⑯
読んでいただいてありがとうございます。
物事は、動き出す前には色々と考えてしまうものだ。
どうすればいいのか、とか、こうなったらいいな、とか想像は限りなく広がる。
最悪の事態しか思い浮かばずに眠れない夜を過ごす時もあれば、やってしまったものはしょうがないと開き直る時もある。
そして、都合の良い理想だけを夢見ている時も。
今のモーリスは、自分の都合の良いことしか考えていない。
モーリスの利になるようにしか、物事は進まないと信じている。
そこに、オルフェやリディアーヌの意志は存在していない。
だから、彼からしてみれば、今自分が不利になっている状況こそおかしいのだ。
「君は本当に自己中心的な人のようですね。君にとって悪いのはリディであり、僕なんでしょうね」
「リディアーヌが俺から離れるから!」
「その原因は君ですよ。それも分からないんですか?それとも、分かっていて認めたくないんですか?」
冷静なオルフェを、モーリスはさらに睨み付けた。
「他人に、それも団長に俺を押さえつけさせておきながら、偉そうなことを言うな!」
「適材適所です。狼藉者を文官の僕が押さえつけられるようになったら、騎士が何のためにいるのか分からなくなりますよ」
一部そういうことを出来る文官はいるが、大多数の文官は荒事が苦手だ。
今更、文官と武官の役割の違いを言って聞かせる気にはならないが、騎士たち全員がモーリスみたいな考えを持っていたら困る。
「いい加減にしろ。これ以上、騎士そのものを汚すな。腕力があれば物事全てが解決するわけじゃない。確かにいざという時、最前線で命を張ることになるのは俺たちだ。俺たちはその時のために備えているが、文官たちは滞りなくいつもと同じ毎日が送れるように働いているんだ。文官を下に見ることで、優越感を感じるな。騎士たち全てが同じように思っていると思われるだろうが」
同じ騎士、それも騎士団長にそう言われてモーリスは、そんな風には思っていない、そんなつもりはなかった、などと小さく呟いた。
「モーリス」
身体の震えが止まったリディアーヌが、モーリスの前へと立った。
その姿を、ラフィーネが心配そうな顔で見ていた。
「リディアーヌ、お前から団長に誤解だって言ってくれ。俺は、ただ、お前が来なかったからちょっと呼びに来ただけなんだ。なぁ、お前だって俺に会いたかったんだろう?」
モーリスは先ほどまでの強気な発言はどこかにいって、すがるようにリディアーヌを見た。
こうすれば、心優しいリディアーヌはモーリスを助けてくれる。
そう思ったのだが、リディアーヌは首を横に振った。
「リディアーヌ?」
「モーリス、それはあなたの願望であって、私はもうあなたに会いたいと思っていないの」
「……は?」
「私、いくら幼馴染とはいえ、あなたの愛人になるつもりはないわ。あなたは私のことを、いつでも自分の自由に出来る都合の良い女だと思っていたのでしょう?」
リディアーヌの言葉に、最初は意味が分からなかったモーリスだが、少し前にリディアーヌのことを愛人にすると同僚に言ったことを思い出した。
「……あれか!あの時の!ち、違うんだ、あれは、その……そ、そうだ!同僚に言ったちょっとした冗談だ!本気に取るなよ」
「冗談?いいえ、違うわ。あれがあなたの本心でしょう?私がいないからこそ出た本音でしょう?」
「違う!信じてくれ!だって、俺はお前のことをよく知ってるんだ。お前だって俺のことをよく知ってるだろう?な?」
「ねぇ、モーリス、あなたが私の何を知っているの?」
「え?」
「私の好きな色は?趣味は?休日の過ごし方は?」
「そ、それは……」
知らない。
聞いたことがあるかもしれないけれど、覚えていない。
モーリスは必死に記憶を探ってみたが、リディアーヌの口が動いて何かを話していても、モーリスの耳には聞こえない。
記憶の中で、嬉しそうに何かを見せてくれていても、それが何なのか覚えていない。
「分からないでしょう?あなたはいつも、私の話なんて聞いていなかったものね。それなのに、どうして私のことをよく知っていると言えるの?」
悲しそうな顔をしたリディアーヌがそう言うと、モーリスが急に萎んで大人しくなったので、ヴァッシュは拘束を解いた。
「モーリスの考えの中に、私の意志って存在するの?きっとあなたの中には、あなたの思い通りに動く私しかいないのでしょう?でもね、私にもちゃんと自分の意志があって、考えがあるの」
「……俺は……お前が元に戻ってくれたら、それで全部今まで通りに上手くいくって……」
「いかない。たとえ私があなたの傍に戻ったとしても、今まで通りにはならないわ。もう、私とあなたの関係は壊れてしまったの。モーリス……」
リディアーヌはそこで言葉を切って、一度深呼吸をした。
大丈夫。私は落ち着いている。
肩にそっと手を置かれたので見ると、オルフェが微笑んでいた。
「モーリス、私が好きなのはオルフェ様なの。これから先、私が傍にいたいと思っていて、傍にいてほしいと願っているのはオルフェ様だけなの」
リディアーヌの言葉を聞いて、モーリスは泣きそうな顔になった。
オルフェと二人で真っ直ぐに立ってこちらを見ている姿に、叫び出したくなった。
リディアーヌの肩に手を置くのは、モーリスの役目のはずだった。
彼女が愛おしい目で見つめるのは、モーリスだけのはずだった。
なのに今、モーリスを見つめるリディアーヌの瞳は、不安に揺れている。
そんな目で俺を見るな。
いつものように、俺の傍でただ静かに微笑んでいてくれ。
そう願っても、現実のリディアーヌは他の男の隣でモーリスを強ばった表情で見ていた。
どこで何を間違えたのか、今のモーリスには分からない。
けれど、リディアーヌが傍にいる日々が終わってしまっていたのだということは、ようやく理解出来た。
その始まりが、同僚に軽々しく言った自分の言葉だということも。
「…………分かった、もう何もしない。団長、申し訳ありませんでした」
ぼそぼそとしゃべるモーリスは、すっかり何かが抜け落ちたようだった。
リディアーヌがぎゅっと握りしめた自分の指に力を込めると、オルフェが彼女の肩を抱き寄せた。
「リディ、手の平が傷ついちゃうよ」
「……はい」
リディアーヌは小さく頷くと、そっとモーリスの方を見た。
ここで彼のことを願うのは、ずいぶんと自分勝手なことだと思う。
けれど、それでもリディアーヌは、自分がオルフェと出会えたように、モーリスにも良い出会いがあるようにと祈ったのだった。