I4:モルモット(訂正挿入分)
重たいバケツを両手に持っての授業立ち聞きと、廊下の壁にノートを当てての板書書き取りと言う俺と疾風の組み合わせは、正午ピッタリ昼休み開始のチャイムにてめでたく終了した。ただ一言――長かった。実に長かった――あぁ二言か。
ところでこのくだりだと俺も疾風も午前中ずっと廊下で受講していた事になるのだが、それはまさしくその通りで、疾風は如月先生一科目のみで罰則終了のはずなのだが、俺のみが廊下に立たされるという事に何故か――バカだからだろうけど――納得せず、二時限目、三時限目、四時限目と自主的に俺の隣に立って書き取りを続けていたのである。
無論、事情を知らない二時限目以降を担当する他の教諭からは、奇異な視線を俺と共に向けられた事は言うまでもない。その際に申し上げた言い訳をここにピックアップさせて頂こう。
「もう授業開始のチャイムは鳴っていますよ。吉岡君については聞いてますが、どうして稲峰さんまで今も廊下に立っているのですか?」
「えっと、その、今日の午前は外の空気を吸いながら授業を受けようとボクは決めたのです!」
「俺はそんな口実で授業をサボろうとするバカがいないかの監視役です」
「……良いでしょう。稲峰さんも午前中一杯続けなさい」
兎にも角にもそういう具合で、タプタプのバケツを用いたアイソメトリックトレーニングで午前を乗り切った俺ではあるが、普段の運動不足が祟りに祟り、腕は曲げても震え伸ばしても震え
「清十郎、ホントに大丈夫か? 今日のノートの書き写しはボクがやっておこうか?」
食堂の片隅、昼飯を運んでもらった疾風にそんな声をかけられる始末である。自分の非力さを振り返って普段からもう少し鍛えておこうと思いつつ、俺は如月カレーの食券と引き換えにもらった如月マークのシールを取って、隣で心配そうな視線を何時までも向けているバカのオデコにペタっと張った。
「ノートの書き写しがてらオメェに復習させるのは外せないな。でないと再試験にまた付き合わされる事が懸念される。特に明日の生物の試験はな」
授業の聞き取りは俺が担当し、授業の書き取りは疾風が担当する――そして試験前になって俺が疾風のノートを書き写し、その際に彼女に復習させる――何時の間にかそんな習慣が出来上がっているのだ。
俺はツンツンと疾風の額に張った如月マークを押しながら
「これ、オメェの評価表に張っておけ」
言ってから湯気を立てているカレーにスプーンを差し込み、熱々を一口。うむ、絶品。これで理想の栄養バランスが摂取できてしかも無料だと言うから信じられない。
「清十郎の分じゃん。これ」
そしてそういう食品を先月一食も取らなかったコイツも信じられない。疾風が剥がしたシールを人差し指の上に貼り付けて突っ返そうとして、それを俺がプルプル震える腕――情けね~よ――で押し返して
「そんな事分ってるよいちいち言わなくて宜しい。俺はもうバケツを使った筋トレが懲り懲りなだけだよ。あれ存外に面白くなかった。だから黙って張っておきなさい」
そうして今月のノルマの30分の1を、まずは疾風に達成させた。彼女は俺の横顔を見ながら
「清十郎、どうしてあんなバカやったのさ?」
小さく問いかけてきた。俺はジャガイモを一口サイズに潰しながら
「成り行きはお前も聞いてただろ。あの通りだよ。俺が挙手して『発言』していれば何も問題はなかったのに、それを『私語』だと指摘されて逆ギレした。それだけだ」
言えば疾風、「ふ~ん」と何やら納得いかなさそうな目を向けている。ちなみに彼女はもう自作の手作り弁当を完食済。
「まぁ、体型の差は絶対に許さない、みたいな極端な言い方が気に入らなかったっていうのもあるな。やっぱり個性は大事だろ? 人の好みだって色々あるわけだし。スリム体型が好きな人もいればポッチャリ系が好きな人もいるし」
まだ疾風はジーっとパッチリ目を向けている。なんか面倒くさいな。
「だって考えてもみろって」
俺は一度スプーンを置いて体ごと向けた。
「街歩いてて同じぐらいの身長、同じぐらいの体型ばかりの人間とすれ違うようになって、それに対応するように店に売ってるTシャツとかもMサイズオンリーになったら何か不気味だろ? ワンサイズだけとか。差があるって俺は大事だと思うんだよ。健康云々よりある意味ね」
疾風は腕を組んでアホ毛をヒクヒクと動かしながら「ん~、そうなのかなぁ」とお悩みのご様子。俺は再びスプーンを手にとって小さくなったジャガイモをすくいながら
「イヤじゃないか? あらゆるものがワンサイズって、ファーストフードでドリンクもMサイズしかなくなるんだぜ?」
しょーもないギャグを言えば「ハ!」っと我に帰ったように疾風は俺の方を向いて
「それはイヤさ。僕は絶対シェイク頼む時Lサイズだもん」
真剣な目で言った。やれやれ――俺は溜息を一つ吐いて
「お前やっぱりバカだよな」
なお理解せずにキョトンとしている疾風に、一スクイしたスプーンを差し出しその小さな口元に持っていった。
「手作り弁当も良いけど、少しぐらいは如月製も食っておけ。そして今のが冗談と分るぐらいには賢くなりなさい。あと腹の虫な」
と先ほどからグーっと鳴っている疾風のキュっとした腹に向けて言えば、彼女は赤面して
「ここにはボクと清十郎の愛の結晶が」
「育まれてねーよ!」
突っ込めばニコリとして
「冗談だよ。では遠慮なくいただきます」
俺のスプーンにかぶりつき、そのまま皿も自分の前に寄せて食べ始めた。疾風さん、何も全部差し上げるとは言っていないのですが――等と心中突っ込む俺をそっちのけにして
「清十郎だってボクのギャグを真に受けてんじゃん。そんな顔赤くして」
と仰りつつカレーを頬張る稲峰疾風。この吉岡清十郎をからかうとは生意気な。俺は伸びた前髪を払って
「イヤ、もしかして日にち間違えたのかと思ってビックリしただけだよ、フゥ。なんだ子供は出来ていなかったのか。驚かせやがって」
とワざとらしい芝居をした、瞬間、疾風のスプーンの動きがピタリと止まった、と思いきや急に立ち上がって
「何時の間にしたし! ボクに黙って何時の間にしたし!」
「えぇぇえ!?」
思わず仰け反ってる俺にビシっと指を差しつつ涙目で
「あの時か! あの時か! 今朝か! 健やかに寝入ってるボクのベッドに無断侵入してきたあのときにチャッカリそういう事したのですかぁ!」
「おぃぃい疾風マジ殺すぞオメェが俺のベッドに無断侵入して勝手に寝入ってたんだろが今朝はぁ! なに正門前で整理整合した事実を改めて改竄してんだ! そしてどうして最後のセンテンスは語尾が敬語になってんですかぁ!」
「うるさいうるさい言い訳なんか聞きたくないさ乙女の純血を無断で奪った挙句御馳走様も言わないとかどういう教育受けてここまで来た! 詳しい事分らないけど責任取れ! 稲峰疾風17歳です不束者ですが宜しくお願い致します!」
「オメェこそどこでどういう教育受けてここまで来たんでございますかぁ!? つうかその間にカレー完食ですか疾風さん! 吉岡清十郎17歳です半端物ですが謹んでお断り致します!」
「御断わりときましたか清十郎ボクとはもう終わりだって言うのか!? することするだけしたらもう終わりだって言うのか!?」
バンバンバン! と机を叩くバカ。
「することないししてないし何も始まってねぇよ! オープニングなしにエンディグなんてありえねーだろうが! 後これ明らか冗談だろーが! 」
言えばピタっと疾風はフリーズして、それから腕を組んでムムと思案を始めた。ようよう落ち着いたか疾風よ。俺は安堵の溜息を
「ボクとは冗談で『した』っていうのかー清十郎! 一回ネンネしたらそれで終わりだって言うのかぁ! あとカレー御馳走様!」
「良い感じに誤解したなオイィ!? 冗談でもしねーよ一回もネンネしてねーよ! あとカレーお粗末様!」
「もうこうなったらボクは清十郎と結婚する! 生涯の伴侶になって責任とって貰う!」
「あれちょっと待って! ねぇ俺どうなったからオメェに求婚されてんの!? どうなったからカレー全部食われた挙句覚えのない責任取らされる感じになってんの!?」
「ボクが朝健やかに寝てる時に清十郎が空飛ぶ未確認飛行物体タオパイパイを見た罰としてバケツを両手に持ちつつ廊下に立たされたからボクの純血奪われたんだぞ! 責任取れ清十郎!」
「もうそれ著しく原型留めてねーよ! 意味分んねぇし改竄どころか捏造ですらねーよ! タオパイパイとかもう完璧にお前の妄想じゃねーか! そもそもそれ誰に純血奪われてんだオメェは!」
「清十郎に決まってんだろー!!」
「えぇぇ!? 俺さっきの話だとタオパイパイ見て廊下で立たされてるだけじゃねーか!」
そんな具合で周りを省みず不毛な言い合いをしていた俺と疾風は、隣に座ってラーメンを食べていた後輩の「痴話ゲンカなら外でお願い致します先輩方」という一言で自らの痛々しい状況を把握し、大人しく外に出て、今は食堂備え付のベンチに腰を降ろしている。
膝の上に疾風の生物学のノートを開き、彼女に復習させる為の予習も兼ねて、俺は廊下に立ちながら聞き取っていた授業の内容と整理整合していた。
一通り見終わってノートを閉じて、気になっていた点について頭で反芻する。
狂犬病:狂犬病ウイルスを病原体とする、ウイルス性の人獣共通感染症。ヒトを含めたすべての哺乳類が感染する。
症状:初期は発熱と感染部位のかゆみを覚え、中期には興奮や精神錯乱を起こし、末期には脳神経や全身の筋肉が麻痺し、昏睡・呼吸障害で死亡する。
主な感染経路:感染した動物に噛まれるなどして、その唾液と共に感染する。代表感染源:イヌ。
潜伏期間:ウィルスの侵入箇所により異なる。脳に近いほど短く、遠いほど長い。最短で約一日。最長で二年。
治療方法:死亡率はほぼ100%。確立された治療方法はなし。ただし感染初期・中期段階であれば、ワクチン投与により完治の見込みあり。
予防方法:狂犬病ワクチンの摂取。
これらは明日に行われる生物の学科試験に含まれている、狂犬病ウィルスの要点である。
如月先生は『狂犬病ウィルスは確実に試験に出ます。この知識がないと間違いなく進級出来ませんのでそのつもりで』とまで言っていた。
先生が如月衛生科学研究所の研究員であるということを踏まえれば、こうした内容の授業や試験が為される事にさほど不思議はないように思う。しかしながら一般常識的な見方をすれば、高校生の試験範囲がウィルスのみで構成されている――たとえ教科が生物学であっても――と言うのは珍しいを超えて偏っているのではないかとも思う。何と言うべきか、高校で習うにしては専門性が高く一般性を欠き、むしろ大学、あるいは医療学校といった専門学校向きではないかと思うのだ。
まぁでも俺としては、今回の試験もこれまで同様平均点前後の点数を取って、無難にここを卒業出来ればそれで良いと思っているし、そもそも一般性があるからといって、中学高校で学んだ知識が直接的に生活や社会で役に立ったという話を聞いた事はないので、授業や試験の内容についてどうこう言うつもりはない。
これもその他の授業科目と変わりなく、精々で教養と言う名を借りた、何時までも使えぬ無駄知識の一つとなるのは明白だからである。
そうした意味で、この狂犬病ウィルスに関する知識を学ぶ事は、本質をみれば一般的な授業と何も変りはないわけで、だから確実に試験に出ると言われれば、俺はその他の科目同様、その理由一点のみで確実に抑えておくだけのことである。
まぁそんな事を考えている一方で。
「ああ、反省してる。二度とあんな事しない」
疾風と交わしている話のお題は最初に戻り、『もう授業中に机を蹴倒すような痛い癇癪を起こしません』という誓いを立てさせられていた。さもなくば責任を取ると――しかし何のだよ。
正直なところ、ああして廊下に立った事自体に後悔してはいないし、むしろ黙っていたほうが後悔していたかもしれないという、疾風に言うには少々恥ずかしい心情があるのだが、しかし素直に悪いことをしたと感じている部分は確かにあるので、その点だけは口にして謝っておこうと思った。
俺は疾風に頷いて
「蹴ってごめんなさい、って後で言っておくよ」
そう言った。彼女は「え?」と、俺の言った意味が分らない様子だった。それに俺は構わず続けた。
「机に罪はないもんな」
と。
ダラダラと時間は過ぎて行った。
食堂の前の坂をあがっていく、学園生が目に付き始めた。外食組が戻ってきたということは、そろそろ昼休みも終わりだ。
最後の話題として、疾風が先月、如月製の食事を一切避けた理由についてその真意を尋ねてみると、彼女は特に悪びれる様子も後ろ暗い様子もなく
「たまたまだよ?」
アッサリとそう言った。
「まぁ売り言葉に買い言葉かな。ボクも正直言い過ぎたと思う。あの時はどうしてか分らないけど、何か自分の大切なものを馬鹿にされたような気になっちゃってさ」
さらにはそう続けた。あの如月先生相手に口ゲンカしたつもりだったのか。すごいな流石は疾風さん。しかしこの言い方から表情からして、どうやら『たまたま』というのは真実なのだろう。期待していた訳ではないけれど、もう少し深刻な事情があると思っていたので、思わず苦笑いが漏れた。
「でもどうしたのさ清十郎? そんな事今更聞いて」
今更って、今朝がたの話なんですけどね。俺は頭を掻きながら
「何でもない。じゃぁ別に如月製は問答無用で嫌いとか、そういう難しい話じゃないんだな?」
念には念をで確認を取ると、
「当たり前じゃん。さっきのカレーにしても味は良いし野菜もバランス良く入ってたし、あんな料理はそうそう作れる物じゃないしね。そんなの問答無用で避けるなんてよっぽどの変人か変わり者さ」
ニッコリ笑う疾風さん、貴方は先月から今日にかけての記憶が全て消し飛んだと仰るのですか。心の中で突っ込み、さらには「全く」という言葉が漏れた。
「意図的に避けてたっていうわけでないならそれで良い。ホっとしたよ」
如月マーク詐欺もさっきの一回が最初で最後になりそうだし。俺は隣にチョコンと座っている疾風のアホ毛を摘みながら
「まぁ先月の事はもう仕方ないとして、今月はちゃんと意識して30クリアするようにしろよ?」
念を押した。それに彼女は素直に頷きかけて、しかしその首を軽く捻った――何か納得していないらしい。
――――はぁ。
俺は説得めいた話を始める。
「だいたい有り難い話じゃないか疾風。美味しく身体に良い食事を毎日無料で食べられるっていうのはさ。メニューだってキチンと一週間のローテーションが組めるほど豊富だし、アレルギーのある人、菜食主義の人なんかにもきっちり細かに対応してくれるし」
アレルギーだけではなく、宗教上の理由でブタは食べれませんとかそういうのにも個別に対応してくれる細やかさに親切さ。如月製の食品について整理すればするほど、先月の疾風の評価表は信じられない――いくらたまたまといえども。
「他にも如月にはさ、食べ物の他にも色々世話になってるよな。あそこのお陰でミツバ市は小中高大院まで学費無料。水道光熱費にインターネット、市内交通機関に大概の施設利用も無料だ。就職だって、ミツバ市内なら待遇そこそこのところに市が100%責任持って用意してくれるようになったし。いくら日本が世界的に恵まれた国とは言っても、これは信じられないぐらいの厚い待遇だろ」
とは言っても、俺達ミツバ市民はこれがデフォルトなので、実は俺自身、あまりその有難味を実感した事は少ない。だからごくたまにミツバ市の外に出た市民が帰ってきた時、彼らはまず『あらゆるところで金が必要だった!』と驚いて話すのが恒例となっており、それを聞いた市民が驚くのもまた恒例となっている。そういう機会を通じて俺達は、ミツバ市における如月の重要性を再確認しているのだ。
さてその上で粗さがしでもしてみようか。俺は腕を組んで
「まぁ面倒くさい事と言えば、年四回の健康診断とか、市外に出て戻って来る時にかなり細かな健康管理チェックがあるとかだけど、これも市民の身体を気遣っての事って考えたら有り難い話だから……」
――粗ではないのか?
すると他には
「オメェの嫌いな、あのそこかしこに密生するように設置された如月製の防犯カメラ。あれは確かに過剰と言えば過剰な気もするけど、ん~……これもどうだろうな。治安の良い日本でもミツバ市の犯罪発生件数が群を抜いて低いって事を考えたら、メリットの方が大きいかもな。まぁ……小早川先輩の一発殴らせてからボコボコにする正当防衛(?)的な決闘件数入れたらどうか知らんけど」
関係ないけれどこうして冷静に考えれば考えるほど、如月衛生科学研究所がミツバ市民にとってどれほど重要であるか、それを再確認させられるばかりだ。
と、一通り並べてから疾風を見てみれば、彼女は腕を組み、アホ毛をヒクヒクと動かし思案していた。何やら難しい顔をしている。
「ん~、実は前から頭の中でモヤモヤしてたんだけどさ、今こうして清十郎に整理して言われて、ハッキリしたような気がする」
ほう、それはそれは、もしかして?
「お前がバカだってことか?」
「そうそうそれそれ。……清十郎、痛くしないから一発だけ叩いていい? 痛くしないから」
「それで痛くなかったためしがないからダメ。で、何がハッキリしたわけ?」
足を組みながら訊きなおすと、疾風は俺の方に身体ごと向け
「何ていうか今の話聞いてて思ったんだけどさ。それじゃボク達って」
目を見ながらこう言った。
「まるでXXXxXみたいじゃない?」




