西藤 凛:人魚
さて、梓といえば、藍のことを、悪い意味でとても気に入っていた。
梓にもなぜこうなったのか。それが多大な疑問だった。しかしそれを上回るものが今あるのだから、それはいい。
ついつい反応が面白くて苛めてしまうが、彼とはまるっきり初対面である。確信がある。
何せ、目立つのだ。藍少年は。
黒髪の中の金髪、名前と同じ藍色の眼。顔立ちも将来有望。今は小柄だが、あと数年成長期が来てぐっと大人に近づいたらまだしも、まだ幼い顔は小さなころからそう変わっていないはずだ。
故に簡単かつ明確な結論。『ボクは過去の彼を知らない』
これがSFなら、時間旅行で未来の自分が過去の彼と、となるのだろうが、あいにく今は未来も何もあったもんじゃない幽霊の身の上。これ以上ミラクルは起こらない。
チャイムが鳴り、ノートを広げる彼の黄色い後ろ頭を見る。
事故から三日が経過している。
その間に分かったことは、坂城藍少年の生い立ち家庭事情、そして彼がたいそうに真面目ということだけだった。
真面目だからこその、あれこれなんだろう。
自分がこの十六年の人生で、経験したことの無いことを彼は知っている。それを見つけるのが楽しい。しかし彼自身がその尊さ、偉大さ、稀有さ・・・・とにかく凄さに気が付いていないのだ。藍は自分をつまらない人間だと言うが、そうでもない。むしろ、梓にしてみれば面白くてたまらない人間だ。
梓から見れば変えられないのだから無駄なこと不毛なことだが、当人にしてみれば、変えられないこその大切なこと、だ。
梓は問いかける。――――ボクはこれが好き、これが嫌い。なら、キミの好きなもの嫌いなものはなぁに?答えるもよし、答えないもよし。返事はなくてもいい。
せいぜいぐるぐる悩めばいいさ青少年、なんて思う梓もたいがい子供らしくない。
ああ、これだからボクらは引きあったのかな。なんてね。
・・・と、考えているあっという間。暇で暇で仕方なくなるかと思ったが、意外となんとかなるものである。何せ考えるべきことは色々あるのだから。
※※※※
凛は驚きに眼を剥いた。何が起こったのか、一瞬理解しかねた。
(人が落ちた)
人が目の前で落ちて行った。
けたたましく響いたクラクションに人が集まってくる。
タイヤが道路を滑る音。
怒声。「逃げんなテメェ自分がナニしたか分かってんのかッ!おい!?」
怒声。「うるせェ轢くぞ!」
声。「人が落ちたって」「マジかよ」「やだぁ」
下を見る気にはなれない。
どうしようどうしよう。ぐらぐらと頭が揺れた。
どうしたらいい。灰色のコンクリートの地面も揺れている。自分の頼りない細い手が見えた。それで眼を覆う。
これのせいだ。
セイレーン、という力があった。
それは超能力の様なもので、しかし物理的にはまったく作用しない能力である。
そもそもセイレーンとは、ギリシア神話等に登場する、西洋の女の妖怪だ。女神だったり、半鳥半人だったり、怪鳥や、ただ単に妖婦と呼ばれたり、人魚としても知られている。その多くに共通するのが、歌声で人、特に男を惑わす姿である。
俺は十四の時に魔法使いに会った。
可笑しいとは思ってたんだ。だって俺は他とは違う。流石に十四年。うっすらとは気が付いていた。無条件に人に好かれる能力。よくよく意味を考えた。
・・・・・鳥肌が立たないか?ああ、吐きそうだ。
力は眼に宿るという。それは俺も例外ではなく、俺の力が一番大きく影響されたのはこの眼。
辺りが暗くなってきた。薄ぼんやりと、光。ああこれも俺の眼からだ。青白い対の光源。たいそう今の俺は不気味だろうな。
・・・・・先ほど彼女は俺を見ていた。
サイレン。救急車。音に誘われ、色めき立つようにギャラリーがさらに騒がしくなる。
「おい。オマエ、大丈夫か?」
ぐい、と強い力で脱力しきった肩を引かれ、凛はよろめきながら振り返った。
「わっ、ス、スマン大丈夫か?」
「・・・・・いえ」
「本当か?」
目の前に、いかにも不良、というような少年が立っていた。真っ赤な短髪は夕日のせいではないだろう。鋭い目つきをやや和らげて、少年は凛の顔を覗き込む。凛はその視線から逃げるように、前髪で目を隠した。
「体調でも悪いのか?まだそこに医者残ってるぞ。車の運転手の方が頭打ったらしいから」
よくよく見れば、彼は先ほど少女を轢いた運転手を捕まえた少年だ。
それに気付くと、凛は「大丈夫ですから」と、彼から距離を取った。
歩道橋を降り、重い足がふと止まる。
(・・・・馬鹿みたいだ。あそこに居たってあったことは変わらないのに)
どれだけの時間、あそこで呆然としていたのか。明らかに空は暗くなっている。
事故によって起こった鉄の箱の群れと生臭く濃い夜の雰囲気を感じ、本当に気分が悪くなったような気がした。
俺のせいだ。
力は凛の人生を変えた。学校では孤立したし、両親はそんな自分を持て余してる。それはありありと眼に見えてわかった。魔法使いに出会ってからは特にそれは謙虚。
・・・・もう、どうしたらいいかなど出てこない。
(・・・あの子に会いに行こうか)
混乱した頭が叩き出したのは、一番やってはいけないことだった。
何を馬鹿なこと俺は・・・・!
自分を叱咤する。今は駄目だ。今は。絶対に駄目なんだ。まだ帰れない。まだ。ギャラリーは増えてきた。遠くなるサイレンが耳を刺す。まだ駄目だ。会えない。
見つかるわけにはいかない。
じきに警察も来るだろう。そんな時、身元不明の男子中学生がウロウロしていたらどうする?どうなる?
離れなきゃ。
今は忘れるんだ。やらなきゃいけないことは他にあるだろう。やらなきゃいけないんだろう!忘れろ。忘れて、また終わったら思い出せ。今こうしている間にもあの子は。
・・・一時も無駄には出来ないのだ。
やれるのは俺だけだ。『セイレーン』、『人魚』の俺だけだ。
人魚の呪いは人魚にしか解けないのだ。
『逃げんなテメェ自分がナニしたか分かってんのかッ!』あの高校生の怒声。まるで全て見透かして、今こうなっている自分に言われたような―――――。
わかってる。わかってるよ。わかってるから。優先順位だ。俺にはこっちがよほど大事なんだ。比べさせるな、頭が痛くなる。
彼女は可愛い妹。俺の理解者。
・・・俺はもう普通じゃないのは分かってる。全部終わったら少しはあの魔法使いに感謝しようか。
足なんていらない。知りもしない誰かと同じじゃどうせ、妹は守れないんだから。
人魚は歩く足も、綺麗な声も、もちろん優しい王子という人間もいらないのだ。ただ可愛い妹さえ幸せなら。