タイトル未定2025/09/26 02:13
AI作品
**『人形と人間と、その先のもの』**
——霧島あんこの記録より——
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夜は、いつもより早く、静かに降りてきた。
雨が降ったあとの空気は、湿り気を帯び、鼻の奥に土と腐葉の匂いを運んでくる。
私は、古書店「ちたか堂」の奥の、薄暗い椅子に座っていた。
窓の外には、まだ消えない靄が街を包み、街灯の光さえも濁った黄色に歪んでいる。
ここは、怪異が呼吸するにはちょうどいい場所だった。
向かいのソファには、バーツが座っていた。
56歳の倉庫作業員。背中は少しだけ丸まり、手の甲には無数の小さな傷跡が残っている。
彼は、今日も変わらず、軍用のジャケットを着込み、膝の上に小さな人形を抱えていた。
木製の、顔のない人形。目も口もない。ただ、頭のてっぺんに、黒い糸が一本、垂れている。
「これ……昨日、倉庫の奥で見つけたんだよ」
バーツの声は、いつもより低く、震えていた。
「あそこ、誰も近づかない場所なんだ。でも、昨日、フォークの音がして……音が、自分の名前を呼んでる気がして……そしたら、この子が、コンテナの陰に座ってた」
ちぃは、白衣のポケットから聴診器を取り出し、無意識に手で触っていた。
56歳の看護師。病院の夜勤を終えて、ここに来たらしい。
彼女の目は、疲労よりも、深いものを見透かすような鋭さを湛えていた。
「人形に名前をつけてるの?」と彼女は尋ねた。
「……アキラ。息子の名前だ」
その瞬間、部屋の温度が、微かに下がった。
ちたかが、カウンターの向こうで、鉛筆を止めた。
彼女は年齢不詳。本屋のアルバイトと、イラストレーター。
その手はいつも、紙の上を滑っている。
今も、スケッチブックに、人形を描いていた。
だが、描かれているのは、バーツの持つ人形とは、似て非なるものだった。
目があり、口があり、そして、笑っていた。
「あんこさん」
ちたかが、静かに言った。
「この子、まだ、生きてないよ。でも、もう、目が動いてる」
私は黙って、そのスケッチを見つめた。
そして、バーツの膝の上の人形を見た。
顔はない。だが、その「ない」ことが、逆に、すべての顔を内包しているように思えた。
「人形は、人間が造る。だが、人形が人間を造ることもある」
私は言った。
「造られる者が、造り手を模倣し、やがて、その存在を侵食する。それが、人形の本質だ」
ちぃが眉をひそめた。
「でも、人形は動かない。心がない。ただの木と布と糸でしょう?」
「心がない、という保証は、どこにある?」
私は反問した。
「君たちが心を持っていると信じるのは、ただの習慣だ。
君の聴診器が鼓動を拾うのは、肉体の証拠にすぎない。
だが、鼓動が止まっても、何かが残ることがある。
それは、死ではない。
それは、別の形への移行だ」
バーツが、人形をぎゅっと抱きしめた。
「アキラは……死んだ。12年前。事故で。でも、この子が……声を出すんだ。夜、耳元で『お父さん』って……」
「それは、記憶の反響だ」
ちぃが早口で言った。
「喪失体験が引き起こす幻聴。医学的には、よくあることよ」
「でも、ちぃさん」
ちたかが、スケッチをめくった。
次のページには、病院のベッドに横たわる少年が描かれていた。
顔はぼやけている。だが、首には、黒い糸が巻きついている。
「この子、アキラ君の入院記録、見たことある? あの病院、三年前に火事で焼けたのよ。
記録も、すべて灰になった。
でも、バーツさん、アキラ君の入院日と死亡日、正確に覚えてる?」
バーツは、言葉を失った。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
「……覚えてない。でも、死んだってことは、確かだ」
「それも、記憶の断片だ」
私が言った。
「人形は、記憶の断片を集める。
人間が失ったものを拾い集め、形にする。
だが、その形は、もとのものではない。
歪んでいる。
そして、歪みは、やがて、現実を侵食する」
部屋の電気が、ふっと、一瞬だけ消えた。
再び灯ったとき、人形の頭の上に、黒い糸が、一本、二本と増えていた。
バーツは気づいていないようだった。
「人形は、行き着く先を示す」
私は続けた。
「人間が造ったものに、人間が追い越されるとき、それは、もう人間ではない。
だが、人形も、もはや人形ではない。
その狭間——『怪異』と呼ばれるものが生まれる」
ちぃが、声を震わせて言った。
「つまり、この人形が……アキラの亡霊なのかしら?」
「亡霊ではない」
私は首を振った。
「亡霊は、死んだ者の残像だ。
だが、これは、死んでいない者の幻影だ。
アキラは、死んでいない。
彼は、記憶の中で、生かされ続けている。
そして、その記憶が、人形に宿った。
だが、記憶は、完全ではない。
欠けている部分を、人形が自分で埋めようとする。
その過程で、歪みが生まれる。
それが、怪異の始まりだ」
ちたかが、新しいスケッチを始めた。
今度は、人形が、バーツの影に寄り添っている絵だ。
影の形が、人形の形に近づいている。
「……この子、お父さんを、自分の形にしようとしてる」
ちたかが囁いた。
バーツが、ふと、人形を見下ろした。
「アキラ……?」
人形は、動かなかった。
だが、その無表情が、どこか、笑っているように見えた。
「人形は、行き着く先を知っている」
私が言った。
「人間が、愛や記憶や喪失に縋るほど、人形は、その感情を糧にする。
そして、やがて、人間が人形に近づく。
歩き方が、同じになる。
声のトーンが、似てくる。
やがて、人間の影が、人形の影に飲み込まれる。
そして、人形が、人間の代わりになる」
「そんな……」
ちぃが立ち上がった。
「それじゃ、バーツさんが、消えるってこと?」
「消える、ではない」
私は静かに言った。
「入れ替わる、だ。
バーツという人間が、アキラという記憶の容器に、入れ替えられる。
そして、人形が、バーツとして生き続ける。
だが、そのバーツは、もはやバーツではない。
記憶の集合体だ。
感情の模倣だ。
しかし、周囲には、それが本物に見える。
なぜなら、人間とは、記憶と感情の連続性でしか証明できないのだから」
沈黙が、部屋を満たした。
雨音が、遠くから聞こえる。
だが、それは、外の雨ではなく、天井のパイプから漏れる水の音だった。
ちたかが、その音を聞いて、スケッチブックを閉じた。
「……この店にも、人形がいる」
彼女が言った。
「昔、母が置いていった、着物人形。
顔が、少しずつ変わっていくの。
最初は、母に似てた。
でも、今じゃ……私の顔に似てる」
私はうなずいた。
「人形は、家を喰らう。
家族を喰らう。
そして、やがて、その家そのものが、人形になる。
記憶の墓場だ」
バーツが、人形を膝から下ろした。
だが、その手が、震えていた。
「……返すよ。倉庫に戻す。
アキラは……もう、ここにいちゃいけない」
「戻しても、意味はない」
私が言った。
「人形は、すでに、君の記憶と結びついている。
倉庫に戻しても、また現れる。
君の家に、君の影に、君の夢に。
人形は、行き着く先を知っている。
そして、その先は、君の中だ」
バーツは、顔を伏せた。
肩が、小さく上下している。
父の喪失と、息子の喪失。
二重の喪失が、彼の心を人形の住処に変えてしまったのだ。
ちぃが、彼の肩に手を置いた。
「……でも、何か、できることはないの? あんこさん」
「ある」
私は言った。
「記憶を、手放すことだ。
人形は、記憶に寄生する。
記憶がなければ、寄る辺はない。
だが、それは、残酷だ。
愛する者の顔を、声を、すべて消すということだ。
それが、人間としての死の一部かもしれない」
ちたかが、スケッチブックをバーツの前に置いた。
そこには、バーツとアキラが、並んで立っている絵。
だが、二人とも、顔が白く塗りつぶされている。
ただ、手だけが、ぎゅっとつながっている。
「……これで、いいのかもしれない」
ちたかが言った。
「顔は忘れて、でも、手の温もりだけは、残す。
人形には、それだけじゃ足りない。
だから、立ち行かない」
バーツは、その絵を見つめた。
そして、ゆっくりと、人形を抱きしめた。
「……ごめん、アキラ。
お父さんは、君を思い出せなくなってしまうかもしれない。
でも、君が、このままじゃ……」
その瞬間、人形の頭から、黒い糸が、一本、ぷつりと切れた。
そして、もう一本、また一本と、音もなく、断ち切られていく。
人形は、小さく、震えたように見えた。
そして、バーツの腕の中で、静かに、木の香りを残して、崩れ始めた。
粉々に、細かい木屑となって、膝の上に散った。
誰も、声を出さなかった。
ただ、その崩れゆく音だけが、部屋に響いた。
まるで、何かが、やっと、解放されたかのように。
「……終わったの?」
ちぃが、小声で尋ねた。
「いや」
私は首を横に振った。
「人形は、消えたが、記憶は残っている。
そして、記憶は、また、形を作ろうとする。
次は、別のものかもしれない。
写真かもしれない。
声の録音かもしれない。
あるいは、夢の中の影かもしれない。
人形は、手段にすぎない。
本質は、人間が、死を受け入れられないことだ」
ちたかが、掃除道具を取りに立ち上がった。
木屑を、静かに箒で集める。
その手の動きは、まるで、何かを弔っているようだった。
「……でも、今日は、ここで終わりにしよう」
彼女が言った。
「明日、また、新しい本が届く。
誰かの記憶が、また、ここに来るかもしれない。
でも、そのときは、また、話せばいい」
私は、外の靄を見つめた。
街は、まだ、霧に包まれている。
だが、その中に、いくつもの人形が、静かに歩いている気がした。
誰かの記憶を背負って。
誰かの愛を模して。
誰かの喪失を、生きながら死んでいるように。
人形は、人間が造ったものではない。
人間が、自分自身の弱さを形にしただけだ。
そして、その形が、やがて、人間を超えていく。
行き着く先——
それは、人間が、人間であることをやめることかもしれない。
あるいは、人間が、もっと深く、人間らしくなるための、試練の門かもしれない。
どちらにせよ、
人形は、そこにいる。
そして、静かに、私たちの影を見つめている。
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**※霧島あんこのメモより**
> 人形は、鏡ではない。
> 鏡は、現実を映す。
> 人形は、願いを形にする。
> そして、その願いが、現実を歪める。
> 怪異とは、願いの行き着く先だ。
> 人間が、死を受け入れられない限り、
> 人形は、いつまでも、どこかで、
> 誰かの名前を呼んでいるだろう。
シリーズ化していきたい