灰かぶり
その後、アンジェのクローゼットは中身が半分になって、ようやくその減りを減速させ始めた。
もっとも極力壊れないような床磨きやフライパンの手入れ、銀食器を扱わせていた私の機転が利いたと言うのもあるんだけどね。
だからと言って家事効率が上がったかと言うと、力がないのに力仕事だから、通常の作業時間の倍かかって結果はトントンてとこかしら。
まぁ、私のお給料天引きは一応免れたわ。胸を撫で下ろしちゃった。
大体アンジェの失敗の結果が私にまで及んだなんて事になったら、あの子の事だもの、涙が噴水みたいに止まらなくなっちゃう。
――もちろんあの子が泣こうが喚こうが私の知った事じゃないけど、…濡れた床掃除なんてごめんだもの。そうでしょ?
大事な壊れやすい食器はしまい終えて、あとは台所の布巾の洗濯と床掃除だけになったので、アンジェに任せて私は自分の仕事に戻った。サテン生地の小さなパーティーバッグにスワロフスキーのビーズ刺繍を施す仕事がたまってたの。
小さくて引き連れ易い生地だから、正直神経は使うけど、仕上がりが映えるから結構楽しい。
それに花や星ををモチーフにした幾何学模様は、自分で言うのも何だけど結構洒落てて素敵だった。
ウチの人気商品の一つなんだから。うふふ。
思わず根を詰めたら夜の12時近くになっててビックリ。
あらやだ、四時間以上も一心不乱になってたわけね。どおりで肩ががっちがち。
お茶でも飲んで一息入れようと台所に向かったら、何とまだ灯りが点いている。
やーだ、あの子ったら消し忘れ?
一時間もあれば終わる仕事、まだやってる訳じゃないわよね!?
そおっと台所を覗いたら、暖炉の灰の前でくうくう寝ているアンジェの姿。片手にはネルの布、片手には銀のスプーンが握られていた。昼間、結局間に合わなくてやめさせた家事のひとつ。
…あー、それをやっちゃおうとして寝ちゃったわけね。
馬鹿な子ね―。
明日で良いって言ったのに。
疲れているのか、少し面窶れした白い顔。不器用で、仕事に人の倍の時間がかかるんだから自業自得なんだけど。でも一生懸命で仕事に手を抜かないのはいいとこよね。
暖炉の火が温かくてつい無意識に寄っていったらしく、髪の毛に細かい灰がついていた。
まったくもう! せっかくきれいな金髪、不器用な誰かさんの為に誰が編み込んであげてると思ってるのよ!? …そりゃあ、柔かい金髪が触り心地良くて、ついつい手を出しちゃうってのもあるんだけど!
伏せられた長い睫毛が湿り気を帯びていた。
――泣いてる?
微かに開いた珊瑚色の唇から、小さな声が漏れる。
「お父様、私…」
それ以上は聞き取れなかった。
灰を被った金髪の義妹をまじまじと見つめる。
まあね、何一つ不自由ない生活からいきなり突き落とされたんだもの。辛くないわけないわね。
同情はしないわよ? 同情なんか絶対しないけど!
マシュマロの様な柔かい頬を、思わず指で突いたら、う~んと小さな呻きが漏れた。
やだ、面白い。
可っ愛い~~~♪
床に膝をついて距離を縮めたら、思わずその頬に吸い込まれそうになった。
あまりに美味しそうで。
味見しちゃダメかしら。
ちょっとくらいならいいわよね?
起こさないように、そおっとそおっと近づいた時、背後で意地悪な声がした。
「見ーちゃった」
言葉とは裏腹な抑揚のない声。
リ、リリア姉様!!!
「い、いつからそこに!?」
台所のダイニングテーブルの向こうで、コーヒーカップを手にリリア姉様がうふふんと魔女の笑みを浮かべる。ぎゃー、扉の死角になってたから気付かなかった!
「初めからいたわよー」
眼鏡越しに細められた目は上弦の三日月。逆に下弦の唇。いかにもにま~~~って感じ?
「だったら声かけてよ!」
「最初からアンジェしか目に入ってなかったのはミシェル、あんたの方じゃない」
「そそそそそんな事はっ!」
「大声出したら起きるわよ?」
ちろ~んと流し目をくれるリリア姉様の言葉に、ハッと自分の口を抑える。
「まあ、保護欲をそそるタイプよねえ」
意味ありげな言い方は、相変わらずいけずそのもの。
「何が言いたいの?」
「別に? あんたはあんたで昔からこっそり怪我した犬猫拾っては世話してたし…いいんじゃないの?」
「そんなんじゃないわよ!」
いいんじゃないの?って何がよ?
逆に姉様は、昔っから難しい本ばかり読んでる子で、何が言いたいのかさっぱりわからない。
「ベッドに運んで寝かせれば?」
「そ、そこまで甘やかす必要ないわ。それにドレスに灰がついちゃうし」
「じゃあ言い直してあげる。邪魔だから運んで」
「………」
その言い方は、有無を言わせぬ妙な迫力を持っていた。この姉に逆らう気?みたいなオーラがびんびん出ている。幼い頃から刷り込まれた条件反射が、逆らうなと告げていた。
「ね、姉様がそう言うならしょうがないわねっ」
必死で平静を装いながら、私はそっとアンジェを抱き上げた。
うわ、軽い! もうちょっと食べさせた方がいいかしら。
「言っとくけど、いくら可愛いからって…ベッドでいけない事とかしちゃダメよ?」
「するわけないでしょ! そんなこと」
いけない事っていけない事って、どんな事よ!?
「ま、要は本人にばれなきゃいいんだけど」
「だからしないってば!」
そんな私達をよそに、アンジェは無防備な寝顔を見せたまま、全く目覚めようとしない。さながら魔法をかけられたお姫様みたいに。
姉様の変化球な舌鋒を必死で避けながら、台所を後にする。
彼女の部屋の小さなベッドにそっとおろすと、灰の付いた髪や頬を、軽く拭いてやった。
だって…美少女なのにもったいないじゃない? ベッドだって汚したら面倒だし。
後はしっかり布団でくるんでやる。
出ているのはさながら天使の様な寝顔だけ。
苦しくないようにあけたシャツの胸元なんて、見てないわ。
そもそもこの子の貧相な胸なんて、見たってしょうがないし!
脳裏を横切ったあんな事やこんな事をきっぱり振り切って、魔法の呪文を繰り返す。
心頭滅却心頭滅却心頭滅却心頭滅却心頭滅却心頭滅却…
よーし、大きく深呼吸!
「ゆっくりおやすみなさい。いい夢をね、アンジェリカ」
閉じたまぶたに軽く口付け(妹なんだから、これくらいはいいわよね?)、まるで本物の姉の様に呟いて、私は彼女の部屋の扉をそっと閉めた。
…つまり、台所の灰の始末や火を落とすのは私って事ね。
あーあ、とんだ貧乏くじだわ。
ふん!