あの声あの目あの姿
・・・・さて、ここでアイ少年が彼女から姿を消せば、ありがちな青春劇である。
「大っきらい!」「ちょっ、待てよ!」「うわーん」
なるほど、青春ドラマである。が、ここは語り部のボクから言わせてもらおう。現実、そう恰好はつかないのだ。
まず逃げたところで、ここは彼の実家である。しかもぶつかった対象は、家族ではなく他人、彼がいなければ、この場所に何の縁も所縁もない人間。頭のいい彼は、階段に足を掛けた時点でその事実に気付き、さらに泣きそうになった。
何が悲しくて、実家から逃げなければならない。そういえばまだ朝ご飯食べてない。ああ情けない。阿呆か自分。なんで彼女は自分なんかに取り憑いてるんだ。病院に帰れチクショウ。
そうして混乱した彼は、失態を犯した。
重なる濡れた落ち葉。石段は滑りやすい。気づけば、ぐるりと一回転、石段から足を踏み外していた。
ボクはそれを上から見ていたわけだが、それはもうどこの吉本新喜劇。
派手に、というわけでもなく、実に地味に滑って転んで腰を打った彼は、一瞬自分に起きたことに理解が追い付かず、眼を丸くして固まっている。見事な池やん十八番ギャグである。
『ぷっ』
「なっ・・・・、」
真っ赤になる顔。だから彼は面白い。転がった竹箒を握りしめ、アイ少年は無言で羞恥に震えたのだった。
「・・・・・」
『・・・・硝子の少年ブレイクンハート』
「・・・・・・・・」
『ぷっ!』
藍は動かない。否、動けない。
(穴があったら入りたい)なるほど。昔の人は的確なことを言う。
上から見下ろす梓にも腹が立つ。類は友を呼ぶ、というが本当だ。今の彼女はあの時の酒氏ミヅキとおんなじだ。そんなに年下の男を苛めて楽しいか。
『くくく・・・・ほら上あがろうか。朝ご飯食べなきゃ、一日は始まらないよー?ほらほら』
梓が手を伸ばしてくる。緩んだ口元をなるべく見ないように、不本意ながらその手を取った。自分の失態に、逆に笑えてくる。
ずるり、と石段の上の手が滑る。ぬめった落ち葉はとても触れるものではない感触だった。
顔をしかめて、ふと、視界に入った手の平に瞠目する。
「・・・・えっ」
『ギャッ!何それ!』
流石の梓も叫んだ。
べっとりと、しかし粉の様にぽろぽろと端から乾いたものが落ちていく。それは明らかな―――
「・・・血?」
「で、こけて手をついたら、階段に血痕があったと」
「はい」
担当の初老の刑事は、小さな眼に半分目蓋をかぶせたまま頭を掻いた。
「・・・・こけた時に頭は打って無いよね?見たところ」
古びた畳の客間。刑事は茶にも手を付ける気配は無く、朝の空気に熱は奪われていくばかりである。頼りなげに僅かに霞を漏らす緑色の液体の入った陶器は、右ヒジの向こうに追いやられていた。
「・・・・腰は打ちましたけど」
「ふうんそう。で、お父さんは最後にここを見たのは?」
「昨日、一度昼に掃除したっきりですね。そのあと夕方から酷い雨でしたし、そのせいで落ち葉がたくさん落ちてしまって。朝から息子に掃除させていたんですよ」
警察に受け答えする藍の父は、困ったように眉を下げるその仕草さえ、貫禄漂う人物だった。
堀の深い顔立ちに、きりりとした眉。栗毛に灰茶の瞳と色彩は甘いのに、まるで任侠映画に海外マフィア役で出てきそうな雰囲気を漂わせている。仕事となること、これで袈裟を纏うのだ。
頭を剃っていないのも、この風貌があるかららしい。なるほど、前髪を下ろすとやや緩和される気がする。
『そうだよねー、これで頭剃っちゃったら、坊主と言うよりスキンヘッドの怖い外人だもんねー』
身長は相手の警官の方が高いにも関わらず、その雰囲気に恐縮して、聴取は現場に遅れて駆けつけたベテランらしい刑事が応対していた。
「昨夜、乱闘などがあったとかは?」
「寝てたので何とも言えませんが、無いと思いますね」
「ご家族は何人家族で?」
「母と嫁、大学生の娘も居ますが、それはもう家を出ているのでいません。あとは、こっちの藍と私とで五人です。
―---藍、お前はもうご飯食べて学校行きなさい」
「そうですね。そちらはもういいですよ」
どうも子供嫌いらしい刑事は、犬を追い払うような仕草で左手を振った。それに藍はむっとした表情を見せたが、父の視線を感じて立ち上がる。
「・・・・失礼しました」
梓は去り際にきちんとそう言う藍に、僅かに感動した。(さすが寺の息子・・・・!)