ごめんなさい先輩。本を抱えたメガネっ子後輩とゴミ箱を抱えた先輩が衝突して『キャ!』とか声を挙げつつ尻餅ついてパンチラしながら『いたたた……』とか言う展開はベタ過ぎると思ったので新展開を講じてみたらこの有様です」

 とかふざけたことを仰る憑神に向けて

「君の試みた新展開のせいで校内美化活動に励んでいた先輩がわりかし重症だ……!」 

「私の本気の一撃を受けてもゴミ箱の中身をぶちまけないなんて先輩相当訓練されていますわねフフフ」

 本気だったんですか今の図書ストライク。

「やはり殴るなら新約聖書に限りますわね」

 知らんがなこの罰当たり。今尚ヒクヒクと震えつつ

「俺にどんな恨みがあるんですかい憑神さんや」

 と呻けば、彼女は人差し指を立てて

「それはだってほら、昼間から隣であんな可愛らしい人とイチャイチャペロペロされたら奈落の果てに蹴落としたくなるじゃないですか?」

「俺がいつ疾風とイチャイチャペロペロしたよ!? 単に口喧嘩してただけじゃねぇか!」

 噛み付くように言えば「あら~?」と露骨に口端を吊り上げて笑って

「私は可愛らしい人とは言っても稲峰先輩とは『い』の字も言ってませんがするとつまり~、先輩の中で『可愛らしい人』と『稲峰先輩』は等価と言う訳ですね~?」

「揚げ足とんなメガネ!」

「それなら今朝ベッドに潜り込んでギシギシあんあん子作りに励んでいたいう話にも納得がいくと言うものですね」

「勝手に納得すんな! あれ全部疾風の妄想だよ!」

「ウフフフやるじゃん清吉」

「なんかフレンドリーかつタメ口になってますよ憑神さん!?」

「これはこれは失礼致しました吉岡先輩。冗談はこのぐらいにして」

 彼女は手を差し出しながら上品にニコリと笑った。

 俺がその手を借りてヨロっと立ち上がれば

「ここで私が引っ張られて『キャ!』って先輩の顔を先約聖書で殴りつつ抱きつく展開はアリですか?」

「あくまで俺の顔を新約聖書で殴りたいのか君は?」

「先輩なら奮発してコーランでも良いですよ」

「論点ズレてんぞオイ」

 憑神麗。二年生16歳。超科学部部長で飼育委員担当。いつもゴスロリファッションな彼女は定時になると食堂に現れ、俺の隣に無言で着席し、自分のコスチュームを一切汚さず上品に如月製のラーメンを食べて颯爽と出て行く変わり者だ。

 彼女が部活を努める超科学部と言うのを簡単に言えば――いや、簡単には言えないな――俺もほとんど把握していないのだが、本人曰くは現代科学では説明のつかない現象全般について部員達と熱心な議論を交わし、互いの考察を深め合う部活らしい。

 ところでミツバ学園で部活動を成立させるには部長を含めて最低四人の部員が必要なのだが、俺も俺の友人も憑神以外の超科学部の部員を見た事がない。しかしながら部室の前を通るときちんと四人以上の声がして、熱心な意見交換が行われていると言う話は良く聞くのだ。何と言うか活動内容も存在自体もオカルティックである。これもまた俺の七不思議。

「ところで先輩、こんなところで何を為さってるんですか?」

 と憑神。何をとぼけた事を。俺はつい大事そうに抱えてしまってるゴミ箱をコンコンと叩きながら

「見ての通り、ゴミを捨てに行くんだよ」

「先輩、自殺とか早まっちゃいけません」

「その意味解釈次第ではオメェのメガネ没収するぞ」

 言えば何故か憑神はハニかんで

「先輩が私のメガネ着脱バージンを奪ってくれると言うのなら覚悟を決めますわ」 

 触らぬバカに祟りなし。

「ごめんなさい俺が悪かったです。あとゴミ捨てる用事があるんでこれで」

 と何時までも頬に手を当ててモジモジやってる憑神女史の横を素通りしようとすれば

「袖刷りあうのも他生の縁です。私も憑いていきますわ」

 ソックリ向きを変えて隣を歩く彼女に、俺は苦笑い。

「袖刷りあうだけなら良かったんだけどな。あとなんか『ついていく』の発音おかしくね?」

「これはこれは、瑣末な事を気にされますわね吉岡先輩」 


 学園裏の焼却炉にゴミを捨て、ゴミ箱を教室の隅に戻し、カバンを取って食堂に向かった。

 この一連の動作の間、憑神麗は付いてくると言うよりも憑いてくると言う表現の方が適当なほど、俺の後をピタリと足音足並揃えて憑いてきた。

 時折妙な雰囲気を感じて振り返ると

「どうしました先輩? 私ならちゃんと憑いてきてますわ。ずっと」

 とニコリと言われるばかりで、それに俺はいちいち首を傾げていた。

 誰もいない食堂に入り、適当な椅子に腰を降ろしてカバンから疾風のノートを取り出す。隣に座った憑神が俺の脇腹を肘で小突きつつ

「そこに唾液とかコッソリつけておく感じですか先輩?」

「どんな感性してんだオメェ! つけねーよそんなもの!」

 突っ込めば口に手を当ててニマ~とヤな笑いを浮かべながら

「もしかして先輩、下の方の白いのを擦り付けるおつもりで――」

 俺は憑神のメガネを没収して「やーん吉岡先輩にバージン奪われた~!」とかやってるアホの後輩をそっちのけにし、生物学のノートを開いた。ほんとマジでややこしいのが憑いて来たよ……。

 と、そこでメガネのない憑神が急に身体を寄せて来たかと思いきや――良い匂いがして柔らかで、ああ、しかしこれ本当に高一の発育ですかね。もしこれが如月の賜物であればあながち先生の言ってた事も……イヤイヤ何を考えているのだ俺は!――彼女はノートを覗き込んでから驚いたように言った。

「狂犬病ウィルスって……これ」

 ――だよな。

 この試験範囲って普通はおかしいと思うよな。その心中を察して一言相槌とも思ったのだが

「私の学年と試験範囲が全く同じです。これ」

 ちょっと予想外のコメントが続けられたので「へ?」と間抜けな声を出せば、憑神はアセアセと自分の真っ黒なトートーバッグから一冊のノートを取り出し、

「見てくださいコレ」

 バっと俺に広げて見せた。どれどれ。


 ○月×日、正午ピッタンコ。隣でラーメンを食べつつ、アヤツの昼食に媚薬を盛り込んで私の性奴隷と化すという計画は、今日も失敗した。水泡に帰したのだ。まぁいい、まぁいいですわ。まだ後二年ある。

 それにしてもアヤツの隣にいるアホ毛のチビがうざったい。どうして私が狙う時狙う時、いつもいつもアヤツの傍にいるのであろうか。セフレ疑惑、浮上。

 何れは地下三階に拉致監禁し、自白剤を飲ませてヒィヒィいびりながら尋問せねばなるまいて。そうと決めては何れとは言ってらんない。善は急げだウイウイ。決行日は……


「すみませんこれ私のプライベートノートでしたこっちが生物学です」

 パタンとそれを閉じて別のノートをまた俺に広げた。ちょっと見てはいけないものを見たような気がしたので忘れる事にした。

 さて生物学とは、どれどれ


 ■■■■■(ミミズがうねったような文字記号の羅列。いろいろ宇宙っぽい。全く読めません)


 俺は深呼吸してノートを閉じ、

「えっと、憑神さん何て書いてるんですかねコレ?」

 穏やかに尋ねれば、彼女は得意げに指を差して

「フフフ。聖書ヘブライ語で縦読みすれば『ワクチン打たなきゃ死んじゃうわキャルーン』と読み解けませんでしたか!?」

「読み解けねぇよそんなシークレットコード!!」

「ハハハ。ゆとり教育の弊害ですね」

「あぁ!?」

 兎にも角にも憑神女史本人に、その暗号を解読してもらった内容と疾風の生物学のノートを比較すれば、なんと大方の内容が一致していた。

 あの怪文書――ですらない文字記号の塊が日本語になった、という驚きはひとまず置いておいて、高校一年生と高校二年生の試験範囲が今回に限って全く同じという事実に、俺は腕を組み、憑神は首を傾げた。

 憑神が思い出すように目を閉じながら

「確かこの狂犬病ウィルスに関する項目は『明日の生物学の試験に必ず出るし、しっかりと抑えておかなければ確実に進級出来ませんから』って、如月先生は仰ってましたわね」

 そう言った。こんなフレーズまで俺達二年生と一緒だった。

 しかしながら試験一教科の一項目だけで進級を左右するというこの言い方は、重ね重ね大袈裟過ではないだろうかと思う。ましてそれを一年生相手にも言ったのなら尚更だ。どういうつもりなのだろうか、先生は。

 そのまま思案していたら扉の開く音がした。二人して見てみれば、そこに現れたのは薄桃色の二尺袖を着付け、腰に朱塗りの鞘を差した和服美人――即ち小早川先輩。彼女は切れ長の目でチラと俺を見ると

「少し待たせてしまったか?」

 そう仰いました――――危ない危ない。今朝の正門で待ち合わせの約束を取り付けられていたのを、今の今までスッカリ忘れていた。

 俺がペコリと頭を下げてから「いえいえ今来たところです」と言えば

「今のセリフって恋人同士の定番待ち合わせセリフみたいで若干ムカつくんですが」

 ブーブーと何故かブーイングの憑神。俺は白い目で見ながら

「オメェの連想にいちいち気を使うつもりねぇよ」

「爆発しろよ」

「しねぇよ!」

 言いながら憑神にメガネをスポっと戻した。すると彼女は目を数度パチクリとさせてから俺を見て、驚いたように「まぁ」と口に手を当てて

「吉岡先輩でしたか」

「オメェ、さっきから誰と一緒にいるつもりだったんだよ」

「てっきりさっきの焼却炉で身投げしたものかと」

「あぁ!?」

 などとしょうもない事をやっていたら

「憑神も一緒だったのか」

 と声をかけられ、小早川先輩の方を見た憑神なのだが彼女は何故かウットリとした様子で

「……萌お姉様でしたか」

 と言いながら立ち上がり、おもむろに小早川先輩に近付いてその腰に腕を回し、身体を預けた。

 ゴスロリ美少女、和服美人お姉様に抱きつくの図。

 ――何をやっているのだこの娘は。

 この遠慮のない行動に小早川先輩はやや顔を赤くし、困ったように眉根を寄せながら

「憑神。私を見るたびに顔を赤くされたり抱きつかれたりするとなんだか妙な気持ちになるから、その、もう少し普通の対応をしてくれないか?」

 やや弱弱しく言った。言い忘れたがミツバ学園の大量破壊兵器と恐れられている小早川先輩にとって、今のところ憑神は唯一の鬼札(ジョーカー)なのだ。

 憑神はそのまま顔をあげ、怪しげに微笑みながら

「これは不可抗力です。萌お姉様」

 囁くように言った。そして腰にまわした手で背中をゆっくりと撫で回しながら

「ところで萌お姉様。女の子が女の子に対して――私が萌お姉様に対して焼き立てのアップルパイのような好意を抱いている事について、萌お姉様はどのようにお考えですか?」

 あからさまな百合宣言に一層、顔を赤くする小早川先輩。彼女は憑神の濡れた目線に圧されたようにその目を逸らしながら

「私も、先輩として後輩から慕われるのは嬉しい。嬉しいのだが、しかしその、これは少し倫理的な問題を孕んでいるような気がするのだが」

 と、そこまで言ってから「ん?」と何かに気付いた模様。先輩の視線の先には憑神女史の生物学ノートが開いてあって、先程も申し上げたとおりそこには常人には解読不能な

「『ワクチン打たなきゃ死んじゃうわキャルーン』に『狂犬病に感染したら諦めろや』か。ほう、なかなか」

 なかなか。

「いやいや先輩なに平然と読んでおられるのでしょうか?」

 俺の指摘に小早川先輩は頷いて

「ああ確かに、言葉遣いが壊滅的なのが玉に瑕ではあるがしかしなかなか達筆で好感の持てる文章だと思わないか? 私は褒めるとこは褒めるぞ」

 と自らの教育理念をお話になりました――いやいや

「玉に瑕とかじゃなくて何で普通に解読できてるんですかこの宇宙文字が」

「ツァディーとか特に良いな。躍動感ある」

「いや知りませんから。ていうか何で普通に読めてるんですか」

「ただの聖書ヘブライ語じゃないか。このぐらい一般常識だろう?」

 と仰る萌お姉様。

「一般常識ですわよ」

 と仰る憑神女史。

「逸般常識ですよお二人さん」

「精進あそばせ吉岡先輩」

 小早川先輩の威を借り「ベー」と舌を出してるゴスロリ。

「メガネ割るぞテメェ」とその舌を引っ張っる俺。

「あででで」と涙目憑神女史。

「ところでお前達は三年生の授業も受けているみたいだな」

 その声に俺も憑神もピタリと動きを止めた。見てみれば小早川先輩は俺の借りている疾風のノートをめくりながら

「理系大学志望の私としてはこうした専門性の高い授業は歓迎なのだが、しかし明日の試験で『卒業を左右するからそのつもりで』と最後に添えられせいか、どうも肩に力が入ってな。何時ものように楽しむ余裕が出てこない。まぁあらかた頭に入っているから試験は問題ないのだがな。しかし、そうか。最近憑神と吉岡をセットで見かけるなと思っていたのだが、こういう接点があったわけか。上の学年の授業を受けにいくその積極的な態度は良いぞ。しかしそれにしても、やはり高校で細菌学の授業が行われるというのは……」

 そこで俺と憑神の視線に気付いた小早川先輩。彼女は黙っている俺達二人を交互に見てから、やがて「ん?」と首を傾げた。

 

 食堂テーブルの上にはノートが三冊。

 疾風のノート、憑神のノート、そして小早川先輩のノート、である。何れも生物学のノートであり、記されているのは狂犬病ウィルスを中心とした内容だ。つまりミツバ学園で行われている今期の生物学の授業は、全学年同一ということになる。それも内容は細菌学――小早川先輩曰くは大学の医学部で習うような内容で、理系文系関係なく通常の高校でこのような科目が開講される事はありえないのだそうだ。

 これは奇妙だ。

「……そして、小早川先輩の方でも『狂犬病に関する項目はしっかり抑えておかないと卒業出来ない』。そうした事を如月先生は言った訳ですよね?」

 俺が尋ねると先輩は「ああ」と頷き

「配点を考えても、狂犬病の分量だけで60点も用意するのはかなり無理がある。全部記述式にしても無理だろう。普通に考えれば誇張強調した言い方なのだろうが、しかしそうまでして伝えたい程重要な内容だとは私には思えない。ミツバ市に限らず、日本での狂犬病の年発生件数はずっと0を更新している。その上で全ての飼い犬には役所への登録と毎年二回のワクチン接種が義務付られているからな。感染する恐れはないだろう」

 だからあそこまで発破をかけて、全学年に対して学ばせる理由が分らない、と言う事なのだ。

「そうすると何か他に理由があるのでしょうか」

 と憑神は三冊のノートを見比べながら思案している。「さてな」と先輩は言い、

「しかしもう少し早くこの事実を知っていれば、如月先生に理由を伺いにいったのだがな」

 と腕を組んだ。試験はもう明日に迫っているので、急用でない限り職員室に生徒が入ることはできないのだ。

「まぁ前々から内容には疑問を持っていたのだが、私のクラスは理科系志望クラスだからこうした科目もあるのだろうかと無理に納得していた。しかし全学年とは実に奇妙だ」

 そんな先輩の最後の一言にピクリとなった憑神は「奇妙、そうだ」と何かを思い出した様子でノートから顔をあげ

「今朝の午前八時のサイレンの時間ですが、先輩達は何か変ったものを見ませんでしたか? その、空とかに」

 それを聞いて俺と小早川先輩は目を一瞬だけ合わせ、それからほぼ同時に頷いた。そして小早川先輩は正門から、俺は自宅のベッドから窓越しに、白煙を出しながら空を飛ぶ何かを見たと告げた。

 憑神は「ベッドからですか」と頷いてから俺の方を見て

「『可愛らしい人』と一発終わった後ですか?」

「次はメガネ割るからな」

「何の話だ吉岡?」

「俺にも分かりません。で、憑神。お前はどこでそれを見てたんだ?」

 憑神が空飛ぶそれを見たのは今日の朝、ミツバ学園の飼育小屋にいるウサギに餌をやっている時らしかった。彼女は思い出すように目を閉じながら

「間違いありません。あれは、私が今年で二才になる青いウサギの清十郎――略して青二才の清十郎にエサをやろうとしている時でしたわ」

「ねぇレイちゃん、ほのかに俺にケンカ売ってませんか?」

「異変を感じて飼育小屋の金網から外を見たら、大きな飛行物体が周囲に白い煙を撒き散らしながら、学園の上を通過していたんです。方向は真東から真西でしたわね。最初は飛行機か何かだと思ったのですが、それにしては細長いし、速度も遅いし、何より翼のない見慣れない形だったので記憶に残ってますわ」

 小早川先輩は「ふむ」と顎に手を当てて

「お前はそのとき青いウサギに餌をやろうとしていたのだな?」

「はい。愛しい青二才の清吉にちゅっちゅしながら餌をやろうとしている時でした」

「どうしよう、いま無性にメガネっ娘が殴りたくなってきた俺がいる」

 小早川先輩が憑神にこう尋ねた。

「お前はその時に異変を感じたと言ったが、それは何だ?」

 すると憑神がメガネの位置を調節して

「あの時、動物の様子が少し変だったんです」

「変だった?」

 先輩が眉を潜めると、憑神は「ええ」と頷いた。

「ウサギもそうでしたが、中にいるインコも鶏も、みんな怯えたように空を見ていたんです。鶏は警戒音みたいな鳴き声を繰り返して、ウサギは耳を畳んで固まったようにじっとして、インコは本当に『ギャーギャー』言いながら忙しく飛んで、でも皆が皆、空を見上げてたんです。そのことに気付いて私も金網の外を見たら……」

 あれが飛んでいた、と憑神は言った。ふむ、と俺は腕組み。

「動物が騒ぐ――ねぇ。そういうのに関連する話ってあまり気持ち良いのないよな。大地震の予兆とか、疫病蔓延の前兆とか。異常気象とかさ。まぁ迷信だとは思うけど」

 憑神は頷いたのだが、小早川先輩は「いや、迷信とするのはどうだろうな」と俺の目を見た。

「動物は人間に比べて優れた感覚器官を持つものが多い。だから私達が気付かない自然の変動や異常を察知し、後に起こる災害を知ることが出来ても不思議ではない。お前の言った地震の予知もそうだ。動物達だからこそ感じられる地震前に発生する特殊な電磁波や超音波を彼らは感知し、そのストレスによって異常行動を起こす。そんな学説が実際にあって研究もなされている。宏観異常現象と呼ばれるやつだな」

 宏観異常現象――地震前にナマズが暴れたりカニの群れが大移動したりするアレだろうか。

「異常行動と言えば、そう。動物に限らず人間にもありましたわね」

「何それ?」

 尋ねると憑神は俺の方を向き、

「生物学の範囲が三学年共通で、しかもその内容が妙だったことです。あるいはこうして三人が集まっている事とかも、ある意味そうじゃないでしょうか?」

 ――――いやいや。

「それは動物の異常行動とは無関係じゃないか?」

 と言えば、「いや、どうだろうな」と小早川先輩。

「『自然の異常』を感知し、動物が『異常行動』を起こす。今この状況に限っていえばこれもそうかもしれない」

 その表情はやや真剣だった。

「飼育小屋で様子のおかしな動物を見た憑神はその事をここで話し、それを聞いた私達は普段はしないような意見を交換した。これは言い換えると、飼育小屋にいた動物の様子がおかしいと言う『自然の異常』を、憑神が感知し、それによって普段はしないような意見交換をするという『異常行動』を起こしている――人間という動物である私たちがな。つまりこれも広義の意味で、自然の異常を感知した動物が異常行動を起こしている例、と言えなくはない」

 ややこしいな、なんだか。

「もしこれがその異常行動だったとしたら、この後に何が起きるんですかね? 地震でしょうか?」

 俺は小早川先輩の目を見て尋ねたが、先輩は「さてな」とだけ答えた。 

 扉の開く音が再びした。

 三人同時に見れば、肩で息をしている疾風の姿がそこにはあった。なかなか息切れのしないコイツがこの状態と言う事は、相当の距離を相応の速度で掛けて来たに違いない。

「ごめんごめん清十郎。遅くなっちゃった――って、小早川先輩どうしたんですか? それにレイまでさ?」


 ひとまず俺達はこれまでの会話の流れを疾風に説明してみたのだが、彼女はそれに関して別の意味で驚いて、俺達はその驚きに驚かされることになった。それは、疾風は前から生物の授業が三学年共通しているという事実を知っていたと言う事だ。

 疾風はアホ毛をヒクヒクと動かしながら

「ボクも変な勉強するなぁとか思ってたから、陸上部の先輩や後輩と結構前から話題にしてたよ。本当に知らなかったの清十郎?」

 嫌味はないのだが、その表情には何を今更と言う具合の驚きがあった。何だか今まで異常行動だのなんだの話題にしていたのが、か急に滑稽に思えてきた。そのせいなのか

「オメェ、何で俺とは話題にしてくれなかったの?」

 とややスネたようなことを言ってしまい

「だって清十郎、そもそもあんまり授業に興味なさそうなんだもん」

 そのままごもっともな解答をもらって閉口してしまった。

 確かに俺は知的好奇心は旺盛なほうではないし、自由時間に授業科目について話をする程マジメ君でもない。ましてその相手に運動系の疾風を選ぶ事はないだろう。しかし。疾風は小早川先輩の方を向いて

「小早川先輩も知らなかったんですか?」

 キョトンと聞けば、小早川先輩は「ああ」と頷き、

「私も私の知り合いも、授業内容にはどうこう言わず淡々と勉強する方だったからな。それに後輩達と交流する唯一の機会と言っていい生徒会も、定時に始まって定時に終わり、その間に私語は許されていない。だから結果として、そうした情報を今の今まで得られなかったのだろう。知らぬ間に私はガラパゴス化していた訳か。何だか寂しいな。もっと後輩から親しく接してもらえるようになりたい――今日の授業では何を学んだのかを、気軽に交わすぐらいにはな」

 とやや自嘲気味に笑った。

 仰る通り、俺のような凡人などは小早川先輩に対して『今日の授業どうでしたか?』といったノリで話しかけるのは難しい。何と言うべきか、冷たい眩しさのようなもので圧される心地がして近寄りがたいものがあるのだ。こう、完璧過ぎて?

「まだまだ未熟だな。もう少し精進して自分に磨きをかけなくては」

 それでは一層、近付き難さに磨きがかかりますよ、とはやっぱり、なかなか言えない。ああ、何か悪いものが循環しているような。

「レイも知らなかったの?」

 と疾風にパチクリと目を向けられた憑神は、「私ですか?」と自分を指差して

「私は友達がいませんので」

 さらりとあっさり――いやいやいや。

 俺はゴスロリの肩にポンと手を置き

「そんな言い方やめようよ憑神。吉岡清十郎はお前を友達だと思っているんだから」

 小早川先輩へのさりげないアドバイスも込めてフレンドリーに言えば、憑神はニコリとして

「何を言ってるんですか先輩。清十郎は私のペットですよ」

「憑神さんや、ボケるにしても物事には順序と言うものがあってね。まずは君が飼育小屋で変った名前の兎を飼っていることを説明しようか」

「せ、清十郎ってレイに飼われてたの?」

「ホラね。こうして誤解したバカが不安で目を潤ませてくるからさ」

「そうですわ稲峰先輩。私は飼育委員として清十郎を金網に覆われた小屋に全裸で監禁し、毎日その身体を抱き締めたり撫で回したりちゅっちゅしたりしつつ餌ヤリから糞尿の世話まで愛情を込めて――あーん私のメガネ!」

 何だか疾風が赤面した上に「ちゅっちゅって何さ」とか言いつつ泣き出しそうだったので憑神のメガネを没収したら、「そうだ忘れていた」と小早川先輩は俺の方を向き、

「そもそも私がお前をここに呼んだのは他でもない。前にも言ったと思うが吉岡、やはりお前、生徒会に入る気はないか? っていうか入れ」

 ここに来てようやく本題である――っていうか、あれ?

「命令ですか?」 

「そうだな。そう取ってもらっても構わない」

「俺が構います」

「これまで一ヶ月ほどお前の様子を伺ってみたのだが、放課後になると稲峰が部活を終えるまでの間、何時もここで憑神とダラダラ時間を潰しているばかりだ。あまり有意義とは言いがたい時間の使い方だ」

 と何故かお説教モード、なのだがしかし、仰っている事はごもっともなので反論出来な――あれ?

「あの先輩。確かに俺はなんかんのと言いながらここで疾風を待つ日が多くなってますが、憑神と一緒にいる事ってそうないですよ? 今日はたまたまだし」

「何を言っているのだ。今日の昼も今もそうだが、昨日も一昨日も一昨昨日も、と言うより今週も先週もずっと傍に憑神がいたじゃないか」

 え、と俺は憑神を見てみたのだが、彼女はニコリとして何も言わない。何だろう、いま背筋を氷の舌で舐められたような心地が。

「清十郎、ボクに黙ってさっそく浮気?」

「言われのない修羅場構築に一役買うな」

「何の話だ吉岡?」

「俺にも分かりません」

「浮気ってどういうことですか清吉? 今日だってエサやりにと油断していた私の胸に口を近付けてハムハムと」

「兎の話は飼育小屋でしようか憑神さんや」

 結局、脱線した話を元に戻し、解く必要のない疾風の誤解まで解き、改めて生徒会入りのお誘いを丁重にお断りするまで、俺は半時間程度を要する事になった。

 しかしこれは先輩が折れたわけではなく、明日の試験に障らぬようにと言う配慮からだった。つまり続きはまた今度と言う事である。

 小早川先輩は椅子から立ち上がると自身の長い黒髪を腕でサラサラと流してから「フゥ」と息を吐き

「さて、明日は寝坊しないようにな、稲峰、吉岡」

 と今朝に続いてもう一度釘を刺し、俺と疾風はそれに「「はい」」と答えた。

「うん、良い返事だ」とニッコリ笑う先輩――恥ずかしながら、素敵と言う言葉がピッタリである。

 一方で憑神も席を立って

「それじゃぁ私も、飼育小屋にいる兎達にエサをやって帰ります」

 言いながらトートーバッグを下げて支度を整えた。

「途中まで一緒に行こうか憑神。私も生徒会室に少し用事を残しているのだ」

「はい萌お姉様。憑いていきますわ、どこまでも」

「えっと、ああ」

「それでは吉岡先輩、稲峰先輩。また」

 そんな具合で、俺達は別れる事になった。

 食堂を出る際、妙な視線を感じて振り返った。

 如月製の防犯カメラが、ずっと俺達を見ていた。

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