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騎士団長に連れて行かれるモーリスの後ろ姿は、何だかとても頼りなく見えた。
いつもリディアーヌの前にいたモーリスの背中は自信に満ちていて、声をかけることさえためらうほどだった。けれど、今はまるで叱られた子供のようだ。
「リディ、大丈夫?」
まだ微かに震えている手をオルフェがそっと握ってくれた。
モーリスは、リディアーヌが震えていたことに気が付いていなかった。
こんなにモーリスの前に立つことが怖くて、同時にリディアーヌを支えてくれていたオルフェの存在に、心強さを感じたことはなかった。
「……はい。オルフェ様、私、言いたかったことの半分も言えませんでした。今まで、モーリスに反論したことなんてなかったので、全然慣れていなくて……」
「大丈夫だよ。しっかり言えてたから」
いつの頃からだろう、モーリスに何も言えなくなったのは。
幼かった頃はまだ二人で色々な話をした。
自分のやりたいことや、将来の夢。子供のたわいもない戯れ言。
リディアーヌの言葉に、モーリスも楽しそうに笑っていた。
けれどいつの間にか、モーリスが物事を決めてリディアーヌはただそれに従っていた。
モーリスがしっかりしているから、リディアーヌさんは安心ね。
あなたは黙ってモーリスを支えればいい。
そう言っていたのは誰だろう?
周囲の大人たちの思惑に幼い子供たちは上手く乗せられて、徐々に関係が変わっていった。
両親がいないところで囁かれたその言葉は、リディアーヌの中にずっと残っていたのだ。
抜け出せたのは、愛人にしてやる、というモーリスの言葉だった。
リディアーヌは、男爵令嬢として淑女教育を受けた。
下位とはいえ貴族の令嬢としての教育を受けて、その矜持は叩き込まれた。
両親のように信頼しあった夫婦になれるように努力していたのであって、愛人になるために教育を受けたわけではない。
それをずっと知っていたはずのモーリスが、リディアーヌを愛人にする、と冗談でも言っていたのが許せなかった。もう、この人の傍にいたいと思わなくなった。
きっとモーリスは、リディアーヌが聞いているなんて思ってもみなかったのだろう。
それとも、リディアーヌに聞かれたところで何の問題もないと思っていたのか。
たった、一言。
でも、そのたった一言が、未来を変えた。
リディアーヌは、変わった未来の先にいた人の手を握り返した。
「幼馴染をあんな風に突き放した私を軽蔑しますか……?」
「ん?どうして?リディ、彼はただの幼馴染であって、君の婚約者でも子供でも何でもないんだよ。リディが彼に隷属しているわけではないんだし、嫌なことがあったら我慢せずに離れればいいんだよ。あ、でも、僕に嫌なことがあったらちゃんと言葉にしてね。譲れないところはあるかもしれないけど、僕は自分の一方的な考えだけで何かするつもりはないよ」
「……なら、私にもちゃんと言ってくださいね。少し時間がかかってしまうかもしれませんが、ちゃんと言いたいことをまとめるので」
「うん。ただ、僕、見ての通り非力だから、騎士たちみたいなことは出来ないけど。リディが望むのなら鍛えてみるけど多分、ああはならないかなー。そこの部分の希望は捨ててね」
「ふふ、その時は騎士団長様にお願いするのですか?」
「嫌だよ。ヴァッシュ様にお願いしたら喜んで地獄コースを作ってくれそうだから。絶対についていけない」
心底嫌だという顔をしたオルフェに、リディアーヌはくすくす笑った。
その手は、もう震えていなかった。
「はいはーい、そこまで。マークス子爵、申し訳ないけどそろそろお時間です。離れてください」
パンパンという手の鳴る音で、リディアーヌはこの場所がオルフェと二人きりの空間ではないことを思い出した。
ラフィーネが、呆れたような顔をしていた。
「ラフィーネさん、すみません」
「いいのよ。マークス子爵、仕事中なのでリディアーヌを返してもらってもいいですか?」
「これは失礼、ラフィーネさん。……間違っていたら申し訳ないのだけれど、同じ学年にいませんでした?」
「いましたよ。クラスが違ったから話をしたことはなかったけれど、あなたはある意味、有名でしたから。どうして全く年を取らないのかという秘密だけは、教えてほしいところですね」
「リディの危機を助けていただいたので教えてあげたいところですが、あいにくとごく普通に生きているだけで、特に秘密はありませんよ」
「んー、もう誰かしら、童顔二つを並べてみたいと思った方は」
……たぶん、ノア・フェレメレンという方だと思います。
とは、誰も言わなかった。
「リディアーヌ、早く行きましょう。そして、二人で一緒に女官長に怒られましょうね」
「あ!そうでした!」
とっくの昔に休憩時間は終わっている。
そしてラフィーネが騎士団長を連れてここに戻って来たということは、誰も女官長に遅れることを伝えていない。
確実に今頃、女官長は怒っている。
「ラフィーネさんは悪くないので、私だけ怒られます」
「だとしても、絶対に女官長には他にやり方があったと説教されて怒られるだけよ。だったら初めから怒られていても一緒だもの。仲良く素直に頭を下げましょうね」
「ラフィーネさぁん」
政務を手伝う女官と、皇族の身の回りや室内などを整えたりする侍女を統括する女官長は、普段はとっても優しくて仕事の教え方も丁寧で上手な方だ。
そして長年、皇宮内で仕事をしているので、経験豊富な方だ。
やりようは色々あるのよ?
そう言って微笑む女官長が一番、怖い。
「あー、うん。一応、僕からも言い訳を……無駄か。よければ、僕も一緒に怒られようか?」
そっと諦めたオルフェの言葉に、二人は揃って首を横に振った。
「ここでマークス子爵まで連れていったら、もっと怒られます」
「オルフェ様は、自分のお仕事に戻ってください」
先ほどとは違った意味で震え始めた恋人を、オルフェは可愛いなと思っていたのだった。
バルバ帝国では、
女官→皇妃や皇族の姫の政務などを手伝う公的な部分の仕事が多い。
侍女→皇族の身の回りの世話をしたり、後宮や客室などの部屋を整えたりする私的な部分での仕事が多い。
メイド→掃除などの下働き。
女官と侍女は基本的に同格で、主に貴族やちょっと裕福な家の女性が採用される。
メイドは条件は厳しいけれど、一般市民も採用される。
女官長は、女官と侍女の統括している人。
特に今は皇族の人数が少ないので、働いている人も少ない。
一応、女官と侍女という分け方をしているが、休みの人がいたり忙しかったりすると垣根を越えて仕事をしなくてはならないので、線引きは曖昧なところがある。
どっちをメインに仕事をしているか程度の違い。
「昔は、色んな派閥とかあって面倒くさかったんですよねー。今は大変すっきりしていて、いいんじゃないでしょうか」
女官長は、のほほんと笑っていた。