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読んでいただいてありがとうございます。今更ですが、モーリスの母とリディアーヌの母に名前を付けました。
息子が東の砦に行く、つまり左遷になり、さらに嫁にと望んでいたリディアーヌとも別れたと知ったモーリスの母であるジャネットは、ひどく動揺していた。
息子からは会うなと言われたが、リディアーヌに会ってしっかりモーリスの良さを伝えれば、きっと戻ってくる。
そうすれば、夢見ていた未来がやってくる。
願いを叶えてくれるのは、もう息子しかいないのだから。
あの子がリディアーヌさんと結婚さえすれば、きっと……!
そう決意して出かける用意をしようと思ったら、来訪者を告げられた。
それは、リディアーヌの母、イレーヌ・メトロス男爵夫人。
一つ年上のイレーヌとは、学生時代に図書館で静かに本を読む仲間だった。
同じような小説を読んでいたことから仲良くなって、姉のように慕っていた。
そして、同じ爵位の男性に嫁いだ。
イレーヌとの違いがあるとすれば、彼女は学生時代に出会った領地持ちの家に嫁ぎ、ジャネットは親の言うがままに騎士爵の男性に嫁いだことだ。
正直に言うと、羨ましかった。
イレーヌは恋愛結婚なのに、こちらは違う。
夫と上手くいっていないとは言わないが、あの人はいつまでも子供気分で、すぐにどこかに行ってしまう。
暴力や暴言などはないけれど、ただただ夫は好きなように自分だけで生きているのだ。
ずっとイレーヌとは繋がりを持っていたくて、子供同士を結婚させたかった。
そう思っていたのに、どうして今、望んだことと全く違う結末を迎えようとしているのか。
急いで支度をして応接間に行くと、イレーヌが静かに立っていた。
その姿を見て、思い出した。
イレーヌは、華やかな令嬢たちと違って教室の片隅で静かに本を読んでいるような女性だったけれど、決してクラスメイトたちを煩わしいと思っていたわけではなくて、単純に自分と趣味が合わないから距離を置いているだけの女性だった。
卑屈じゃなくて、興味がなかったから。
彼女たちとおしゃべりをしているくらいなら、本を読んでいたいと思っていたから。
社交はするけれど、決して深入りしない。
その距離感を心地良いと感じる一部の令嬢からは好意を持たれていた。
「ごきげんよう、ジャネット」
「ごきげんよう、イレーヌ様。あの、リディアーヌさんのことですけど、モーリスと」
「そのことで、騎士団長から手紙をもらったわ。リディアーヌも当事者だからって。トリアテール公爵閣下から手紙をもらうなんて、最初で最後でしょうね」
「ち、違います、誤解です。モーリスはリディアーヌさんと仲良くなりたかっただけなの。ほら、あれです、子供が好きな女性の気を引きたくてするやつです。ごめんなさい、すぐに婚約出来るように夫に言いますから」
「止めて。モーリスとリディアーヌを婚約させないって昔、言ったわよね。あの子たちは、合わないと思っていたから、させなかったのよ」
「そんなことありませんわ!ずっと仲良くやっていたじゃないですか」
「ジャネット…」
イレーヌは、ずっと動揺しているジャネットを見た。
まだリディアーヌが幼い頃、メトロス男爵領が天災に襲われたことがあった。
大雨で川が氾濫し、果樹園に被害が及んだのだ。
当時、領地は義父である先代のメトロス男爵が仕切っていたが、氾濫に巻き込まれて大けがをしたので、急遽、帝都にいた自分たちが領地に行くことになった。
その時、まだ幼かったリディアーヌを連れて行くのは危険を伴ったし、もし自分たちに何かがあった時は、リディアーヌが唯一の男爵家の継承者になる。
帝都に置いていくにしても、残る使用人たちだけでは心許ないと思っていた。
そんな時、リディアーヌを預かってくれたのが、ジャネットだった。
同じ年齢の息子と遊ばせておくから、と言って預かってくれた。
学生時代から知っている仲だったので、安心して預けて領地に行った。
さらに当時の皇帝陛下から、果樹園を早急に復興させ、メトロス・シードルの品質を上げて安定供給するように命令が下ったので、メトロス男爵家は一丸となってその命令を遂行することになった。
そのため、リディアーヌがある程度の年齢になるまでは、帝都に置いて領地に行くことも多くなった。
預けたのは最初の一回だけだったが、自分たちが領地に行くたびに、ジャネットが帝都に残っていたリディアーヌに会いに来てくれていたのも知っている。
可愛がってくれているのだと思っていた。
ただ、モーリスと、それから夫と娘には言わなかったが、ジャネットの態度に不安を感じたから、婚約だけはさせなかった。
「仕方なかったとはいえ、領地に行ったりしていて目を離していた私も悪かったけれど、リディアーヌはいつの頃からか、モーリスに対して変な思い込みを持っていたわ」
「思い込みって。でも、リディアーヌさんはずっとモーリスの傍にいたわ」
「えぇ、そうね。もっと早く、あの子と向き合うべきだったと反省している最中なの。どうしてあんなにモーリスを信じていたのか知るべきだったわ。でも、リディアーヌはモーリスと別れる決意をしたの。マークス子爵と出会ったのはその後で、リディアーヌが自分で選んだのよ」
その言葉に、ジャネットは少しだけイラッとした顔をした。
私は選べなかったのに。あなたもあなたの娘も、自分で選ぶなんて……!
その鬱屈した思いがイレーヌに対してなのか、それとも選べなかった過去の自分に対してなのか分からなくなった。
「……ジャネット、あなたは変わらないわね。いえ、変わること全てが良いことじゃないとは思っているわよ。変わらないことの良さもあるから。でもあなたは、学生時代から夢を見るだけで、それを実現するための術は全て他者に委ねている」
「イレーヌ様?」
「リディアーヌとモーリスが結婚したら、あなたの夢が叶うの?そのために子供たちを犠牲にしようとしたの?」
「違う!違うわ!私はモーリスの幸せを思って!」
「あら、そうなの。少なくとも息子の幸せは願っていたのね。でも、私の娘の幸せは考えなかったのね」
「それは……、娘の結婚相手くらい親が決めたっていいじゃない」
「私の娘よ。あなたの娘ではないわ」
そんなことは知っている。
リディアーヌはイレーヌの子供で、幼い頃から知っているから、どこにも行ってほしくなかった。
憧れていた女性の娘だから、リディアーヌがほしかった。
リディアーヌが娘になれば、私もイレーヌ様のように輝けると思ったから。
「今日、ここに来たのは、今までのお礼と決別のためよ。リディアーヌを気にかけてくれてありがとう。それから、子供たちはもう自分たちの道を歩んでいるの。親の都合で邪魔をしないであげて」
「邪魔なんて……私はただ……」
ジャネットは、言葉に詰まった。
ただ……、その後に、私は何を言おうとしたのだろう。
言葉が喉に引っかかり、表に出て来ない。
逸らすことなくずっとこちらを見ていたイレーヌが、少し寂しそうに微笑んだ。
「ジャネット、子供たちを解放してあげて」
「イレーヌ様……」
ジャネットの身体が小さく震えて、その瞳からは涙が溢れたのだった。
リディアーヌとの仲が大っぴらになったことで、一部の騎士たちがものすごく悔しがっているという話を聞いたオルフェは、ノアとドロシーに改めて感謝した。
あの幼馴染の騎士は、ある意味、リディアーヌの盾になってくれていたのだ。
彼がいなければ、オルフェと出会う前にリディアーヌは別の人間に取られていたかもしれない。
そういう意味では感謝している。
「女官長に怒られた?」
「はい。でも、心配してくださっているのは理解していますから」
以前リディアーヌがサンドイッチを作った時に、オルフェがリディアーヌ自身に持って来てほしかったと言ったのがリディアーヌに伝わったらしく、今日は一緒に食べましょうと誘ってくれた。
もちろん断ることなどせずにいそいそと宰相室から出て行くオルフェをノアたちが温かい目で見ていたのはちょっとだけ照れくさかったが、裏庭のベンチに座りながら食べるサンドイッチは、あの時よりももっと美味しく感じる。
「そうだね。あの方、時々、宰相閣下にも本気で怒っているよ。今度、会った時には、僕も怒られるかな」
その時は、甘んじて怒られよう。
一応、騎士団長に頼んでいたとはいえ、正直、ちょっとモーリスを甘く見ていた部分もあったし。
あれだけリディアーヌに執着していたのなら、どうして傍にいる時にもっと優しく出来なかったのだろう。
もし、オルフェがリディアーヌの幼馴染だったら、絶対に離れて行かないように守って甘やかして、幼馴染の特権を最大限に活用したのに。
「ラフィーネさんとは仲が良いんだね」
「はい。最初に色々と指導をしてもらったんです。仕事で困った時は、ラフィーネさんに相談してます」
「彼女、確か歴史ある伯爵家の出だったはずだから、マナーなんかはしっかりしてるから」
「でも、女官長にはまだまだよって言われます」
「はは、そうだろうね」
オルフェも皇宮勤めを始めた頃に、女官長に何度か注意を受けたことがある。
どうやら皇帝陛下も注意を受けたことがあるらしく、女官長に会う時はちょっとだけ緊張しているように見えた。
「……モーリスのことは聞いた?」
「はい。東の砦に行くことになったそうですね」
「あぁ、期限は決まってないそうだよ。皇宮内で騒ぎを起こしたし、理由も理由だったから、処罰なしには出来なかったんだ。他の騎士たちの目もある」
「はい。分かっています」
「ズルい言い方になるかもしれないけど、君と彼は婚約をしていたわけでも将来を約束していたわけでもない。ただ漠然と幼馴染だから一緒にいて、そうなるだろうと思われていただけだ。そして、彼の方が調子に乗った発言や君を蔑ろにするような態度を取っていた。君が心変わりをしたことは仕方ないと思われているよ」
「……本当に、好きだったんです」
「うん」
「でもあの瞬間に、全部が凍り付いて、真っ白になって……心の中で、何かがパリンと壊れる音がしました。壊れた後には、何も残らなかったんです」
「うん」
オルフェは、涙を溢れさせたリディアーヌをそっと抱きしめた。
「……モーリスのことは思い出さないようにしようと思ってたのに……ごめんなさい、オルフェ様」
「いいんだよ。だってその過去は、今、僕が好きなリディを形作ってくれた出来事だから。色んな思いをして、今の僕等がある。どんな過去でも消えることはないし、思い出は思い出だ。無理に記憶の奥底にしまうことはない。ふとした瞬間に浮かび上がって苦しくなったら、遠慮なく僕に言えばいい。それくらい受け止められる心の広さは持ち合わせているつもりだよ」
「……オルフェ様って、童顔ですけど、心は大人なんですね」
「あはは、そうかな。でも過去は仕方ないけど、これから先は僕だけを見てね。余所見はダメだよ」
「しません。オルフェ様もですよ」
「そんな度胸はないよ。僕は一途なんだ」
「私もです」
「なら僕たち、そっくりだね。童顔で一途な二人なんだから」
「ふふ、それは嬉しいです」
モーリスを想って流れた涙は、いつの間にかオルフェへの想いに溢れた涙に変わっていた。