茂みの中の兎たち
「ほら、左足一歩出して、右足でステップ!」
「あ、うわ、きゃあ」
どべちゃっと派手な音を立てて、我が妖精姫は床に腰を打つ。
「…まだまだねぇ」
「ごめんなさい…」
相変わらず泣きそうな声で彼女が呟いた。私は腰に手を当てたまま、助け起こそうとはしない。
我ながら大人気ないとも思うけど…でも自分で行くと決めたんだから、一人で立ち上がれる様にならなきゃダメでしょう?
結局アンジェはもう一度舞踏会に行く事になった。
もっとも皇太子殿下自らの招待を、下々の庶民が断れる筈もない。
それでも、うじうじと行き渋るアンジェに、さくっと決意を促したのはリリア姉様だった。
「本当に申し訳ないと思うなら、ちゃんと会って謝れば?」
あまりに悪びれず、且つ単純過ぎて、よもやアンジェの罪悪感の元となった例の告白を無理強いした張本人だと気付かせない、大変もっともな意見だった。
…こういうの、厚顔無恥って言うんじゃないかしら。怖いから言わないけど。
そんな矛盾にさえ気づかず、この天使ちゃんは深刻そうな覚悟さえ見せて、城に行く事に同意したって訳。
「確かに、ちゃんと謝らなきゃ」ってね。
大体侍女のかっこをして、しかも口が利けないふりをしたのが自分の意志じゃなかったんだから、私を責めたっておかしくないのに、誰かのせいにしたり悪く思うなんて、思いもよらないらしい。
箱に入れて飾って起きたい程お人好しの甘ちゃんだわ。
もしかしたらアンジェをコントロールするなんて、赤子の手を捻るより簡単かもしれない。この子の正義感や同情心を擽ればいいんだもの。
現にお母様やお姉様はそれに気付いている。
あまつさえそれを実行する事に、これっぽっちの躊躇いもないだろう。
そして…私にだって、それが出来ないとは誰に言える――?
もっとも!
それはあくまで精神的な話よ!
今は目の前の大きな問題を片付けなきゃいけない。
だって舞踏会に行くからには、ダンスはマスターさせなきゃならないじゃない!
呼ばれて踊れませんじゃ、それこそ打ち首獄門にされても文句は言えないわ。なんてったって、相手は絶対権力だもの。
だから再特訓を開始したってわけよ。せめて一番簡単なワルツくらいマスターさせなきゃ、いくらなんでもまずいってーの!
「だけど舞踏会に行くならドレスがいるわね」
しかもある程度上等なものを、と、リリア姉様に招待状を手渡されたお母様は、思いがけない臨時出費に気付いて微かに眉をしかめた。
「それなら、今作っているドレスサンプルがあるから、アンジェ用にサイズを直すわ。宣伝にもなるから一石二鳥でしょ?」
大嘘もいいとこ。
けど、こんな日の為にこっそり作っておきましたなんて、とてもじゃないけど言えやしない。
特に――
あんな風に私を見るアンジェを見ちゃった後ではね。
大した秘密がなかったとは言え、アンジェが言いたくなかった事を、私はお母様達と一緒になって暴いたのだ。
あの子が私に対する信頼を失ったって、仕方ない。
だったらせめてもの罪滅ぼしに、最高に似合うドレスを用意したってバチは当たらないだろう。
……もちろん、アンジェにそれを着せたい下心が、これっぽっちもないとは言わないけど。少し…まあほんの幾らかはね。
お母様やお姉様は宣伝の二文字であっさり納得してくれた。
ビジネスライクって大事よね。
「でも、本当に良かったの? ドレスサンプルって、最近ミシェルがこっそり打ち込んでたやつでしょう?」
あんな事があったなんておくびにも出さず、アンジェはすまなさそうに訊ねる。
あらやだ、どん臭い顔していつの間に気がついてたのかしら、この子ったら。
まったく、侮らないで気を付けなきゃ。
「何度か舞踏会に行って触発されたからね。でもドレスなんて誰かが着なきゃ、ただの布の塊だもの」
床に座り込んでいるアンジェに、やはり助けの手を差し伸べる事もないまま、私はかがみこんで視線の高さを合わせた。
「だからあんたは精々私のドレスを世に知らしめるべく、ちゃんと華麗に踊って見せてよ」
難しいとは知りながら、それでも無表情を装って激励してみる。
実際のところ、この義妹が王子様と踊れる事が、私にとって嬉しいのか悲しいのかよく分からないのだけど。
「う、うん…」
つくづくダンスが苦手らしいアンジェは、肩を落として口ごもる。
「大体、皇太子殿下が招待した以上、少なくとも最低一曲は彼と踊らざるを得ないじゃない。幸い彼と私なら背格好もあまり変わらないから、私を殿下だと思って練習に励みなさい!」
人差し指を突き出して、破れかぶれな私の言葉に、アンジェの何かが科学反応を起こす。
「ミシェルを…、王子様だと思って…?」
言いながら彼女はみるみる完熟トマトの様に真っ赤になった。
…え?
ちょっと待って…!?
一体何なのよぉ、その反応は!!!
◇
結局、舞踏会でのアンジェのダンスは恙無く終わった。
最初のワルツを何とか踊った直後、殿下はアンジェを連れて雲隠れを決め込んだからだ。
王宮の噂雀がスキャンダルに飛びつくのは火を見るより明らかだったけど、私はそれどころじゃなかった。
だって、王子とアンジェを(しかもあんなにあんなに可愛らしく美しく着飾ったアンジェを!)二人っきりになんかしたら……いたいけで人を疑う事を知らないアンジェが、涎を垂らした狼の前の仔羊に思えて、あんな事やこんな事が脳裏を侵食し、ぐちゃぐちゃにかき混ぜる。
いーやー、やめてーーー!!
そんな私の心配をよそに、彼らは最初に出会った裏庭にいたわ。
ええ、そりゃあもうあっさりと見つかった。
微かに聞こえる楽しそうな話し声。
茂みに隠れて息を殺す。
なあに? 何を話してるの?
…い、言っとくけど、ぬ、盗み聞きじゃないわよ!? 一応家族として、保護者として当然の権利と言うか、心配するのは当然でしょ!? だからこれは不可抗力!
理論武装をきっちり終えて、私は茂みの中で耳を澄ました。
「…それであんなに必死な顔をしてたんだ」
「だって…殿下のおみ足を踏んでしまったらと思うと気が気じゃなくて…」
「だったらさっさと連れ出したのは正解だったかな」
「はい、やっと安心して息が出来ますわ」
「そう、よかった」
………。
ふうん、楽しそうじゃないの。
特に危険そうな感じもない。いや、まだまだわからないわ。昔から言うじゃない『男は狼なのよ、気をつけなさい』ってね。
「でも見違えるように綺麗だよ、そのドレス姿。いや、この間のメイド姿も充分可憐だったけど」
「そんな…」
当たり前でしょ! 私がこの子の為に夜なべして作ったドレスなんだから!
メイド姿だって、鼻血噴くほど可愛かったわよ!
頬を染めて照れるアンジェの姿がありありと浮かび、脳味噌が沸騰しかける。
「君みたいな人を妻に出来る男は幸せだろうな。素直で正直で従順で」
「やめて下さい、殿下…」
ぎゃ~~、何を言ってるのこの男は! よもやアンジェを妻にとか思ってないでしょうね? そんな事出来るはずないでしょう! 幾ら何だって身分が違いすぎるわよ!
それはさすがにアンジェにも分かっていたらしい。
「どうして? 僕が君を気に入ったらまずいのかい?」
「だって…身分が違いすぎます」
そうよ! 確かにアンジェは可憐だし清純だし誰にも負けないくらい可愛いけど! 王族に嫁ぐには爵位さえないんだもの。無理に決まってる。
だけど王子様はめげなかった。
「アンジェリカ、王族にとって一番危険な事は何か分かるかい?」
「え?」
「それは飢饉でも侵略でも災害でもない…革命だよ」
「革命…?」
「そう。民が王家に反旗を翻し、その没落を望む事。それが平和と堕落を感受し続けた王家にとっての一番の脅威だ。だから王家は民に慕われていなくてはならない。――分かるかい?」
「え、…ええ」
「つまり、例えば嫡子である僕が一般庶民から妻を迎えるのは、民の人気を得るためにも有効な手段と言う事だ。理解した?」
うっわ、なんて事!!!
国民の支持を得る為なら、爵位がなくてもOKって事!? 信じらんない! 信じらんない!
「あの、でも…、殿下は本当に好きな方がいらっしゃるのでは…」
「…ああ、それは」
そうそこ! そこをはっきりさせてもらわなくちゃ!
思わず興奮して身を乗り出しかけたせいで、茂みががさりと揺れてしまった。
二人の会話がぴたりと止まる。
「あの、殿下…?」
「…いや、ここの茂みにはたまに野兎がいるらしい。場所を変えようか」
ちょっと待って! 聞き耳立ててるのがばれた!?
でも二人っきりにはさせるもんですか!!!
勇んで立ち上がろうとするのを後ろから羽交い絞めにされた。
「ふンが、ふふ…!」
「だ・ま・れ」
地獄の底から響く様な低い声は、なんとリリア姉様だった。いや~ん、いつからそこに!?
「これ以上は追っても無駄よ。行きましょ」
ひそひそ声で引っ張られる。
「なんでそんな事が分かるのよ!」
「だって、そろそろお開きの鐘が鳴るもの。ちゃんとアンジェは戻してくるわ」
姉様がそう言った途端、城の塔楼の鐘が大きくなり始めた。
舞踏会の終了を知らせる12時の鐘。
「本当に…あのこ戻ってくる…?」
「大丈夫。行くわよ!」
いやに自信満々な姉様に手を引っ張られて、無理矢理その場を後にする。
リリア姉様が言った通り、ホールの戻るとお母様の横にアンジェは戻っていた。
私が作った愛らしいドレス姿で。
何事もなかったかのように、ふんわりと微笑んでいる。
その笑顔を見て私は何故か泣きそうになった。
アンジェリカ、アンジェリカ。
あなたと王子の会話を思い出すと、この心が張り裂けそう。
ねえ、
私はこれから一体どうすればいいのかしらね…。