真夜中の庭で
「じゃあね、ちゃんと大人しくしてるのよ!? 知らない人についてっちゃダメよ? あんた見た目は可愛いんだから、浚われないように気をつけて! 飴玉くれるって言ったって、いい人とは限らないんだからね!?」
「ミシェル、アンジェだって子供じゃないんだから…」
リリア姉様が呆れた声を出したけど、そんなの一切耳に入らなかった。
馬車は既に王宮に到着し、私達はホールに出る前の最終チェックをする控えの間に来ていた。一応小さいながらもちゃんと個室になっている。
そしてアンジェは、私達が出て行ったらここに独りぼっちになっちゃうのだ。
大丈夫かしら、大丈夫かしら。
だって、よく考えたらこんな風にこの子を慣れない場所に置き去りにするのなんて、初めてだったんだもの。
ほとんど家から出る事無く、出るとしても大抵私と一緒に畑に行くか買い物に行くくらい。
雛を置き去りにする親鳥の様に、私は心配で心配でたまらなくなっちゃったの。
どうしよう、自分で思いついておきながらこんな気持ちになるなんて。
「ミシェル、私は大丈夫。何かあったら外に立っている侍従さんに筆談で頼めばいいんだし、隣の広間に行ったら他の侍女さんたちもたくさんいるし…何か聞かれたらちゃんと口が利けないふりをするわ。大人しくしているから、ゆっくり舞踏会を楽しんできて」
「でもォ…」
尚も不安を隠せない私を、お母様とリリア姉様が苛付いた様にせっつく。
「言っとくけど! 遊びに来ているんじゃないのよ!? あんただってその辺解ってるんでしょ? ミシェル」
お母様の蛇の様な目が絡みついて、見えない鎖が私を縛り上げる。
わかってるわよぉ。母様や姉様は商売の宣伝のため、私は王宮の最新ファッショントレンドをチェックするのが大切な仕事。でも―――
そんな私にとどめを刺すように、リリア姉様が言ったわ。
「多少は迷子にでもなってた方が、そのメイド服が宣伝になっていいかもよ?」
うわぁん、姉様の意地悪! オニアクマ!!
目の前ではむしゃぶりつきたくなるほど可愛らしいメイド姿のアンジェが、私を安心させようとにこにこ微笑んでいる。
だーかーらー、その笑顔が危ないのんだってば!!
その笑顔に引き込まれて悪さをしようなんて輩がいないとも限んないんだから!
「いい加減にしなさい!! たった数時間の事でしょ? 今生の別れじゃあるまいし!」
とうとうお母様の雷が落ちて、私は後ろ髪をぐいぐい引かれながら渋々泣く泣く王宮の控えの間を後にした。
…もちろん。
あのとろいアンジェが、大人しく何の問題も起こさずに済むわけなんかなかったのよ……
◇ ◇ ◇
舞踏会も半ばを過ぎて、宴たけなわもいい頃、私はどうしても不安が拭いきれなくてアンジェの様子を見に行くことにした。
まあ、かなり場も砕けてきてるから、うまくすれば舞踏会の様子をそっと見せる事もできるしね。
でも控えの間にアンジェはいなかった。
…トイレかしら?
そう思ってしばらく待ったけど、あのこは一向に戻ってくる気配がない。
外のいた侍従や衛兵に聞いてみると、しばらく前に部屋を出て行ったと言う。
………。
十中八九、迷子になったわね。
ええ、まず間違いなく。
町に買い物に行ったときだって、ちょっと目を離すとすぐあらぬ方向に歩いて行っていたアンジェ。
店から出ただけで、家に戻ろうとしながら全然違う方向に行こうとしていた、超々弩級の方向音痴なんだから!
…いいわ、落ち着いて。
まずは可能性としてトイレよね。
口が利けない設定なんだから、外の人に用がある筈はないし、簡単なお茶セットなら部屋にも用意されている。
ええ、いいわ。まずはトイレに行ってみましょう。
廊下をまっすぐ進んでから左に折れると、そこが化粧室だった。
中が無人なのを確かめてから、その入り口を背に、来たのと反対方向に進む。突き当りの左側は厨房だったから、右へ進むと中庭に出た。
うん、たぶん、こっち。
なんかおかしな場所に出た事に不安になりながら、音楽の聴こえる方へ庭を突っ切ろうとしたのかも。
まったく変なとこ怖いもの知らずだし。
ちょっとした迷路の様になっている、植込みの通路をそっと進む。
あと一つ角を曲がれば拓ける場所に出ると言うその時、聞こえてきたのは若い男の声だった。
「こんなとこで君みたいな人に会えるなんてね」
どこかはしゃいだその声は、それでも十分気品に溢れていた。
広間でで聞いた事のある、この声は――
その時小さな悲鳴が聞こえて、私は思わず飛び出した。
見れば転びかけたメイド姿のアンジェと、それを支えようとしている男性の姿。
「この子にさわらないで!」
アンジェを背に庇い、咄嗟に叫んでしまったのは失態としか言いようがない。
だって、どう見たって彼はアンジェを助けようとしてくれていたんだもの。
しかもしかも何て事!! 世継ぎの第一王子、トーマス・シャノン皇太子殿下!
当の殿下も、突然二人の間に割り込んだ私に、びっくりした顔をしている。
「ミシェル…!」
私の後ろでアンジェが小さく声をあげた。
「…なんだ、ちゃんと口が利けたんだね」
「あ…」
苦笑する王子様と、私の後ろで口を抑えるアンジェの気配。
どうしよう。どうやってこの場を取り繕おう。別段怒ってる様子はないけれど、私のした事は不敬罪もいいとこだ。
「失礼いたしました、殿下。薄い月明かりにて咄嗟に殿下と気付きませんでした」
精一杯殊勝な声で、腰を落として跪く。
「良い。退屈な宴を逃げ出して隠れていたら、可愛い妖精を見つけて大喜びしていたところだ」
「寛大なお言葉、感謝いたします」
「そなたは――?」
「ハルログ家のミシェル・ヴィータと申します」
「ふうん、じゃあ君の家の侍女なのかな、彼女は」
「この子は―――」
なんて言おう。正直に言うべき? だって見た通りのメイドだって言ったら、今後舞踏会には賓客として呼ばれなくなっちゃうかも…
言葉に迷う私の後ろで、冴え冴えとした月光の様な声がした。
「わたくしの妹達が何か?」
「リリア姉様!」
いつからそこにいたのか、無表情な仮面を張り付けたリリア姉様が、私達から少し離れたところに立っている。
けれど一番驚いた様子を見せたのは、何を隠そうトーマス殿下その人だった。
「君は…リリア・ドルチェリカ……!」
ええ!? トーマス殿下ったらリリア姉様を知ってるの!?
「覚えていて下さって光栄ですわ、殿下。私の妹達が何か粗相をしてないとよいのですけど」
見事なまでの愛想笑いで、姉様はその場の空気を支配する。
「妹達…? じゃあ、その侍女姿の少女も…?」
「ええ。母の再婚相手の連れ子ですの。血の繋がりがなく舞踏会に連れて来るわけにはいかなかったのを、ミシェルが憐れんで侍女の姿で連れてきていしまいました」
「と言う事は、この子は伯爵家の血を継いでいない?」
「そう言う事ですわ」
「なるほどね。しかし…」
何か言いかけた殿下の言葉を、半眼開きになった姉様があっさりと遮る。
「…何か?」
「え?」
…気のせいかしら。殿下が青ざめて見えたのは。
「な・に・か?」
一語一語区切る様な姉様の声は、何も聞くなと言外に語っていた。ええ、そりゃあもう雄弁に。
とは言え相手は王子様なのに、姉様ったらなんでそんなに強気でいられるの!?
姉様の迫力に負けたのか、「いや何でも…」と殿下は言葉を濁してその場を立ち去った。
姿を消す直前、アンジェに向かって唇に人差し指を立てながら鮮やかなウインクを残して。
振り返れば、アンジェは真っ赤な顔で俯いていた。
…えーと、何か…人に知られたくない話でもしてたのかしら。
「アンジェリカ」
姉様の鋭い声がアンジェに刺さる。
「ごめんなさい、トイレに行ったら迷って戻れなくなって…」
おーまいがっ! なんて予想通りの子なのよ!!
さめざめと嘆く私とは裏腹に、耳を疑う様な言葉が姉様から漏れる。
「よくやったわ」
「えっ?」
意外な姉様の言葉に、私とアンジェの声が重なった。
「世継ぎの王子とコンタクトできたなんて…最高の展開だわ。そう思わない、ミシェル?」
姉様の妖しくも不敵な笑いに、私の背筋には否が応にも冷たいものが滑り落ちていた。