第14章 ――転移先の星にて
研究棟の奥には、捕獲されたイレゴン帝国の艦が保管されていた。
その構造は、魔導士も技術者も最後まで理解できなかった。
ユキの好奇心がきっかけで、トゥーロとノーランは思いもよらぬ事態に巻き込まれる。
謎の扉を開いた三人は、未知の世界へと転送されてしまった。
そこでは、新たな発見と危険が彼らを待ち受けていた。
研究棟の奥、厳重に隔離された区画に、捕獲されたイレゴン帝国の小型艦が安置されていた。外殻は半透明の金属のようで、表面に走る模様は生き物の血管にも似ていた。淡く青い光が周期的に脈打ち、内部がまだ稼働していることを示している。
技術者や魔導士たちは毎日観測を行っていたが、この時間だけは監視が外れていた。扉の近くに人影はなく、艦は不気味な静寂に包まれている。
ユキはその姿に目を奪われ、落ち着かない様子で口を開いた。
「……ちょっと、中を見てみたい」
「駄目だ」ノーランが即座に声を荒げた。
「危険だ。触れるな」トゥーロも険しい顔をした。
しかしユキは振り向き、悪戯っぽく舌を出した。
「大丈夫、すぐ戻るから!」
そう言って軽快にハッチをくぐり、通路の中へと駆け込んでしまった。
「……まったく」トゥーロはため息をつき、ノーランと視線を交わす。
「放っておけないな」ノーランが短く答え、二人は後を追った。
◇
艦内は静まり返り、外から見た印象以上に複雑で美しかった。
壁は滑らかに光を流し、幾何学的な紋様を形成している。青白い線が呼吸するように点滅し、床は金属質でありながら柔らかく沈む。足音は低く響き、やがて吸い込まれるように消えた。
天井には透明な結晶体が連なり、規則正しい間隔で淡い光を放っている。その光はただの照明ではなく、まるで艦そのものの鼓動の一部のようだった。
「……魔術でもなく、純粋な機械でもない」ノーランが目を細める。
「これほどの構造が空を渡るのか」トゥーロも呟く。
ユキは興奮を隠せず、奥へと進んだ。やがて彼女は一枚の扉の前で立ち止まり、手をかざした。
扉は音もなく開く。
「小部屋……?」
中は灰色の壁に囲まれた狭い空間で、装置も家具もない。ユキは退屈そうに肩をすくめた。
「なんだ、ただの箱。つまんない」
トゥーロとノーランも覗き込む。たしかに、そこには何もなかった。
「もう出るぞ」ノーランが促す。
その瞬間、ユキの手が壁を軽く叩いた。
ぱしん。
乾いた音とともに、扉が閉じる。
床に紋様が浮かび、壁に沿って光の線が走る。空間全体が震え、眩い閃光が三人を包んだ。
「っ……!」トゥーロは咄嗟に結界を張る。
「待て、これは――!」ノーランが叫ぶ。
視界が白に染まり、重力が消えた。
◇
風が頬を撫でる。
三人は、知らぬ大地に立っていた。
空は驚くほど澄み渡っている。雲はなく、昼間であるにもかかわらず星々がはっきりと瞬いていた。銀色の帯が大きく横切り、赤や青の光が点々と散っている。
上空を巨大な蝶が舞っていた。翼は二十メートルを超え、半透明の羽が七色に輝き、地上に虹の模様を落とす。その周囲には光の群れが漂っていた。魚のように形を変えながら空を泳ぎ、尾を引いて消えていく。さらに高く、鳥に似た生物が列を組み、静かに旋回していた。
「……すごい」ユキの声は震えていた。
地面は灰色の砂と薄い苔で覆われ、踏むとわずかに沈むが跡は残らない。
正面には森が広がっていた。幹は滑らかで緑色を帯び、厚い葉は太陽の光を浴びて柔らかく光っている。森全体が淡い輝きを放ち、昼夜の区別が曖昧に思えるほどだ。
「……転送先か」ノーランが呟く。「仕組みがあるなら、必ず受信機が存在する」
「受信機?」ユキが首を傾げる。
「入口があれば出口がある。物や人を運ぶなら着地点が必要だ。つまり、近くに拠点か施設があるはずだ」
「じゃあ探そう!」ユキの目は輝いていた。
だがトゥーロは首を振った。
「その前に……魔力を抑えろ。痕跡を残せばすぐ見つかる」
「……わかった」ユキは両手を胸に当て、魔力の流れを細く絞った。
「了解」ノーランも呼吸を整え、力を沈めた。
三人は森へと踏み込んだ。
◇
森の中は静かだった。
枝の間には透明な翅を持つ小さな生物が飛び交い、光の粉を撒き散らしている。低木には赤や青の果実が実り、甘い香りが漂った。
ユキが思わず手を伸ばす。
「これ、食べられるかな?」
「待て」ノーランが制止し、実をひとつ摘む。匂いを嗅ぎ、少量だけ噛み、しばらく沈黙した後にうなずいた。
「毒はない。赤と青は大丈夫だ」
「やった!」ユキは嬉しそうに実を頬張り、果汁を口元に滴らせた。
トゥーロも一つを口に運び、ほのかな甘味を確かめる。
さらに奥へ進むと、幹から淡い光の液体が滴り落ち、苔に吸い込まれていた。透明な花が群生し、花びらが光を透かして地面に虹色の影を落とす。
「この森そのものが、魔力を蓄えている……」ノーランが呟いた。
◇
歩きながら、三人は受信機の存在について議論した。
「転送には誤差を修正する仕組みが必要だ。だから目印があるはずだ」ノーランは言う。
「目印?」ユキが首を傾げる。
「塔や柱か、あるいは音や光。規則正しいものが必ず存在する」
「なら、探せば見つかるんだね!」ユキが笑う。
「急がずにだ」トゥーロは険しい目で森の奥を見た。
◇
やがて三人の姿は木々の影に消えていった。
その背後――。
高い枝の上から、二つの影がじっと見下ろしていた。
一体は細長い体に六本の脚を持ち、目が淡く光っている。
もう一体は人のような輪郭をしているが、皮膚は銀色で、背に短い翅を生やしていた。
彼らは言葉を交わさず、ただ三人を観察し続けていた。
トゥーロたちはまだ、その視線に気づいていなかった。
トゥーロたち三人は、光を帯びた森を慎重に進んだ。
幹は緑灰色で、表皮に細い筋が規則正しく走っている。指で触れると微かに温かく、脈動に似た震えが返ってきた。葉は厚く、縁が白く発光しており、風が当たるたびに明滅した。足元には低い苔が密生し、踏むと沈むが、形はすぐ元に戻る。
「重力が少し軽い。歩幅を合わせろ」ノーランが低く言う。
「うん。呼吸は楽だけど、油断しないで」ユキは周囲に視線を走らせた。
頭上を、透明な翅を持つ小動物が横切った。体長は手のひらほどで、翅脈が規則的に光り、音もなく滑るように進む。木の節からは淡い黄緑の汁が垂れ、苔に吸い込まれていた。木陰では、石のように固い殻を持つ甲殻生物が列を組み、枝から枝へ移動している。接触の音は小さく、一定の間隔で続く。
「生態系は安定している。騒音が少ない」ノーランが耳を澄ます。
「匂いも強くない。魔力の流れは……均一」トゥーロは掌を下げ、漏れ出る気配を抑えた。
森の奥で一度だけ、低い唸りが響いた。三人は反射的に身構えたが、影はすぐ遠ざかった。獣の足跡は楕円形で、間隔は広い。爪痕は鋭いが、地面の抉れは浅く、体重は極端に重くはないと分かる。
「通り過ぎただけだ。無理に追わない」トゥーロが判断し、進行方向を戻した。
やがて地面の傾斜が緩み、木々の密度が下がった。木立の向こうが明るく、風の通りが変わる。三人は歩調を合わせ、最後の低木を抜けた。
◇
視界が開けた。
前方には広い草原があり、灰緑の草が地平まで続く。ところどころに円柱状の岩が立ち、表面に線刻が走る。遠くには白い山脈。山裾には幾つもの塔。塔の頭頂部は楕円形で、側面の溝から白い光が一定周期で流れ落ちていた。塔の間には低い建造物が複数並び、通路らしき明るい帯が張り巡らされている。
「あれは……街だな」トゥーロが目を細める。
「塔の点滅は信号。間隔が一定。受信施設かもしれない」ノーランが数を数える。「長短の組み合わせ……座標を示す符号に見える」
「行って確かめよっか」ユキは明るく言ったが、すぐに表情を引き締めた。「でも、魔力は抑えて」
「徹底しよう」トゥーロは頷いた。
三人は草原へ下りた。草の葉は平たく、踏むと弾力を感じる。草間には小さな球体の植物があり、触れると薄い膜が割れ、透明な種子が跳ねた。跳躍は二度三度と続き、やがて動きを止める。種子の中心には微かな光点。
小さな丘を越えると、幅の広い浅い川に突き当たった。水は透明で、底の砂が整っている。流速は緩い。魚に似た生物が時おり姿を見せ、腹面の吸盤で石に張り付いた。
「渡れる」トゥーロは水深を確かめ、腰まで濡れない道筋を選んだ。
「足を取られるな」ノーランが言い、ユキは頷いて靴を結び直す。
対岸で靴底を乾かしていると、遠くの空に銀色の帯が一本走った。雲ではない。極めて薄い層が揺らぎ、帯の端から小さな光点が落ちた。地面に吸い込まれるように消える。
「電磁層に似た現象かも。気温は安定、風向きは一定」ノーランは手製の小型羅針を見て、磁針のぶれを確認する。
「街はあっち。日が傾く前に着きたいね」ユキが指差した。
◇
同じ頃、研究棟の隔離区画では警鐘が鳴り終え、報告が重なっていた。
扉の制御板には、転送履歴の痕跡。発動時刻、内部圧の変化、床面の紋様の反応。記録は連続し、途中の欠損はない。
「三人は装置の中心部に立ち、同時に転送されています」技術員が読み上げる。
「座標解析は」学院長が問う。
「外部参照から割り出しました。移送先は――《レトン=アル10》。あちら側に受信機が稼働している形跡があります」
捕虜の工学士が前に出た。肌は灰白で、額の刻印が薄く光る。
「レトン=アル10は、星間航路の外縁にある平衡域だ。大規模な勢力は常駐していない。アルガンタの影響も薄い。航行事故や緊急避難で座標が使われることがある。たぶん、受信柱に拾われた」
「戻すには」学院長の声は硬い。
「送受双方の位相合わせが必要だ。こちらの船はエネルギーを失っている。蓄積と修復で一年、最短でだ。安全率を見れば、二年を覚悟した方がいい」
「一年から二年……」学院長は目を閉じ、短く息を吐いた。「受け入れがたいが、虚勢は役に立たないな」
リイナが一歩進む。
「必要な資材と人員、すぐ動かせます。ドワーフの鍛冶師たち、エルフの工匠、学院の術式班をまとめます」
「頼む」学院長は頷き、捕虜の工学士を睨んだ。「逃げ道はない。すべての知識を吐き出せ。監視は増やす」
「従う。設計図も理論もある。……時間は要るが、できる」工学士は即答した。
リイナはカイン、メイラ、リナを呼び、現状を説明した。
カインは歯を食いしばり、拳を握る。「訓練を続ける。戻ってきたときに、守れるように」
メイラは静かに頷いた。「補給線を整える。鍛冶に連絡する」
リナは胸の前で手を組み、瞳を伏せる。「……無事でいて。トゥーロ、ノーラン、ユキ……」
学院長は最後に一句を添えた。
「連絡手段の模索も並行する。痕跡が拾えるなら、向こうからの信号を受けられるかもしれん」
◇
草原の匂いが濃くなった頃、三人は最初の標識に近づいた。
地面から生えた黒い柱。人の背丈ほどで、上端に丸い器具。器具の縁が薄く光り、低い音が間隔を空けて鳴る。音は心臓の鼓動のように定期的だ。柱の根元には、古い足跡。丸く広い踏み跡がいくつも重なり、柱の周囲だけ土が硬い。
「受信柱だろう。等間隔で並べて、来訪者を街へ導く」ノーランが言う。
「誰かの通り道……ってことだね」ユキがうなずく。
「ここで待つより、街へ。情報が欲しい」トゥーロが結論を出す。
さらに進むと、草原に点在する岩柱の表面に刻印が増えた。刻みは浅く、線は交わらず、同じ間隔で並ぶ。数えると、刻みの数は塔の点滅と一致した。座標の符号だ。
丘をもう一つ越えたところで、茂みが揺れた。
最初に姿を現したのは、人型に近い生物。長身で、緑の皮膚に筋肉の隆起。頭部は細長く、複眼は淡い青。手指は四本で、節は太い。背は僅かに反っている。
次いで茂みから出たのは、四足の獣。犬に似た輪郭だが、頭は長く、眼は三対。肩の筋肉は盛り上がり、皮膚は滑らかで艶がある。尾は短く、先が丸い。
トゥーロとノーランは即座に構えを取った。
人型の方は両手を大きく上げ、掌を見せた。ゆっくりと膝を折り、視線を下げる。攻撃の意思がないことを、はっきり示す。
「……いまの動き、敵対の信号じゃない」ノーランが呟く。
「悪意は感じない。大丈夫」ユキは短く言い、前へ出た。
相手が口を開く。発音は喉の奥で鳴る音が多く、単語間に短い休止が挟まれる。意味は取れない。
ユキは目を閉じ、思考を集中させた。精神の糸を細く伸ばし、相手の表層意識を叩く。自分の言葉を、相手の言語枠に合わせて投げる。
『聞こえますか。私たちは旅の者。敵意はありません』
人型の生物は驚き、そして表情を和らげた。頬の筋の並びが緩み、目が細くなる。
『……繋がった。よかった。私はアル=デン。こっちは相棒のリキ』
ユキはトゥーロたちに通訳した。
「名前はアル=デン。獣はリキ。敵じゃないって」
アル=デンは胸の前で両手を合わせ、額に当て、軽く礼をした。
『街へ案内する。ここから遠くない。今日は祭りだ。皆、機嫌がいい』
「助かる」トゥーロは構えを解き、わずかに頭を下げた。
「ありがと」ユキが微笑む。
「用心は続ける」ノーランは一歩後ろに位置どり、周囲の動きに注意を向けた。
リキは鼻先を上げ、三人の匂いを確認すると、尻尾の根を揺らした。敵意は示さない。横に並び、アル=デンの足並みに合わせた。
◇
アル=デンは歩きながら、短い歌を口ずさんだ。節は単純で、言葉は生活の道具や季節の食べ物の名が多い。時々、意味の分からないステップを踏み、手を広げて空を仰ぐ。ユキは何度も笑い、トゥーロも口元を緩めた。
『君たちの出身は? この辺では見ない顔だ』
『別の星。偶然、ここに来てしまった』ユキが簡潔に答える。
『なるほど。ここはレトン=アル10。中継の港だ。住む者は多いが、支配の旗は少ない。居心地は悪くない』
「アルガンタの名は出てこないな」ノーランが小声で言う。
「今はそれが一番いい」トゥーロは前を見据えた。
丘を下りると、街の輪郭がはっきりした。
外周は壁ではなく、低い段丘が重なっている。段丘の縁には丸い灯具。灯具は昼でも点き、通路の方向を示した。
入口には三本の柱が立ち、中央の柱の内側で透明な幕が揺らめく。幕を通る者は一瞬だけ薄い光に包まれ、異物の有無を調べられる。
『登録が必要だ。旅の腕輪を付ければ動ける』アル=デンが説明する。
柱の前には受付台。台の上には薄い板が数枚。板を手首に巻くと、自動で締まる。材質は硬すぎず、皮膚に当たる面は温かい。
『外からの来訪者、三名。危険物なし。仮登録を発行する』
受付の担当者は人に似た姿で、額に白い三角の模様。声は落ち着いている。
腕輪の縁が短く光り、淡い音が鳴った。
「奇麗にまとまってる」ユキが感心する。
「規模の割に秩序がある。警備の視線も一定だ」ノーランは視線を巡らせ、屋根の縁の器具を数えた。
『腹は減っていないか。祭りの屋台が出ている。まずは食べよう』
アル=デンに導かれ、三人は広場に入った。
◇
広場は多様な種族で賑わっていた。
露店の台には、薄い皮で包んだ焼き物、透き通る果実、香辛料の粉をまぶした串。飲み物は二層に分かれ、攪拌すると色が混ざって温度が下がる。
ユキは小さな器に入った白い粒を口に含み、目を丸くした。「甘い。米に似てる」
「糖分が高い。疲労に効く」ノーランは一口で止め、周囲の音の層を聞き分け続ける。
トゥーロは薄い肉を炙った串を選んだ。肉は柔らかく、香りは軽い。咀嚼すると、繊維が均等にほどけ、塩の結晶が小さく弾ける。
『友だちを紹介するよ』
アル=デンが手を振ると、三人の人物が近づいた。
一人は丸い耳を持つ女性で、皮膚は薄紫。名はルサ。
もう一人は背が低く、両肩に硬い板のような突起。名はグリン。
三人目は細身の男性で、額に小さな角が二本。名はハド。
彼らは順番に腕を胸の前で交差させ、軽く頭を下げる。挨拶の型らしい。
『遠くから来たの?』『装備は整ってるね』『宿は決めた?』
ユキは端的に答え、トゥーロは警戒心を隠さずに短く礼を返した。ノーランは相手の視線と口元の動きを観察し、敵意や好奇心の強度を測る。
結論として、敵意はない。警戒は常識の範囲だ。
『今夜は公演がある。「夜の蝶」だ。人気がある。よかったら一緒に』
ハドがそう言い、光る棒を三本差し出した。
棒は軽く、内部に薄い液体が揺れる。端を軽くひねると光が走り、色が青から緑、紫へと変化する。
「ありがとう」ユキは棒を握り、笑顔を見せた。
「扱いは簡単だ。周囲にぶつけるな」ノーランが念押しする。
「分かってる」ユキは肩をすくめ、棒を胸元で揺らした。
◇
夕刻、広場の中央に舞台が立ち上がった。
床は半透明で、下から均一の光。背面には縦長の板が並び、音に合わせて模様が変わる。
音楽が始まると同時に、観客の光の棒が一斉に揺れた。色の波が広場を横切り、声が重なる。
舞台に姿を現したのは、背に翼を持つ女性たち。翼は蝶に似て、羽脈が細かく走る。衣装は動きを妨げず、縁が光を反射する。
歌は明るく、間奏は短い。言葉は日常の小さな出来事、旅立ちと帰還、季節の変わり目。振付は直線的で、手の軌道が揃う。
ユキは棒を振り、リズムに合わせて足を動かした。
トゥーロも肩の力を抜き、控えめに動く。
ノーランは周囲の配置を頭に入れたうえで、視線を緩めた。久しぶりに、戦場ではない音の密度。
「……悪くない」ノーランが小さく言う。
「うん。今はこれでいい」トゥーロの声も柔らかい。
「楽しい。ちゃんとご飯を食べて、寝て、明日考えよう」ユキが笑った。
◇
公演の終盤、舞台の背後に街の案内が映った。
受信柱の位置、緊急避難所、宿泊区画、医療所。
アル=デンが指で示す。
『明日、受信塔を見に行こう。転送の入口と出口は対だ。君たちが来た道を測れば、戻る道の計算に役立つ』
「助かる」トゥーロが頷く。
「受信塔の管理者に話が通るかな」ユキが問う。
『大丈夫。友だちがいる』アル=デンは胸を叩き、笑った。
広場の脇で簡素な夕食を取り、三人は宿へ向かった。
宿の入口には薄い幕が張られており、入ると体表の微粒子が落ちる。受付で腕輪を見せると、部屋の鍵に相当する板を渡された。板の端を部屋の枠に触れると、施錠が解ける。
部屋は二間続き。床は柔らかい繊維で覆われ、寝台は低い。照明は壁の溝に沿って流れ、明るさは手元の板で調整できる。
窓を開けると、夜空に細い白帯が横切っていた。星は多く、明滅は遅い。
「順調に見えるけど、明日以降が本番だ」ノーランが言う。
「焦らない。戻る道を自分たちでも探る」トゥーロは短剣を解き、手入れを始めた。
「言葉の橋は私がやる。向こうの概念に合わせて伝えるから」ユキは手帳を開き、今日出会った単語を並べた。発音の特徴と、相手の表情の変化を横に記す。
三人は短く会話を交わし、交代で休んだ。
夜半、窓の外を小型の飛行器具が横切った。胴体は短く、翼はない。淡い光を点滅させ、一定間隔で旋回する。監視の巡回だ。速度は遅く、注意の対象は広場側。三人の部屋には近づかない。
◇
翌朝、街は早くから動いていた。
露店は朝用の食事に切り替わり、温かい汁物と穀物の粥、干した果実が並ぶ。
アル=デンとリキが宿の前で待っていた。
『おはよう。今日は受信塔、その次に工区を回ろう。君たちの装備を整えた方がいい』
「助かる。必要なものの優先度は、通信、地図、通行の証明。それから……食料」ノーランが指を折る。
『地図は塔で手に入る。通行証は昨日の腕輪の拡張だ』アル=デンが頷く。
道中、アル=デンは街の仕組みを説明した。
街の中心は受信塔群。周囲に生活区、工区、市場。防衛は巡回と自動器具。争いは少ないが、来訪者には一定の監視がかかる。税は軽く、代わりに設備の保全に当番が割り当てられる。
『ここは中継の港。長く滞在する者もいれば、数日で出る者もいる。君たちが帰路を探す間、居場所はある』
「ありがたい」トゥーロは素直に礼を言った。
「ユキ、昨日の言語ノートを見せて」ノーランが歩きながらページを繰る。接続詞、否定、時制の標識を確認する。
「うん。名詞の性がないのは助かる。語順は柔軟」ユキは新しい単語を追加した。
◇
受信塔の基底部は円形で、周囲に六本の柱。柱の先端は薄い皿状で、中央の塔に向かって角度が付けられている。中央塔は他より高く、上部に環が三つ。環はゆっくり回転し、光が間を通り抜ける。
塔の内側では、半円の板に記号が並ぶ。来訪者の記録と、送受の履歴。
管理者は背の高い女性で、背中に薄い膜を持つ。彼女はアル=デンを見ると表情を緩め、三人を上から下まで観察した。
『遠い座標から来た反応があった。記録に残っている。昨夜の時刻だ』
管理者は板を操作し、光の軌跡を表示した。
塔の側面に淡い筋が走り、三人が通過した空間の揺れが線で示される。揺れは短く、誤差は少ない。
『戻す道筋を計算するには、こちらの位相とあちらの位相、両方の安定が要る。こちら側は調整できる。向こう側が合わせてくれれば、初めて橋が架かる』
「向こうは準備中だ」トゥーロが言う。「時間はかかる。こちらでも、できる限り整える」
『理解した。仮橋を使う手もあるが、成功率は低い。無理は薦めない』
「急がない。情報を積む」ノーランは塔の脚の角度、環の回転の周期、記録の単位を頭に叩き込んだ。
管理者は三人の腕輪に新しい記録を付与した。受信塔への出入り権限、計測器の貸し出し、緊急時の避難経路。
ユキは礼を述べ、簡単な贈り物として携帯用の糸を渡した。糸は丈夫で、冷水に強い。管理者は目を細め、感謝の印として小さな印板を返した。印板は街の複数施設で身分の補助になる。
◇
塔を出ると、アル=デンが肩を回した。
『次は工区だ。君たちの装備を調整する。ここでは刃の角度や材質を少し変えた方がいい』
工区は金属の匂いと熱気が混ざっていた。
鍛造台は低く、上から圧を加える器具が吊られている。火は一定温度で、色と音で管理される。
トゥーロは短剣の刃先を微調整し、柄に薄い滑り止めを巻いた。重心は変えず、握りだけわずかに厚くする。
ノーランは視認用の小型鏡を手に入れ、角度を自在に変えられるように関節を追加した。
ユキは通信補助の薄板を受け取った。板は思念の出力を整え、相手の反応を安定化させる。
『代金は?』トゥーロが尋ねると、アル=デンは笑った。
『初回は紹介の割引。残りは君たちの世界の金属片でいい。後で換算する』
ノーランは懐から小さな銀片を取り出し、重さと硬さを示した。工区の職人は興味深そうに頷く。
◇
昼を過ぎ、三人は短い休憩を取った。
市場の片隅で、薄い生地に野菜を包んだ料理を食べる。味付けは穏やかで、香草が強すぎない。飲み物は白と薄青の二層。混ぜると温度が下がる仕組みは単純で、器の外側に冷気が広がる。
「今日は大きな動きはここまでにしよう」ノーランが言う。
「同意。明日は外縁の受信柱の列を辿って、野営に適した場所を調べる」トゥーロが計画を固める。
「夜はまた公演があるよ。昨日の『夜の蝶』は別の曲をやるんだって」ユキが案内板を見て微笑む。
『うん。今夜はゆっくり楽しめ。ここでは、休むことも仕事だ』アル=デンは肩をすくめ、リキの頭を撫でた。
リキは喉を鳴らし、ユキの足元に頭を寄せた。ユキは笑って耳の付け根を撫でる。リキは目を細め、体を低くした。圧は強くない。信頼の合図だ。
◇
夕刻、広場は再び人で満ちた。
今夜の「夜の蝶」は、新曲を用意していた。
イントロは短く、歌い出しは静か。観客の光の棒は、一拍遅れて揺れる。
歌詞は「見知らぬ道」「最初の標識」「帰る灯」。具体的な単語が並び、抽象に流れない。合いの手は短い声で、拍の裏に入る。
ユキは棒を小さく回し、トゥーロは一定のリズムで上下させる。ノーランは人の流れの中に自然に立ち、肩が触れない位置を維持した。
最後の曲で、舞台の後幕に夜の街の地図が映り、光が筋となって伸びた。受信塔から広場へ、広場から外縁へ。道筋は明確で、迷いにくい。
終演後、観客は静かに散った。廃棄物は所定の箱に入れられ、音は早く弱まる。
「整理が早い」ノーランが感心する。
「慣れている動きだね」ユキが頷く。
「秩序が強い。だからこそ、こちらも秩序を守る」トゥーロは短く言った。
◇
同じ頃、王国の工区では灯りが落ちる気配がなかった。
鍛冶場には火がともり、エルフの工匠は枠組みを編む。ドワーフは継手を作り、学院の術式班は符号を刻む。
工学士は図板の上で、受信機構の位相図を引き直した。
「エネルギーの貯蔵槽は三層にする。安全弁を増やす。術式は重ねるより分散。長期運用を前提に」
リイナは進捗の欄に印を付け、休憩を促した。
「倒れては進まない。食べて、寝る。起きて、また進める」
リナは祈りを終え、指先の震えを止めた。
「信じるしかない。でも、何かできることがあるなら、全部やる」
カインは訓練場で剣を振り続けた。数を決め、呼吸を揃え、汗を拭わずにもう一度。
メイラは供給表を見直し、余剰の金属と魔石を回した。時間はかかる。だが、止まらない。
◇
三人は宿へ戻る途中、広場の脇で小さな市民劇を見た。
内容は、他所から来た旅人が受信柱の導きで街に辿り着く話。劇の中で、旅人は規則を学び、助け合い、最後に次の旅へ出る。言葉は短く、動きは分かりやすい。子どもたちが前列で真似をする。
「ここでは、『来る者』が日常の一部なんだ」ユキが呟く。
「受け入れと送り出しが、仕組みになっている」ノーランが応じる。
「なら、こちらも仕組みに乗る。焦らず、崩さず」トゥーロは空を見上げ、白い帯の位置を記憶した。
宿の部屋に戻り、三人は手短に打ち合わせた。
明日は外縁の受信柱列の確認、沿道の安全地帯の把握、簡易倉庫の位置の記録。
ユキは言語ノートを整理し、アル=デンの言い回しを複数例で書き留める。
ノーランは器具を点検し、鏡の関節の固さを調整。
トゥーロは刃の刃こぼれを磨き、握りの巻きの端を整える。
窓の外を、監視の飛行器具がまた一つ横切った。速度は一定。灯りは弱い。
この街の夜は静かで、規則が守られている。
◇
翌朝、アル=デンはいつもより落ち着いた足取りで現れた。
『外縁の柱列、北側の区画は工事中だ。西側は通れる。途中に小さな集落がある。友だちがいる。情報を聞ける』
道を歩きながら、アル=デンは自身の話を少しだけした。
この街に来て三年。最初は運び屋。今は案内役。リキは捨てられていた子を引き取った。
ユキは相槌を打ち、短い質問を挟む。
『君はよく笑う。怖さはないのか』
『あるよ。でも、笑わないと固まっちゃうから』
アル=デンは一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。
集落は段丘に沿って並び、小さな受信柱を中心に家が配置されている。家の壁は柔らかく、手で押すとわずかに沈む。断熱と防音を兼ねているらしい。
集落の長は白髪の短い髪を持ち、背は低い。
『旅の腕輪なら滞在に問題はない。道を使うなら、記録を残していけ』
長は記録板を差し出し、三人は行程と目的を簡潔に記入した。記入欄は項目が少なく、無駄がない。
「戻り道を確実に残す。ここでも同じだな」ノーランが小声で言う。
「痕跡は最小で十分。必要な場所にだけ置く」トゥーロが頷く。
「言葉は私が橋渡しする。誤解を防ぐために、曖昧な表現は避けるね」ユキは自分に言い聞かせるように言った。
◇
昼過ぎ、三人は市へ戻り、短い打合せをアル=デンとした。
その流れで、彼の仲間たちとも再会した。
ルサは市場の帳場を手伝い、グリンは工具の貸出を管理し、ハドは舞台の設営に関わっている。皆、それぞれの場所で動いている。
『今夜は仕事。会えないけど、明日の朝にまた』ハドが手を振る。
『何か困ったら、灯具のある角で待っていれば誰か来る。ここでは、立ち止まる場所が決まってる』グリンが指さした。
『君たちがここにいる間、うちの居室の空きも使っていいよ』ルサが控えめに言う。
「ありがとう。必要になったら頼む」トゥーロは丁寧に礼を述べた。
◇
同じ頃、王国側では、第一段の蓄積器が形を取り始めていた。
透明な殻の内側に、細い格子が幾重にも組まれる。格子の交点に小さな符号が刻まれ、符号は等間隔で繰り返される。
工学士は格子の角度を一度だけ修正し、うなずいた。
「これで歪みが減る。時間は短縮できないが、失敗の確率は下がる」
学院長は短く頷き、書記に記録を付けさせた。
「報せは遅らせない。小さな前進でも重ねる」
リイナは訓練場の端で、若い生徒に指示を出す。
「基礎の結界、持続。切らないで。切るなら意図して切る。無意識に切らない」
リナは祭壇の灯を一つ増やし、祈りの言葉を短くして回数を増やした。
カインは剣の手入れを終え、次の型に移る。
メイラは補給の配分を見直し、鍛冶の工程の順序を変えた。
◇
夜、三人は短く外を歩いた。
広場の端で、子どもたちが光の棒を回す練習をしている。回す方向と速度が決まっており、上手くいくと棒の軌跡が輪になって残る。
ユキは一緒に回し、子どもが笑う。トゥーロはその輪の形が崩れないように距離を取る。ノーランは大人たちの視線の動きを見て、警戒が緩んでいる時間帯を把握する。
「ここは安全だ。だが、他所者はいつも見られている」ノーランが結論を述べる。
「それは当然。こちらも、自分たちを見失わない」トゥーロが答える。
「明日、受信柱の西側を全部見て回ろう。塔へ戻る道も二つ作る」ユキが言い、二人は頷いた。
空を横切る白帯は、昨夜より位置がわずかに低い。風の向きが変わっている。
街の灯は一定で、消灯の合図が鳴ると同時に弱まった。
◇
三日目の朝、アル=デンは短く手を振った。
『今日は予定通り、西の外縁。戻ったら、友だちを紹介する。彼は星の道に詳しい。君たちに必要な話ができる』
「助かる」トゥーロが言う。
「まずは見て、聞いて、記録する」ノーランが続ける。
「私が繋ぐ。言葉は届く。だから、焦らない」ユキは深く息を吸った。
三人は街路の薄い光を踏み、受信柱の列へ向かった。
道は明確で、標識は一定。
レトン=アル10は静かだ。だが、静けさは停滞ではない。動きはある。誰もが自分の役割を持ち、決められた位置で動く。
彼らもまた、自分たちの位置を見つけようとしていた。
戻るために、進むために。
(つづく)




