山崎梓:猫かぶり
彼女は自分以外に見えないことをいいことに、この幽霊生活をかなり楽しんでいる。その大半が、軽い体を生かした曲芸やちょっとした悪戯、子供の様なことばかり。高校生は大人ではないだろうが、しかし自分よりは大人に近いはずだ。
彼女は16。つまりあと四年で大人にならなければいけないはずの人間なのに。
(・・・ここは道を変えた方がいいのだろうか)
このままいくと、例の歩道橋を通らなくてはならない。放課後の通学路で、藍は悶々と頭を悩ませていた。
先を歩く梓は楽しげである。どうも道路に映る影を踏んで、一人遊びしているらしい。今ではそんな遊び、小学生だってそうしない。 ―――ああ、またあの駐車場だ。
知ってか知らずか、彼女にとってこの道は、自分が命を落としたあの場所へ向かう道。どうなのだろう。怖くは無いのか。やはり避けた道を歩いてやった方が――――・・・・梓曰く「真面目な」彼は、好かないはずの彼女について、その薄い色の眉をぎゅっと寄せて考えた。
(そうだ、やっぱり)
いつしか下がっていた視界が、少女の満面の笑顔で一杯になった。
『そうだ病院に行こう!』
彼女はそう言って手をたたく。藍の心臓は急激に機能を速めて大量の血液を体中に送り始め、藍はとっさにその場で足を踏ん張った。
「病院?」やっと藍は訊き返した。
「どうしてまた」
『ボクの体が運び込まれてるはずだろ。ちょっとどうなってるか見てみたいんだ。嗚呼ボクはなんで忘れてたんだろ。自分の体を上空から見下す。なんていう幽霊特権!
そして台詞は『起きなさいよ!私の体でしょっ』ふふふいいねぇいいねぇ夢だねぇ』
彼女は楽しそうではあるが、忘れてはいないだろうか。事故から三日経過している。
「体はまだあるでしょうか。もうとっくに自宅に運ばれてるんじゃ・・・・・」
へたしたら焼かれてるのでは。
一瞬で行きつく考えに、すっと背筋が寒くなった。もし自分なら―――自分が居ないうちに、十数年間共にしてきた体が葬式に出され、焼かれ、灰になっていたとしたら、そうなったら、きっとどうしようもなく――――・・・・・。
「行きましょう今すぐ!」
『えぇ・・・・いいよ今度で』
彼女はそう言って、心底面倒くさそうに髪を掻きあげた。『今度の休み、ゆっくり行こうよ。無かったら無かったでまぁその時で』
これはぞんざいにするべきことではない。「良くないです。最優先事項ですよ」
力強く、藍は力説した。
『ははっ、難しい言葉知ってるねェアイちゃん。中学生も恐ろしいね』
「山崎さん、これは人の生き死にのTPOに関わることです」
『TPOて。ははっ、それなんか可笑しくないかい?』
「常識的に考えて、ってことですよ。今日行きましょう」
ぐいぐいとその背を押す。触れる背は冷たかった。この冷気は彼女自身の体がそうだからなのだろうか。なぜだろう。どうしようもなく悲しい。
『仕方ないねぇ、藍ちゃんは』梓はそう言って他人事のように笑った。
鞄を部屋に放り込み、財布だけ持って家を出る。藍はバスか自転車かで迷ったが、結局自転車の鍵を差した。
無言でペダルを踏むと、冷えた頭に先ほどのやり取りが思い出された。
(・・・・自分のことなのに)
彼女は自分のことに無関心すぎるのではないか。
自分なら、と考えてみる。ある日突然死んだとして、どう思うだろう。
まず気になるのは自分の身。想い出、夢、将来。次に家族、友人。いるなら恋人だって。(どう見てもいそうにないが)全て彼女はどうでもよさげである。『めんどくさい』とまで態度で示す。
(・・・・・最初、彼女は何て言ったっけ)
最初に会ったのは彼女が幽霊になってから。事故の次の日だった。
(急に、だったような気がする)
日常がなんとなく、違うなと感じた。昨日、あんなことがあったからだろうかと思った。
(・・・・何て言ったっけ)
『ボクが最後に見たもの、何だかわかる?』
藍の後ろで梓が言った。どんな体勢かと信号待ちの時に見てみれば、後輪に座るようにして乗っていた。どうやってバランスを取っているのだろう。不思議だ。
『満月が見えたんだ。ほら、あの日満月だったろ?落ちる時に、空が落ちるっていうけどサ、まさにそれだった。ボク、一瞬自分の眼があの月になったかと思ったんだ。』
梓の髪がなびく。この幽霊はたまに、まるで質量があるかのような様子を見せる。
紺と白のセーラー服。スカートはきっちり膝丈。四角い眼鏡はフレームが赤い。肌は意外に白く、眼はツリ目がちだ。ゆるく波打つ背まである髪は真っ黒。瞳は濃い茶色。
―――こうしていると、まるでどこぞの優等生だ。
『浅黄色って、わかるかい?』
『・・・・・新撰組の羽織の色でしょ』
そう言うと、梓は満足そうに背を丸めて笑った。
『・・・・ボク、君に言ってないことがある』
梓は今までになく静かに語った。
信号が青になる。右足をペダルに乗せた。
梓は空を見上げていた。豊かな髪からちらりと見えたそれに、細い首だ、と思いすぐ目をそらした。
『いっぱいあるよ。本当に、たくさん』
語尾が灰色に溶けていく。
背中越しの物体は、やはり冷たかった。
最初、彼女はこう言った。
『やぁ、はじめまして。君に取り憑いているものだ』。
自分にも生活があるわけで、藍は彼女が自分にまとわりつくのを放っておいた。たまに、『本当に帰れないんですか』とやんわりと促してみる。それが三日続いた。
(僕は、本当に頑張っただろうか)
―――ただ、邪魔だからという理由だけで、彼女をぞんざいに扱わなかったか?
三日間はいつもと変わらず短かく、いつも通り緩やかな弧を描いて、陽は空を廻った。
何かが抜けている。藍はそう感じた。彼女は、何かが足りない人間だ。
それが情なのか、それとも他の何かか。まるで子供だ。
興味では無い。藍には三日間共にした人間のことを、こうも何一つ分からない、そのことに抵抗があった。
梓は自分が今まで出会った中で、一番不可解な人間だ。そう思った。そして、もう少し彼女に付き合おうとも。
梓について語ろうと思う。前述の通り、彼女はファンタジー小説が好きな私立の女子高の生徒だった。
それなりに、将来についての夢もある。そのために彼女は、あの語学が豊富に学べるあの高校を選んだ。
家はまったく普通の家庭。はっきり言ってしまえば、就学生制度を使用せずにこの私立に通うというのは、かなりの負担である。何せ名門私立、三年間で五百万ほどの金がかかる。まだ十代の梓にはまだまだ縁遠いと思っていた、くっきりと浮かび上がるリアルな数字だった。
しかし一人っ子長女と言う期待もあってか、彼女は念願叶ってこの学校に通うことが出来た。
十一月も半ば。入学して丁度半年を切った。金欠に喘ぎながらも、親しい友人と楽しく毎日を過ごす。 勉学に励む。学校では学校の山崎梓。家では一人娘で長女の山崎梓。
梓はそして今、藍の前での『山崎梓』が出来上がっていくことを感じていた。
梓は自殺などをするタイプではない。それなりに思春期特有の影もある。が、夢に向かって歩いているつもりだった。彼女は、少なくとも今は、『死』を感じたこともなかった。
あくまで梓は『落とされた』。あの歩道橋の上から。
さて、考える。
あの場に居たのは五人の学生。つまり梓にとって四人の容疑者だ。
あの時のことを思い浮かべてみよう。
蒼いランドセルの小学生。梓と反対側から歩いてくるのが見えた。――――体格的にも梓を押し上げることなんて不可能。彼女は除外。
不良の高校生。彼も前から歩いてきた。―――――彼も除外。
あと二人。
梓とすれ違った男子中学生と、そして梓の後ろを歩いていた坂城藍。
――――私はそれなりに夢を見るのが好きだった。
藍にはまだまだ言っていないことはたくさんあった。ひとつ。自分が『落とされた』こと。
指を一つ立てる。ふたつ。犯人探し。みっつ――――
落ちる直前に見えたもの。
黄色い後ろ頭が眼に入る。振り向いたらまず、あの真っ青の眼が眼に入るのだろう。(あの色は忘れない)
今度は梓が彼の後ろに居るがさて――――(・・・・・どうしよっかなァ)
梓は自分のことに無関心なのではない。そんなことは彼女の性格上ありえない。
梓は、生きることを一度も諦めたことなど無かった。