「・・・・褒められることはしてねえよ・・・・」
携帯が鳴ったのは、画面の左端の時計の長針が、ちょうど十一時を指した時だった。
マナーモードにしたつもりでそのままだったらしい。熱に茹だる頭を振って、酒氏ミヅキはキーを押す。(いま、病院で、すっ、と)
「・・・・ふー・・・」
毎日病院なんてものに通っていたからか。昨日の夕方から出た熱に辟易しながら、ミヅキは羽織ってきた厚めの上着に身を沈めた。
(山崎さんに会って行こうかな)
診察は終わり、あとは帰るのみだが、どうしようか。どうせ施設は同じだ。すでに伝染する時期は過ぎていると言われたし、顔だけでも見に行こうか。
思い立ったら吉日、とばかりにミヅキは立ちあがった。ここ数日で慣れた廊下を行く。歩いているととたんに上着が暑くなったが、荷物が増えると余計だと我慢した。
ミヅキは殿堂入りの短気である。思わず級友の心無い言葉に激怒し、とっさにパーでももちろんチョキでもなく、乾いた粘土の塊のような、グーの拳で殴るくらいの短気である。少女の柔肌にめりこんだ小さな拳は見事にテクニカルヒットを飛ばし、机の群れにボクサーも真っ青にふっ飛ばした。火事場の馬鹿力だ。そこからまさかの掴みあいに発展したのは、当然の結果である。
しかし彼女には、その短所を補う行動力がある。
この時間だと、梓の母はまだ仕事だろう。もしかしたら、父親のほうと初対面、となるかもしれない。ノックをしたが、返事は返ってこなかった。
白い扉は軽く引くだけでスーッと道をあける。すぐに目に入ってきたのは、カーキ色をした男の上着の胸元だった。
「うわっ、すいません!」
飛びのいたのは相手のほうだ。扉を開けようとした格好で固まっていた青年は、慌てて道をあける。(・・・・誰だろう)
見たことない顔だった。温かみのあるクリーム色の壁の中、青年の真っ赤に染めた髪が映える。高校生だろう。なかなか整った顔立ちをしていた。
扉の前を動かず、自分を見てくる女に困惑したように青年は身動ぎする。
「えっと・・・・・オレもう、帰るんで」
「ちょっと待って、どちらさま?」
ここは曲がりなりにも、嫁入り前の淑女が意識不明で横たわる部屋である。病院職員が、そう簡単にも性別♂を入れるとも思えない。
不躾な質問だったが、青年は簡潔に答えた。
「事故の時、その場に居たんだけど、どうなったか気になったから見舞いに」
青年は困ったように頭を掻いて、病室の椅子におざなりに置かれた、見舞い用の小さな花束を指した。
「・・・・・山崎さんを病院に運んだ人?」
「その場に居て近くで見かけただけです。救急車呼んだのは他の人」いかにも不良な外見に反し、思っていたよりもずっと堅実な敬語で彼は話す。
「目の前落ちていったんで、気になって。オレあの時犯人捕まえるのに必死で、なんも出来なかったから・・・・・」
そこで初めて敬語が崩れた。目の前の女が、自分と同世代か、年下程度だと気付いたのだろう。そこでミヅキも思い出しす。(確か・・・・)
「アンタ、事故の時の・・・・」
(なんてこった)失態である。友人の恩人と気付くと、ミヅキは迷いなく熱でふらつく頭を下げた。
「なっ・・・・!」
青年は絶句して顔まで赤くし、うろたえる。
「別にオレ・・・・なんも・・・」
「アンタのおかげだよ。君が止めてくれなかったら、山崎さん居たたまれなかった」
「・・・・・」
「ありがとう」
「・・・・褒められることはしてねえよ・・・・」
不満そうな彼に、ミヅキは一転。眉を寄せた。
「・・・・せっかくの人の気持ちをいらないってどういうことよ。謙遜なんていらないわ。出ちゃった感謝の言葉なんだからさ、男らしく潔く受け取りなさいよ」
感謝を受ける道理はあっても突き返すとはどういうことだ。持ち前の短気が発揮されたストレートな言葉に、さらに青年はぶすくれた顔を晒す。
「はっきりしない男ねえ!もうありがとうって言ってるんだからそれでいいじゃない。アタシのありがとうは、山崎さんの代理のありがとう、なんだから」
「・・・・・・・・」
彼は何か言おうとして、口を閉じた。
「それでいいのよ。黙って受けときなさい」
「なんで偉そうなんだよ・・・・」
「アンタがあんまりにも情けない顔してるからよ」
青年はミヅキから眼をそらし、入り口脇の鏡を見た。そこにはベットと、点滴につながれた梓が見える。それを見ながら、彼は脱力したような深いため息を吐いた。
(・・・・言いきった)ミヅキを妙な達成感と疲労感が襲う。(そうだ・・・・アタシ熱あるんだった・・・・・)
今の今まで忘れていた事実を、吐く熱い息とともにやりすごした。(・・・・アタシも帰ろっかな)
そんな時だった。
カシャン
何かがぶつかる音がして二人は同時にそちらを見る。
「・・・・なんの音・・・」
見れば、点滴がベットの淵にもたれかかり、斜めに傾いでいた。たゆんだ管が、ベットに届くことなく揺れている。
「あっ」足が動いていた。
気付けば白いシーツにくるまれたそこに手をつき、二人揃ってその光景を網膜に焼き付けていた。
幻じゃない。
「山崎さん・・・・・!」
「おい、大丈夫か」
彼女はそろそろとこちらを見た。
「・・・・・酒氏さん?」
「そうだよ・・・っ」
魔法使いが魔法をかけた。