#16 白紙
語り部の冴えたる演は幕を閉じ、閉じられた舞台から解き放たれた観衆達はまた盛況賑わう人波へと還っていく。
終幕をやり遂げた満足げな男と、表情乏しい少女だけの街路端がまたも隔絶されたかのように取り残され、二人だけの物悲しい路地へと立ち返った。
舞台の完走に浸り、思い出を何度でも手繰っては余韻を反芻するヴィンクと、物語の終章を奮迅した人形たるテュカの模造をあやす少女。
彼等自身の状況を物語るならば“振り出し”にひき戻っただけ。
だがしばし忘れていた人と人とが交わす歓談。屋台が醸しだす炙り肉の匂いに際限はない。
追憶に酔い、記憶をこねくり回すヴィンクすら、香る露店、酒がほだす人情さらけだす普段と違った飲食店の色気。この催事という非日常の高揚の中を抜け出し、ただここに自分達が取り残されていただけだったとようやく正気な沙汰を下す。
ならば、と少女を促し立ち上がる。
自らの“演”はたけなわを過ぎ去った、それならば新たな“宴”を求めてゆり歩こう。
そうしてチェックしていた“すごい”とだけ書かれた目先の店に狙いを定め、とりあえず子供も喜ぶものが何かあればと、そう思い立ちながら少女に声をかけ手を取る。
しかし取ろうとした手は何処。
凪いだ自らの手。
空を切った自らの傍らを見ればもれなく無人。
いくら大人びていようが年相応。待ちきれぬ思いで走り出してしまったのだろうか。
それなら可愛げのあるよい傾向だ。子供なんだからはしゃいだ姿を見せてくれたほうが心も温まる。
そう心で吐露したのもつかの間、目の前で渦巻く人波を見渡し心がざわめきだす。
たった一人の少女が大人の群れに呑まれた。
人波の大海に目を凝らすも後の祭り。
落とす大人の影が下肢より下のものを覆い隠して何一つとして見あたらない。
数えるのも億劫になるほどのこの密度。どう探し出すべきか、その糸口にすら至らない。
天を見上げ、手の平で顔を覆う。
自ら長蛇に飛び込んでも丸呑みにされる未来しか見えない。
どこから手を付けるべきか見当がつかない。
子供の扱いには一家言あったつもりだった。それが蓋を開ければ惨憺たるこの実情。何たる失態か。
これだけの人ごみの中、子供の身で飲まれようなら心細いことこの上ないだろう。
市井の子を守れず何が大人、庇護者気取りか。
締まらない自責と憂いの念に、直面している目下の事態を逸らすように覆い被さる手の内で瞼を閉じる。
そうして自らを覆う手。
その指先の一本が、本人には意思とは裏腹に、群衆の中へと促すように僅かながらに揺れ動く。
そんなささいな違和感に覆う手の平を下ろし、痙攣する人差し指をじっと見つめる。
ほんの少しだが、些細に、指先が揺れている。
導くように揺れ動くのは、指に着けた艶ある指輪。
その輪から繋がれた慎ましやかな光線が、惹かれるように群れる民の足元へと爛れている。
マリオネットの線。
人形と操演者を取り持つ特化の生命線。
そしてそんな生命線で復する人形たるテュカを、迷い子は持ち歩いたままだというところか。
そう思うやいなや指に嵌めたシルバーリングを鬼気迫る勢いで投げ捨てる。
指に付けたありったけを地面にぶちまけ、とりあえずの一息をあげる。
危うく辺りを血祭にするところだった。
光沢の指輪。このシルバーリングには人形との繋がりのために、手製の銀で編んだハンドメイドアクセサリーだ。
凶器すらなり得るものが、人波へ、それも少女と自分との間で張られようものなら行き交うすべてを削ぐ、猟奇もの顔負けの解体器具へと変貌することだろう。
そうした後の祭りには少女はすぐにでも見つかるだろう、だが今度は自分自身が大罪の果てに所在不明に処されることは請け合い。
間一髪だった。
スプラッターショーを自らで幕を引き、起こり得た惨劇から人々の命を救った充足感。気分は悪くはない。
何故だか、どこからか湧いた自尊心がヴィンクを満たしていく。
だが事態は終わってなどいない。以前、この銀線は地面に垂れたまま。
いくらひとり芝居で気持ちよくなろうがこの事実は覆らない。
万が一、線が張られようものなら大事は免れない。
しかしそれも人形を持ち歩いて紛れてしまったのならある種の怪我の功名かもしれない。
今まさに投げ捨てたリングがうごうごと人波に吸い込まれていく様を見つめ、リングを一つ一つ拾いあげながら自らも人並みへと乗り出す。
事態の収束は単純明白になった。もはや事態の収拾は容易。
銀糸の先に少女がいるのなら、糸が張る前に合流してしまえばいい。
もはや躊躇うことは何もない。
視線を足元へ移し、僅かまたたく銀線の歩みをなぞる。
人垣に押しかえされようとただひたすらに推し進め、映した手がかりを盲目に辿る。
一人はもの悲しいものだ。
一筋の光に導かれながら、ヴィンクぼんやりとそれだけを考えていた。
いつからそんな考えを持つようになったのか。覚えているようで、あまり思い出したくない。
だが自分が少女くらいの時にはもう心細かった。
思い返せばなぜここまで少女に気をかけるのか。
自分はそれほどまでに情の深い人物だったのだろうか。
きっとそうじゃないはず。情の深い人間など自惚れにもほどがある。
ただ恵まれた周囲の人間原理を焼き直ししているだけ。
ただそれだけ。それだけに過ぎない。
これ以上はいけない。
いつものようにあと一歩の寸の所で抜け出す。
そう、今はさながら独りぼっちの子供を助けようと奮闘するヒーローのようなもの。
集中の間に混ざり込んでくる雑念を払い、憂さを晴らすように新たな雑念でかき散らす。
一歩間違えれば大惨事の事柄まで抱え、それでなお全てを丸く収めようとしている姿はまさしく勇者と言っても過言だ。
ヴィンクの思考が覆る。
この年まで自分の機嫌を取り続けてきた男。自分を下げて上げるはいつものこと。
先ほどまでの落胆はなんだったのか、物事を斜に捉えるのは止め、いままさに銀の先で迷いあぐね居ている少女の下へ急ぐ。
もはや事態の収束は間近。
銀の線はとうに緩みに、管を巻いては打ち捨てられている。
ついぞここまでのようで、ようやく見下げた視線を上げ、咳払いをしながら第一声へと備える。
しっ責は抑えつつ、茶化すように駆けつけることに今決めた。
少女の親御探しはまだ始まってすらない。ここで関係を悪くして更に手を焼く事態に陥ればもうお手上げだ。
それに、親と再会すれば名一杯しかられることだろう。
それこそが親子の仲。
そこに部外者たる端役に、そのような役は割振り分けられてはいない。
少女の記憶に、こんな端役は残り続けるものではない。
そう整理しながら雑踏を渡り切り、少女の居所を決め打ちしながら声をかける。
「困りますよ…お嬢様…このことはしっかりとご両親様へと申し上げさせてもらいますからね。ご容赦くださいませ」
そう声を掛け、目の前に佇む、潤んだ瞳に問いかける。
雑踏を抜けた先でこつ然と佇んでいたであろう、人形たるテュカの下で。
裏路地の入口。
物置に置き去りにされたたった一人きりの人形。
「あ……?」
気の抜けた声がヴィンクから漏れる。
状況がいまいち掴めず、ヴィンクと人形の視線が交差する。
自らが生みだした人形。
そんな瞳に呆然と、今、呑みこまれそうになる。
なんだろうか、この感じは。
陥る、そんな深みの前触れであろうこの感覚。
「ヴィンク…?」
その矢先、透き通った声音が背後からなげ掛けられた。




