前編・天使変調
その後のミシェル×アンジェリカ、番外編です。
アンジェリカ視点。
お父様が不意の病気で亡くなる前に、私にできた新しい家族は、かなりゴージャスで、どこかエキセントリックな人たちだった。
いかにも貴婦人といった毅然とした気品を持つお母様と、才媛と名高いクールな雰囲気のリリアお姉様、そして何より不思議だったのが、兄とも姉ともつかぬミシェルだった。
「いいわよ、年も大して違わないんだからミシェルって呼び捨てで」
お兄様と呼ぶべきかお姉様と呼ぶべきか考えあぐねていた私を見かねたのか、ぶっきらぼうにため息をついてそう言ったミシェルは、神殿のブロンズ彫刻さながらに優雅で美しく、けれどその声はどう聞いても男性のそれだったのだ。
彼は一見とっつきにくく言葉遣いもぞんざいだったけど、本当は優しい人なのだとすぐ分かった。
大好きなお父様が亡くなってから、泣くまいとしながらつい涙を溢してしまった私を、大きな手と広い胸で抱き締める。
「大丈夫よ。あんたを一人にはしないわ」
艶のあるビロードの様な声は、本当に天使を思わせるものだった。
彼の胸は広く暖かくて、まるでお父様の胸の中にいるように私はすっかり安心してしまった。
思えばそれが彼に対する信頼の第一歩だったんだと思う。
何も出来なかった私に一から色んな事を根気よく教えてくれたのも彼だった。
早逝した母が生きていたら、こんなだったかもと思わせる様に。もしくは少し厳しめで。
私はミシェルが大好きだった。
彼は家政については驚くほど博識で、まるで魔法使いの様に、有り合わせの材料からご馳走を作ったり、一枚の布から素敵なドレスを作ったりする。
彼といたら、巻き起こる魔法の数々で私は目をみはるばかり。
いつだって彼は私の尊敬の的だった。
何もできない私を甘やかしはしないけど、決して見捨てたりもしない。
冷たいふりをしながら優しくて、ちょっぴり照れ屋で、それを隠すために意地悪な物言いばかりするのだ。
優しくて綺麗なミシェル。
もちろん今でもそれは変わらない。
けれど…、少しその形は変わったと思う。
―――ううん、大分、かしらね。
◇ ◇ ◇
「ん、…んふ、…ん―…」
重ねられた唇の端から、あえかな息が漏れる。私は堪らなくなって、彼の背中に回していた腕に力をこめた。
そうでもしなきゃ、溺れそうだったんだもの。
私の口の中を自由に泳ぎ回っていたミシェルの舌が、もう一度深く差し込まれて私のそれを捕らえると、名残惜しそうに唇が離れていく。
ようやく息をついた私は、目を閉じたまま彼の胸に倒れ込んだ。
気持ち良すぎて目眩がしそう。
「やだ、そんなに気持ち良かった?」
ミシェルが嬉しそうにクスクス笑う声が聞こえる。
「だって…」
泣きそうな私の声に、ミシェルは、晒されたうなじに唇を滑らせた。
ちゅ、と音を立てて、彼の柔らかい唇が私を責め立てる。
「アンジェ、可愛い」
そう言われただけで、体温が上昇するのを自覚した。
彼は私の兄(姉?)から恋人になった。ずっと好きだったと言われて、晴天の霹靂と言う言葉の意味を思い知ったと思う。
だって、今でこそ家事はそこそこ出来るようになったものの、私と来たら相変わらずドジなミソッカスで、何でも出来てあんなに綺麗なミシェルに特別に思って貰えるなんて思わなかったんだもの。
彼が私を大事にしてくれるのは、私が義妹だからだとばかり思っていた。
親を亡くして何も出来ない私に同情してくれているのだと。
だけど、私に告白してくれて以来、彼は二人っきりになるチャンスがある度に「愛してる」と囁き、甘いキスを繰り返す。
「あの、そろそろお母様達が帰ってくるから、夕食の準備をしなきゃ…」
離れ難いのを我慢して私は上目遣いで彼を見上げた。
「そうね…、じゃあもう一回だけ!」
彼は私のおとがいを掬い上げると、触れるだけのキスをする。
「もう、ミシェルったら!」
さっきだってそう言ったくせに!
「はいはい。そんな恐い顔しないで。せっかく可愛い顔が台無しよ?」
彼はそう言うと本当に最後と言わんばかりに私の額に掠める様なキスをしてキッチンを出ていった。
「もう……っ」
本当は私だってもっとミシェルといたい。抱き締められるのもキスするのも嫌いじゃない。
だけど今、彼はもうすぐこの国の皇太子様に嫁ぐ、リリア姉様のウエディングドレスを作っているのだ。
しかもただのドレスじゃない。そのドレスの出来如何に寄って、王宮専属職人ーのベルナルドに弟子入りできるかもしれないのだと言う。
そんな彼の将来をかけた一大事に、私が邪魔するわけにはいかない。
それに―――
壁に掛かっている小さな鏡を見てため息を吐く。
小さくて華奢な身体。
全体に丸くて頬骨の目立たない幼い顔立ち。
巻き毛の金髪は、家事の時は邪魔だから編み込んである。しかもミシェルの手によって複雑に編み込まれたリボン付きだ。
どう見てもそれはいとけない少女のそれで…
ねえ、ミシェル。
貴方に『可愛い』って言われる度に、不安になるなんて言ったら、笑われる? それとも呆れられる?
元々可愛いものや綺麗なものに目のないミシェル。
貴方が好きと言ってくれた私が、貴方の好きな人形や小動物と同じじゃないと、言い切って欲しいのは私のワガママなのかな。
小さくて、ふわふわで、頼りなく愛らしいなんて、愛玩物の定義そのものな気がする。
彼の私に対する想いが、彼の偏愛する綺麗なものに対する愛情と違うなんて誰に言える?
(バカみたい。私、強欲過ぎるんだわ)
好きだと言われて、大事にされて、不満を覚える自分が嫌になってくる。こんな事を言うのは不遜だと解っているけど、…彼に恋をしてから、私は醜くなっていっている気がしてしまう。
(バカねぇ。しっかりなさい!)
それでも思い浮かぶのは少し意地悪な彼の顔で。
丸くて柔らかい自分の頬っぺたを、ペチペチ叩いて気合いをいれた。
そして、私は彼やお母様達といったちょっぴりスパイシーでバイタリティ溢れる家族に少しでも喜んで貰えるよう、シチュー作りに取り掛かったのだった。
「だーかーらー、このラインがイマイチだって言ってるの!」
「そうは言うけど、リリア姉様の身長と体型でもっとハイラインに入れたらバランスが悪くなっちゃうわよ!」
「それを何とかするのがあんたの腕でしょう!?」
喧々囂々の言い争いが、部屋の外の廊下にまで響いてくる。
「と、に、か、く! そのままだったら絶対着ないからね! 分かった!?」
ガチャン!と大きな音を立てて扉を開けると、リリア姉様がミシェルの仕事部屋から出ていく。
私は口の中で百数えてから、開いてるドアをノックした。
「あの、ミシェル…?」
中を覗き込むと、恐いほど真剣な顔をしたミシェルが、ドレスを着せられた胸像と向かい合っている。
作る途中で何度か見せて貰ったけど、何度見てもため息が出ちゃう、とても美しいドレスだった。
前身ごろの中央、ハイウエストの切り返しから、高く上げられたスタンドカラーの顎の下まで、細かい飾りボタンがついていて、フリルやタックは一切ないものの、その分身体の線が強調されるデザインになっている。
しかもよくよく見れば、胸元や背中は結構大きく透けるレースになっていて、けれどベールに隠されたその透ける肌を目にする恩恵は、夫となるトーマス・シャノン殿下だけだろう。
ウエストから柔らかいシルエットを描くスカートは、当然後ろだけが長く引きずる様になっていて、レースのヴェールと同じ繊細な百合の模様が絶妙の配置で刺繍してあった。しかもヴェールにだけは一部蝶が飛んでいると言う細かい演出付きだ。
何と言うか…清楚なんだけど微妙にセクシーで、これを着た時のリリア姉様の姿は、見ただけで息が止まりそうな気がしちゃう。
さすがに美に拘るミシェルらしいドレスだった。
けれど―
ミシェルはドレスを睨み付けて口をへの字にしたままだ。
「お茶、テーブルに置いておくから飲んでね」
邪魔をしないように小声でそれだけ言って部屋を出ようとすると、腕を掴まれて胸の中に引き摺りこまれた。
「ミ、ミシェル?」
突然の抱擁に、私の声が裏返る。
「黙って。今、鋭気を充電してるんだから」
「は、はい」
珍しい彼の低い声に、私は一も二もなく服従してしまう。
大人しく彼の胸の中にいると、息苦しい様な、でもずっとこのままでいたいような、不思議な気分だった。
「ありがと。ちょっと落ち着いた」
「ううん」
よく見れば、彼の彫りの深い目元にはうっすら隈が出来ている。デザインが思い通りに行かず、あまり寝てないのかもしれない。
こう言う時は何て言えばいい?
頑張ってなんて、これ以上なく頑張ってるのに言える筈がない。頑張らないでなんてもっと言えない。
結局私は無難な言葉で口を濁すしかなかった。本当に私、気が利かない。
「あの、スコーン焼いたの。ミシェル好きでしょ? 手が空いたら良かったら食べてね」
埃が入らないように布巾で覆ったお盆を指差すと、私はめいいっぱい彼の喜びそうな笑顔を浮かべる。
「あら。焼き立てならせっかくだから今、戴くわ」
「…いいの?」
「いいわよ。どうせドレスと睨めっこしてても何も浮かばないし」
言いながら彼は腕を上げて身体を伸ばす。
「あら美味しそう。アンジェも腕を上げたわねぇ」
「本当?」
「ええ、焦がさなくなったし形も均一だし…うん、生焼けもないわね」
「もう、ミシェルったら!」
スコーンを割りながら中を確かめる彼の背中に、思わずぽかぽか殴りかかってしまった。そりゃあ昔は全部やったけど。ミシェルみたいに黄金色にはまだ焼けないけど…喜んで貰いたくて一生懸命作ったのに。
「あはは。美味しいわよ、これ? あんたも食べたら?」
そう言って彼はクロテッドクリームと苺ジャムの乗ったスコーンを口元に差し出した。
今は短くなってしまった彼の黒髪が、彼の綺麗な額に乱れ落ちている。
いじける気持ちを押し隠して、両手で受け取って端をかじった。
「うん、美味しい」
目映いミシェルの笑顔にポーッとしながら食べていたら、欠片がポロポロ溢れてしまった。
やだ、ここはミシェルの仕事場なのに!
「はい、慌てない。慌てるとあんたの場合二次災害が起こるからね。ほら、じっとして」
彼は魔法が使える長い指を私に向かって伸ばすと、頬っぺたに付いていたらしい欠片とクリームを拭い、汚れた指先を自分の唇にもっていく。
その姿がどこか艶めいていて、私の体温はまた上昇してしまう。
「まだ動いちゃ駄目よ――」
長い睫毛で牽制しながら、そのまま彼は私に近付いて唇の端にに残っていた最後のジャムを舐め取った。
「――はい、おしまい」
「あ、ありがと…」
「どういたしまして。このジャムも美味しかったわ」
「あ、それ春に二人で摘みに行ったやつよ?」
「ああ、そう言えば行ったわねえ。アンジェったらはしゃいでたくさん摘みまくって」
「すっごく楽しかった。また…来年二人で行けるといいな」
「勿論よ。二人で行きましょ。約束」
「うん」
お仕事が忙しくなければ―。そう思ったけど、言葉は途中で飲み込まれる。せっかくそう言ってくれたミシェルの優しさに、ケチをつけるようで憚られたのだ。
だって、もしベルナルドに認められたら…もちろんミシェルならお眼鏡に叶うって信じてるけど、…そうしたら今まで以上に忙しくなるんじゃないかしら。
今だって、これまでの半分以上会えてない気がするのに、宮廷デザイナーになったら王宮に住む可能性だって出てくるのだ。もし彼が家を出てしまったら、会えるのは一週間に一度? それとも一か月?
後ろ向きな想像ばかりしてしまう自分がつくづく嫌になって、気持ちを引き立たせようと別の事を考えた。
「それにしても、本当に綺麗ね、リリア姉様のドレス」
「………」
「気に入らないの?」
「そういう訳じゃないけど…そうか、苺…絡まる…」
「ミシェル?」
ぶつぶつと唱えながら、彼は何かを思いついたようだった。
「そうよ、無理に縫い合わせずに蔦が絡まるように巻き付ければ…! ありがと、アンジェ! これで光明が差したわ!」
不意に興奮しながら叫びだすと、ミシェルは台の上にあったチュールレースのリボンをドレスに巻き付け始める。
「そうよ、こことここだけ縫いとめて…せっかくだからスワロでさりげなく光らせようかしら、うん…」
見る見る間に、ドレスはまた違ったアレンジを見せ始めた。
「ミシェルってやっぱりすごい…」
「んふふ、たまに自分でもそう思うわ。ありがと」
細かいレースをツタの様にあしらったドレスは、上品さをそのままに、どこか野性味を帯びた戦女神の様な不思議な華やかさを醸し出していた。
「すてき!絶対姉様に似合うわ。ね、ミシェル!」
「うん、まあ、…姉様のあざとさはうまく出せたかしら、ね…」
そう言いながらも彼の顔は満足そうに輝いている。
あざとさだなんて…、もうミシェルったら。
「でも…うらやましいな」
「なんで?」
「だって…たぶん、私にはこう言うの似合わないんだもの」
「こう言うのって?」
聞き返されて、言葉に迷う。
「こう言う…その、色っぽいの?」
途端に目をぐるりと回しながら、ミシェルは吹き出しかけたのを必死で堪えた。そのまま両手で口を覆い、上半身を折り曲げて体を震わせている。
「ひどい! 笑う事ないじゃない!」
「違う! 笑おうとしたんじゃなくて!」
あわてる彼の言葉を最後まで聞かず、私は彼の部屋を飛び出した。
ショックだった。馬鹿なことを言った自覚はあるけど。
思い切り傷付いたのだ。
どうせ、私は綺麗なだけのお人形さんだもの。
姉様やミシェルみたいに、色っぽくなんかなれないもの!
そう考えたら涙が止まらなくなりそうで、でも止める理由も見つからなくて、部屋に鍵をかけて私はベッドの上で思い切り泣き続けたのだった。