本編開始:unlocked rock and roll! 2
俺達を襲ってきたホッケーマスクの撃退にかかった時間は、ホームセンター周辺をウロついていた人外様達を集めるのに充分だったらしく、既に軽く三桁が店に集結していた。かなり笑えない事態だが、もはや笑うしかない事態でもある。
そんな状況下、さて入口にはどの程度のバリケードが築けているのかと言うと未だ入って来た穴さえ防いでおらず、つまりそのままで、常識的に考えて絶望的だった。
「準備は良いか?」
「「いつでも」」
ところでこのホームセンターの防犯サイレンは内ではなく外に対して緊急を知らせるものらしく、大きな拡声器はホームセンターの屋根に設置されていて、そこから大音量のベル音が今も発信されている。
しこうして、外を徘徊していた四つん這い黄色目の連中の注意を大いに引く結果となったのだが、そこは不幸中の幸い。集まってきたその全てがホームセンターの『中』ではなく『屋根の方』に殺到しているのだった。
そんなわけで俺達は、各々道具を持って入口を挟むような位置で息を潜めている。
集まってくる四つん這いは現れては跳躍し、現れては跳躍し、壁に張りつき、取りつき、ガサガサと屋根へと登っていく。まるで猫か猿かのような運動神経。俊敏さ敏捷さ。それを老若男女の人型がやっているのだから、グロテスクなこと極まりない。
「もう200人近く上にあがってるけど、まさかと思うが天井が潰れたりしないよな?」
「大丈夫だよ。イナバウバー物置だって100人のっても大丈夫なんだからさ。ここだと220人ぐらいまではいけると思う」
「それ結構キワキワじゃありません?」
入口から確認できる最後の四つん這いが屋根を目指して跳躍し、視界から消えたと同時、俺達は作戦を開始した。
「よし!!」
ここで火事場の馬鹿力。俺は材料加工室から持ってきた横5m程の長い柱をベンチプレスのように胸元にあげ、すぐさま疾風と憑神が両端を壁にネイルガンで固定していく。入る時に破ったのはちょうど窓ガラス一枚分とさほど大きくはないが、扉ごと塞いでしまおうと言う寸法である。
「OK!」
ひとまず一つを終えて苦しい息を潜め、外の様子を窺う。顔を少しだけ出して左右上下を確認。
「……すっかりサイレンに気を取られているらしい。このままいくか」
そうして傍に積んでいた木材を固定しては釘で止め、固定しては釘で止め、という作業を繰り返していく。
窓は全てシャッターが降りているし電気も付いていないので、唯一の光源でもあるここを完璧に閉じると中が真っ暗になるが、もちろんそんなことは予想済みで、最後の木材を固定し終える頃、憑神は手回し充電のライトを点けていた。ホームセンターって本当にかゆい所に手が届く。
汗を拭い、ホっと息を吐く。これで少し作戦を練る時間は出来たか。
「ネイルガンの空気が切れちゃった。ちょっと予備タンクを取ってくるよ」
サイレンが鳴っているとはいえ、しかし疾風は慎重にネイルガンからエアタンクを外し、そして誤って蹴り飛ばさないような位置にそっと寝かした。こういう状況での個別行動はトラブルの元なのだが、工具コーナーまではそう遠くないので憑神のライトを持たせて行かせた。疾風の持つ明りが徐々に小さくなり、やがて暗闇に。
「次はサイレンを止めるとして、その後はどうするかだな」
街がこの様子では救援に期待は出来ないだろう。けれどもちろん、うかつに外に出るわけにもいかない。疾風曰く食料は地下に結構な量があるらしく、水道の方もまだ生きている。そっちは俺が加工室で確認済みだ。だから立てこもっている分には相応の時間は過ごせるだろう。
「……上のサイレンがこの近辺一帯の四つん這いを集めてしまっているでしょうから、今はここがかなりの危険地帯ですね。逆にいえば他が手薄になっていると考えるのも、ありかもしれませんが」
「……手薄なぁ」
化け物な皆さんの全体数が分からないと何とも言えないが、しかし比較的と言う意味では確かにその通りだろう。
「仮にそうとしても、今の俺たちじゃそういうのが一体いるだけで充分脅威なんだよな。さっきのホッケーマスクにしろ快速バァさんにしろだ」
もちろん手薄に越したことはないが、しかしだから脱出OKとはならない。たかが一体と遭遇してもゲームオーバーになる可能性は充分高い。複数だともはや無理ゲーですらない。そう考えると、俺達は良くここまで無事にやってこれたと思う。学園の外は学園の内以上に悲惨だったのだから。
……大丈夫だろうか、小早川先輩。
「ただいまぁ」
と明りが近付いてきた。疾風だった。両手にブラ下げるように持ったビニール袋にはエアタンクを一杯入れているようで、さらに脇には釘箱を抱えている。
「ててて~、手がビニールに食い込んで痛い。よっと。……店長はまだ股間を抑えたまま痙攣してたから大丈夫っぽい。それからタンクも釘も、これだけあれば家一軒建つぐらいさ」
疾風は首に器用に挟んでいたライトをこれまた器用にポンと俺に放ってよこしてから、よいしょと俺の向かいに座った。って
「店長って、まさかさっきのホッケーマスクか?」
「そうだよ。さっきのがここの店長」
言いながらテキパキとタンクを取りつけ、釘を込め、そして憑神のネイルガンも手入れする疾風。……まぁ今の彼なら死にはしないだろう――男性としては知りませんが――けれど、まさか疾風の知り合いだったとは思わなかった。いや、でも、コイツは二階から駆け下りて来る時『に店長~!』って叫んでいたかそういえば。
知り合いなのになんて容赦ない奴なんだ。
「ボクが言うのもなんだけど、ここで売られてる食品って野菜にしろ果物にしろ米にしろ、一切如月の手が入っていない変なものばかりなんだ」
それは以前に聞いたことがある。ちなみに価格は少し割高なのだが、疾風の家からも野菜を仕入れているという理由で彼女は良く利用しているのだ。まぁ割高と言うのはあくまで如月の食品に比べてというだけであって、市外の常識的には格安というところである。
憑神が目をパチクリとさせた。
「私が言うのもなんですけど、かなりオカルティックなお店なんですね。私も興味があって如月完全未監修のジャンクフードを取り寄せようとした事があったんですけど、どのルート使おうとしてもなかなかうまくいかなくって」
あははと疾風が笑った。
「確かに難しいよね、普通はさ。今更なんだけど、ここの店長が取り扱っている『変わったもの』は食べ物だけじゃないんだ。……例えば、この輸入物のネイルガンなんて、ミツバ市どころか日本全体で見てもアウトローな品物だよ。ボクも良くは知らないけど、なんでも店長個人が元々貿易商崩れな事をやってて、ある時うっかりと『踏んじゃいけないところ踏んじゃった』とかで、半ば身を隠すのを目的としてミツバ市に来たらしいからさ。昔とった杵柄? 何かそういうのを使って仕入れてるみたい」
「確かにそれは変わりものですね。ミツバ市に市外出身の人間がいるなんて都市伝説かと思ってました」
「ん~、ま~ボクもある意味ではそうなんだけどね。両親は市外だし」
二人の会話の中で俺はキョトンとなっていた。そろそろ発言しよう。
「俺が言うのもなんだけど、例の食品な。別に如月未監修のものなんてどこでも手に入るんじゃないか? 例えばお前の言うジャンクフードってマックとかケンタだろ? そんなの俺も疾風も週一ぐらいで食ってるぞ? 疾風だっていつもそこのシェイクはLで頼んでるじゃないか?」
この発言の後、憑神と疾風は互いに目を見合わせてから、ハァと呆れたように溜息を吐いた。どうやらやはり、こういうのは『俺が言うのもなん』だったらしい。ポリポリと頭を掻いた。
憑神が俺の方を向いた。
「確かにそれらは『理想の栄養バランスを美味しく摂れる如月衛生科学研究所監修の食事』ではありません。もちろんそれは『如月衛生科学研究所』で造られたものではないからです。しかし、あくまでそれは如月衛生科学研究所『未監修』という事であって、『完全未監修』というわけではありません。つまりそれら身体には好ましくない食品でも、研究所による最低限度の監修は通過しているわけです」
長々ながら的確テキパキと言われた。
なるほど。
ポリポリと掻いていた手でクシャクシャと髪を掻いた。
「知らなかったよ憑神。そういうことね。それは間抜けな発言だったな。勉強不足だった。しかしまぁ、それにしても、今のってまるで如月先生みたいな口ぶりで」
「私、何もしゃべってないですよ?」
……。
……え?
と。
彼女の顔を見れば、ライトの加減ではなく実際にその顔色は真っ青になっていた。疾風も顔が強張っていた。
「そんな事を考えているからこの有様なんですね。如月衛生科学研究所完全監修の食事をキチンと摂取している成績優秀な皆さんほど素晴らしい運動能力を手に入れて、あまり口に運んでいない落ちこぼれた皆さんほど低俗で低レベルで救い難い人間のままの様ですね。例えば稲峰さん、例えば吉岡君」
ハっとなった。
「憑神お前の携帯だ!」
彼女がドレスのポケットから慌てて取り出して開くと、液晶には如月先生のバストアップが映し出されていた。
どういうことだ。
携帯の電波は圏外になっているはずだ。今朝だって市外の知り合いは愚か学園内の友人にさえ繋がらなかったのに。いやそればかりか緊急用回線が用意されているはずの警察や消防にも一切不通だったから通信系統は――――いや。
如月のホームページにはアクセス出来ていた。
昨晩に疾風が母親とメール連絡が取れなかった時でも、如月の公式サイトにはアクセス出来ていた。つまり……。
つまり。
「これってつまり、『そういうこと』なんですか、先生?」
無意識的に、俺は呟いていた。
意識的に、口は閉ざそうとしたのに。
「……『どういうこと』、とは聞かないのですね吉岡君。良いでしょう。では説明すべき説明を大幅に省きます。そしてその通りです。……実験予定時刻よりも随分と発症が遅かったので、我々は意図的にパンデミックを誘発することに致しました。その拠点はミツバ学園です。昨日午前八時に研究所より発射した低速弾道散布ミサイルNeco2strikeに続き――」
フラッシュバックする。
――――眠気眼を擦りつつ、ベッドと掛け布団に柔らかく温かくサンドされた顔をモゾモゾと這い出して見上げてみれば、窓ガラスの向こうから「ホーレホレ起きやがれ」と催促してくる太陽、を遮って飛ぶ謎の飛行物体を視認。そのお尻からブリブリと吐き出している大量の白煙は恐らく飛行機雲の類なのだろうが、しかし飛行機にしてはどうもフォルムが真っ直ぐ過ぎて『ミサイル』めいていると言うか何と言うか、少なくとも中に人が乗っていて高度上げたり下げたり出来るようには見えない――だって翼がないんだもん。
――――疾風が憑神の携帯を「ほら、ここさ」と指で差した。どれどれ。森に突き立った白いオブジェの一カ所。そこに黒字のアルファベットで『Neco2strike』と小さく書いてあった。
「今日の午後にもう一度、直に、教室に、試験直前に、『手榴弾』にてそれを再び散布させて頂きました。それも今度は『ガス』という嗅覚だけではなく『光』という視覚と『爆音』という聴覚も用いています。……それにしても午後の生物の試験、配られたのが『両面白紙の問題用紙』なんて気になりますよね? 知っていますか? 白は最も光を強く反射する色なんですよ? 光が見えなかったのは単純です。あれは可視光ではなく脳に直接作用する不可視光線の一種ですからね」
フラッシュバックする。
――――『両面白紙』と言う奇妙な問題用紙と答案用紙がクラスに行き渡たり、試験開始の本鈴が鳴った直後、教室の前後にあるそれぞれの入り口から、『催涙弾』のようなものが投げ込まれた時だった。『破裂音』と同時にクラスが『白煙』で覆われ、それを引き金としてついにと言うべきか、クラスメイト達が狂乱したのだ。
……フラグ回収か。
「今更明かしたところでどうにもなりませんが、どうにもならないからこそ明かしておきましょう。貴方達が犯されているのを病気と捉えるなら、それは症状から対処法から何から何まで狂犬病と酷似しています。……生物学の試験範囲としてあれだけ念を押したのですから、きちんとお勉強は済んでいますよねもちろん?」
――――
狂犬病:狂犬病ウイルスを病原体とする、ウイルス性の人獣共通感染症。ヒトを含めたすべての哺乳類が感染する。
症状:初期は発熱と感染部位のかゆみを覚え、中期には興奮や精神錯乱を起こし、末期には脳神経や全身の筋肉が麻痺し、昏睡・呼吸障害で死亡する。
主な感染経路:感染した動物に噛まれるなどして、その唾液と共に感染する。代表感染源:イヌ。
潜伏期間:ウィルスの侵入箇所により異なる。脳に近いほど短く、遠いほど長い。最短で約一日。最長で二年。
治療方法:死亡率はほぼ100%。確立された治療方法はなし。ただし感染初期・中期段階であれば、ワクチン投与により完治の見込みあり。
予防方法:狂犬病ワクチンの摂取。
――――
「ふふふ、そう言えば憑神さん。貴方は今朝、昨夕に飼育小屋でウサギに指を噛まれたって、言っていませんでしたか?」
―――その人差し指を立てて「ちょっとからかい過ぎちゃったみたいです。やっちゃいましたね」と苦笑した。昨日、俺達と食堂で別れた後、飼育小屋で兎に餌をやる際、憑神は指を噛まれたのだそうだ。
主な感染経路:感染した『動物に噛まれる』などして、その唾液と共に感染する。
主な感染経路:感染した『『動物に噛まれる』』などして、その唾液と共に感染する。
主な感染経路:感染した『『『動物に噛まれる』』』などして、その唾液と共に感染する。
「そして体調を崩して保健室まで来ましたよね? 随分と興奮状態にあったので流石に先生も驚きましたが」
――黒いゴシックロリータのコスチュームの彼女が、ベッドに全身を縛り付けられ、痙攣するように震えていた。メガネの下の目を剥き、サルグツワを噛み切らないばかりに歯を食いしばっている。
症状:初期は発熱と感染部位のかゆみを覚え、『中期には興奮や精神錯乱』を起こし、
症状:初期は発熱と感染部位のかゆみを覚え、『『中期には興奮や精神錯乱』』を起こし、
症状:初期は発熱と感染部位のかゆみを覚え、『『『中期には興奮や精神錯乱』』』を起こし、
末期には脳神経や全身の筋肉が麻痺し、昏睡・呼吸障害で『死亡』する。
「まだ吉岡君と稲峰さんは初期症状さえ出ていないようですので、後二日以内にワクチン接種すれば助かるでしょう。しかしそれが絶望的なことは言うまでもありません。ワクチンは如月衛生科学研究所が全て管理していますからね」
ズキン。
と。
頭が
痛んだ。
何故
今
この
メンツの
中で。
憑神の名前だけが呼ばれなかったのだろうか。
何故、
彼女だけが、
『後二日以内にワクチン摂取すれば助かる』
と。
言われなかったのだろうか。
憑神が、細かく、微かに、確かに、震えていた。目の焦点がボケていて、歯が小さく鳴っている。
「これも明かしておきましょう。貴方がたの携帯全てに発信機が取りつけらています。ですので位置情報はこちらに筒抜けです。今ももちろん」
憑神がハっと我に帰り、それを叩きつけようとして、しかしそれを俺が止めた。しばらくもみ合ったが、俺は力づくで憑神から取りあげた。
「ふふふ、賢明ですね吉岡君。本当に賢明です。なにせ唯一の生きた通信機器ですからね携帯は。紛いなりにも持っておく価値はあるかもしれません。それに仮にそれを壊したところで、市内のあらゆる場所に設置された監視カメラが、貴方達の一挙手一投足に至るまで補足しています。つまりミツバ市の地上にいる限りは逃れられないのですよ。もちろん貴方達がホームセンターにいることも把握済です」
――――「だって、腹立たないかコイツラ~」と疾風がグルンと腕を回して示したのは、道路に等間隔に設置されている多数の防犯カメラである。それこそ見渡す限り、まるでカメラの竹林と言わんばかりにズラっと並んでいる。もう俺や疾風といったミツバ市の市民は見慣れてしまっているとは言え、電信柱とほぼ同じ数だけ設置されているこれは、他の県や市に暮らす人間から見たなら間違いなく異様な光景だろう。
「そして市内全域の『化け猫』を例外なくそこに向かわせています。一匹残らず全員を。もうそこから扉を開けてのうのうと外に出る手段など皆無です。自殺行為です」
「……先生」
憑神が震える声を出した。
「……どうして、そんなことなさるんですか?」
涙声になっていた。
「私はこれでも、皆が如月先生を怖がっても、少なくとも私は、私だけは如月先生を信じて、如月先生に憧れていたんですよ? クールでスマートで、格好良くて理知的で。厳しくても怖くても筋だけは通ってて、振り返ってみれば生徒の事を考えているような事ばかりを言っていて、なのに、……どうしてこんなことするんですか?」
如月先生はいつもの笑顔を、こんな時にさえ浮かべていた。憑神が泣いていようと、俺達が死にかけていようと、世界が壊れかけていようと、変わりなく、変わりない笑みを浮かべていた。
「優秀な憑神さんなら分かってもらえると思ったのですけれどね。答えは至極単純です」
そしてこう言った。
「お金ですよ」
と。
ギュっと、彼女が拳を握った。
「貴方達ミツバ市民の常軌を逸した豊かな暮らしは何が支えているのか、まさか忘れたわけではないですよね? もう一度ミツバ市の歴史の勉強でもし直しますか? ここが如月衛生科学研究所によって支えられていて、如月衛生科学研究所は医薬に関する莫大な特許によって支えられていると習いませんでしたか? 年に四度もある健康診断に疑問は持ちませんでしたか? 人を逃さず、立ち入らせずのミツバ市に何も不思議はありませんでしたか? 思議はありませんでしたか? 腑に落ちない事はありませんでしたか? 腑に落ちた事はありませんでしたか?」
こ こ は 広 大 な 『 試 薬 の 実 験 都 市 』 な ん で す よ ?
言われて
すっきりとした。
――これ以上はもう。
何を言われるまでも無い。
何を言われる必要もない。
だからこそ
俺は先生に言った。
「先生、良く分かりました。どうも有難うございました。必ず生き延びてやりますよ」
しばらくの間があってから、画面の向こうで、先生が笑みを強くした。
「……精々悪あがきをすることです。貴方達は猫達に弄ばれた末に死ぬ、言うなればネズミのような生き方がお似合いですね。それも猫を噛む窮鼠ではなくビクビクしながら下水を這いまわる薄汚れたドブネズミのような」
ガシャン! と俺は携帯を床に叩きつけた。液晶に亀裂が入ったが原型を留めていたので、俺はそれを思い切り踏みつけた。
何度も何度も。
何度も何度も。
「あはははははははははは!」
そして腹を抱えて笑った。余りに可笑しくて可笑しくて仕方がなかったので、心の底から笑った。サイレンの音がかき消えるんじゃないかというぐらい大きな声で笑った。最高だ。最高過ぎる。最高過ぎてもはや最低だ。大概の覚悟はしていたけれど、この展開は相当に可笑しかった。その傍ら、憑神が顔を両手で押さえて押し殺すように泣き始めた。それさえ可笑しかったから、俺はさらに声を大にして笑った。狂ったように笑って、笑ったように狂った。可笑しくて。狂しくて。
「最高だ先生!! マジ最高だよ!!」
そして俺は自分の携帯も叩きつけ、同じく茫然としている様子の疾風からも携帯を奪って叩きつけ、そのまま力の限り踏みつけ、踏みつけ、踏みつけた。粉々のスクラップに変えた。
三つの携帯の部品が、どれがどれで分からなくなると、俺は大きく深呼吸した。
やれやれ。
本当にやれやれだった。
――。
――。
さて。
「憑神、お前人を見る目は確かだよ」
二人がゆっくりと顔をあげた。
だから俺はゆっくりと告げた。
「先生は俺達の味方だ」
と。
「忘れないうちに一気に言うから聞いていてくれ。良いか、まず俺と憑神はここからの脱出方法について悩んでいた。口に出して悩んでいた。そしてお前の携帯を通じて先生はその会話をを聞いていたはずだ。ここまでは良いな? よし。そこで俺達の懸案事項はこれだった。『ここにたくさん化け物は集まっているが、果たして他の場所は手薄になっているか。一匹いてもやばい』。そうだよな。そして先生はさっきこう言った。『市内全域の『化け猫』を例外なくそこに向かわせています。一匹残らず全員を』ってな。つまりここ以外は化け物がいないんだよ」
「で、でも! 『店の外に出る手段など皆無』だって先生は言ったよ!』」
「黙って聞け疾風。先生は最後にこう言った。『精々悪あがきをすることです。貴方達は猫達に弄ばれた末に死ぬ、言うなればネズミのような生き方がお似合いですね。それも猫を噛む窮鼠ではなくビクビクしながら下水を這いまわる薄汚れたドブネズミのような』。覚えているな? 最強の捨て台詞にして最高の助言だ。これにはヒントまである。それがこのセリフだ。『市内のあらゆる場所に設置された監視カメラが、貴方達の一挙手一投足に至るまで補足しています。つまりミツバ市の地上にいる限りは逃れられないのですよ』。ここまでくれば分かるよな?」
俺は二人の目を交互に見た。
「先生は、『ドブネズミのように地下を通って研究所まで来い』って言ったんだよ。『窮鼠』みたいに『化け猫』とは対峙せず、『ビクビク』と逃げて来い。『地上では逃れられない』ってな! そして化け物は一匹の例外なくここにいるなら地下は安全だ! おまけに監視カメラにだって写らない! 地上がダメなら地下で行けばいいじゃない!?」
「アントワネット!?」
「そうだ!」
憑神の目に色が少し戻った。よしよし仕上げた。
「先生はワクチンに関してこう言った。『まだ吉岡君と稲峰さんは初期症状さえ出ていないようですので、後二日以内にワクチン接種すれば助かるでしょう』ってな。しかし憑神、お前は何も言われなかった。何故だ?」
「それは、もう、私が手遅……」
「全然違うな! 全然ダメだ! そりゃ先生もガッカリするだろうな! まるで勉強してない! 狂犬病の症状にこれが酷似しているなら、保健室で見たあの時お前はもう中期の症状だった! 『中期には興奮や精神錯乱』だろ!? なら今頃お前はもう末期で痙攣して死んでるはずなんだよ! なのにピンピンしてる! 何故だ!?」
必死に、あるいはすがるように、憑神は当時を、あの時を思い出そうとしている。
そして。
「ああ!!」
と声を出したのは疾風。先にコイツが気付いたらしい。
――――「そうですよ吉岡君。彼女は検温の結果、発熱が認められたので抗生物質の投与を決めました。しかしながら極度に注射を嫌がるので、止む無くあのようにしました。でないと注射の最中に思わぬ怪我をしてしまう可能性がありますからね」と、手に持っていた注射器から針を抜き取り、プラスティックの容器に入れた。そして憑神のベッドに歩み寄り、「先程具合を見ましたが、座って試験を受ける程度なら問題なさそうなので、そろそろ戻ってもらいましょうか」そう言った。
「まさか清十郎!! あの時の注射って!!」
俺は大きく頷いた。
「ワクチンだよ。だから先生はさっき名前を外したんだ。『まだ吉岡君と稲峰さんは初期症状さえ出ていないようですので、後二日以内にワクチン接種すれば助かるでしょう』って、憑神、お前の名前をな」
そして彼女の方を見た。目から涙が溢れていた。
「だからお前は、手遅れどころか、もうワクチンを先生に打たれて免疫ついてんだよ」
その場に泣き崩れた。
そのまま大きな声をあげて泣いた。
肩を揺すって泣いた。
疾風も立ったまま、静かに泣き始めた。
「けれどな、まだ安心できない。あの如月先生があんな回りくどい言い方をする様子だと、如月先生は白でも研究所の方は黒だろう。その意味で先生は造反者なんだ。ああやって欺きつつ、俺達に敵のツラを見せつつ、何とかして必死に救おうとしてるんじゃないのか? あれだけ不自然を推して、全学年の試験に『狂犬病』なんて授業を押し付けてたのだって、先生なりの必死の方策なんじゃなかったのか?」
「吉岡先輩」
嗚咽の間を縫って、憑神が俺の名前を呼んだ。
「私、思い出しました。先生が、私に、注射する時に、その、薬の、名前を、教えて、くれたんです」
そして、泣きはらした赤い目ながらも、彼女は笑顔を向けてくれた。
「MATATABI STRIKEです」
疾風がクスンと鼻をすすった。
「センスない名前」
容赦なかった。




