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雰囲気

作者: 雉白書屋

「ふぃぃ、おれがいらっしゃいましたよっと……う!?」


 そう呟き、そのバーに入った瞬間、酔いが醒め、後悔が押し寄せてきた。

 今夜はすでに酒が入っており、気が大きくなっていた。仕事は順調。数日前から二歳年上の会社の先輩と付き合い始め、十万円だが宝くじが当選。おれが、少なくとも今週はおれがこの世界の主人公だ、と調子に乗っていたのだ。

 だから、おいおいおい良い感じのバーがあるなぁ、と普段なら躊躇するところをドアを開けて入ってしまったのだ。

 しかし、そこは別空間。おれが、うっ、と戸惑ったのは気圧の変化のせいじゃない。この雰囲気だ。店の中にいた連中から一斉に鋭い視線を注がれ、おれに呼吸さえも躊躇わせた。

 常連客がわいわいやる居酒屋。その空間に入り込むあの感じ。否、それどころではない。場違いも場違い。引き返すべきだ。そう考えた。なのになぜかおれはゆっくりと、一歩一歩前に進んだ。

 照明はやや暖色系で薄暗い。床は黒い、大理石だろうか。靴音を立てていいものか悩み、結局静かに歩く。

 カウンター席にはタイトなワイン色のドレスを着た女が一人。他に、ソファーが二つ。一つには白いタンクトップに毛皮のジャケットと金のネックレスをした大柄の男。もう一つには目の周りに星形のメイクをした、奇抜な服を着た男が一人座っている。

 丸椅子に丸テーブル。そこには黒いロングコートに、黒く長いつばの帽子を被った男が一人。

 各々の前にはグラス。そしてバーのマスターは白髪。老齢だが背筋がピンと伸びている。執事のような、だが元は、そう元……。

 カウンター席におれが腰を下ろすと、マスターがカウンターを指でトントンと叩いた。注文を聞いているようだ。

 

「えっと、あの、おすすめとか……」


 へらへらと、そして自分でも驚くほどか細い声であった。おれはまたも後悔した。背中でわかる、全員から刺すような視線。実際刺されたのかと思い、おれは身じろぎした。


「……いつものになさいますね」


 マスターがそう言った。助け船だ。おれは強張ったまま、頷いた。

 店内は静かであった。マスターが酒を作る音の他にはゴリッゴリッと大柄の男がクルミを素手で割る音。それと星形のメイクをした男がトランプを積む音。見かけない顔のおれが入ってきたことで話が途切れたというわけではなさそうなので、一先ずほっとする。

 しかし、この居心地の悪さは何だ? 結局入って来てはしまったが、気圧されるほど高級感があるというわけではない。客層だって、いや、少し冷静になって見れば変な連中だ。……いや、だがこの連中、どこか共通点のようなものが――


「ブラッディマリー……」


 え? とおれは思った。カウンター席に座る女が突然、そう呟いたのだ。


「……シュナイダー」


 今のは大柄の男。


「……アルカナ」


 今のはトランプの男。


「……ナイトクロウ」


 今のは黒コートの男。


 自己紹介……なのだろうか。あだ名、いや、バーネームとでもいうのか? なんだそれ。あと、なんだこの妙な間。それに視線。と、これは、おれの番というわけだろうか?

 

「鈴――」


 い、いや、駄目だ。この場に相応しくない。危ないところだった。いや、何がだ? そんなの、いやしかし、体が震えるような圧が、とにかく、名前を、鈴、リン、リンリン……


「リィンカーネェィション」


 ……やっちまった……発音を意識したのがなお恥ずかしく痛々しい。

 と、おれは思ったのだが、マスターはうんうん頷いている。そして、一瞬だが店内にほっとしたような空気が流れた。どうにか危機を乗り越えたようだ。そう、危機。あのプレッシャー、そして連中の、このバーの雰囲気からわかった。

 間違いない。ここは殺し屋たちが集うバー……ではなく、そういう雰囲気のバーであり、それを客に強制する力があるのだ。

 何をバカな。従う必要などない、なんて虚勢も張れやしない。突然、着物のご婦人方が集うお茶会の真ん中に放り込まれ、正座せずにずっと胡坐をかいていられるか? あるいはキャラTシャツで葬式に参列することなどできるか?

 間違った所作は許されない。一挙一動を監視されている感覚。そしてそれは店に足を踏み入れた瞬間、おれに引き返すことも許さず、今も出ていくことを許さないのである。


「……キラービー」


 沈黙で胃が痛い。そう思った時、また女が呟いた。


「……アイアンハンド」


「……アンラッキー……サーティーン」


「……ダーク……ウィング」


 ……おれの番……か? おれの番なのか? いやだから、おれの番って何だ? 頼むから巻き込まないで欲しい。そっとしておいてくれ。一杯飲んで出て行かせてくれ。

 ああ、何を言えばいいんだ。だが訊けない。しかし何かを言わねばならないこの空気。凄まじい。肺が締め付けられるようだ。従わなければどうなるかを知らしめてくるような……苦しい、苦しい……何か言わなければ……!


「隷属……する聖女」


 しまった。おれだけ日本語……と思ったのだが、マスターがカクテルをおれの前に出して頷き、一瞬、おぉーという空気が流れた。どうやらセーフのようだ。


「毒のように甘い……蜜」


「鉄血の……牙」


「道化師たちの……血の宴」


「レイヴン…………ダンス……あぅ……」

 

 ひとりを除き、他の連中も日本語に変えてきた。

 え、いやこれ、マジカルバナナ的なやつか? 場の空気を壊さぬようにしつつ、ちらちらと客同士、まるで自転車の練習をする子が後ろを支えてくれている親を見るように、信頼を確かめ合っているようだ。

 だが、これを続けるのもそれはそれで違う気がする。ほら、マスターも少し顔が渋くなったような。いや、マスターはなんなんだ? この圧。まさか本当に元殺し屋なのか?

 

「……あなたぁ……初めて見る顔よね?」


「え、あ、ああ……」


 女がおれの隣に移動し、そう話しかけてきた。おれは『いや、多分お前もだろうが!』とツッコミを入れたいところを必死に堪える。

 恐らく女はミステリアスでセクシーな先輩殺し屋を演じているんだ。で、おれはうぶな新人。


「最近はぁ……どんな仕事をしたの?」


 仕事というのは当然、殺しのことだろう。いや、そんなものはないが。しかし、こんなの丸投げじゃないか。どう答えろとい――

 

「よぉ、鈴木、うっ!?」


 おれたちはその声の方を向いた。バーの出入り口。そこにいたのは同僚の上田だった。

 なぜ奴がここに……と上田がスマホを掲げていることから、その理由がなんとなく分かった。奴は陰湿かつ執拗な野郎で先輩とおれの交際を前から妬んでいたのだ。

 だから、この夜。同僚と別れたおれの跡をつけ、おれの痴態。風俗やキャバクラに行くところでも狙っていたのだろう。そして、おれがこのバーの中に入ると窓からそっと覗き、女がおれの隣に来たのをチャンスだと思い、慌てて動画か写真を撮りに入ってきたのだろう。おれの弱みを握ろうという魂胆なのだ。

 上田は先程のおれと同じようにゆっくりと歩き、そしておれの隣に座った。


「……おい、おい、どういうことなんだよこれ」


 上田がそう小声でおれに囁き、へへっと薄ら笑いを浮かべた。『別にビビってないし』と取り繕うのと、不安ゆえ、同僚であるおれに仲間意識を抱いているようなそんな表情であった。

 おれは習い事で知り合った友達と遊んでいるときに特に親しくもない学校のクラスメイトが仲間に入れてよと声をかけて来たような気分になった。

 

「えっ?」


 と、おれはつい声を漏らした。またマスターがカウンターを指でトントン叩いたのだ。おれにやったように上田の野郎に注文を聞こうとしたのではない。指はおれの前、そしてそれはクイッと右を指したのだ。

 おれはその指の先に視線をやる。ドアだ。あそこへ入れという意味なのだろうか、と思っていると女が頷いた。

 おれが何かしてしまったのだろうか……罰。結果、上田の野郎を誘い込んでしまったから。だが、行かないという選択肢はない。なぜならこの店の空気がおれにそうさせるのだ。


「おい、おいって……おれを置いてくなよ」


「ご注文は?」


「え? あ、コカレロで」


 おれはスーツの袖を掴む上田の指を振り切り、ドアに向かった。

 開けるとそこは……衣裳部屋のようだ。狭く、ハンガーラックが一つ。そこにいくつかの衣装。他には床に、おそらく他の連中が脱いで入れたと思われるカゴがあった。

 そのうちの一つ。恐らくあの女が脱いだブラジャーが見え、頭皮が熱くなったが今、それどころではない。なぜなら衣装は残り片手で数えるほどしかなく、しかもそれが女物とあとは……


「で、つまみはなにがあるんすか? メニュー表とかくださいよ。ないの? ん、あ、鈴木、え、ぷはっ、お前、ははははははは! なんだその恰好! はははははは! 写真、写真。ははははは! 先輩に見せてやろ! いや、全員にだ! お前、終わりかもな! はははははは! はぁ!?」


 女がスカートの下、太ももの辺りから取り出した針で上田の目を刺し、黒コートの男が舞うように袖口から出した剣で上田の喉を切り裂き、星形のメイクの男が上田の背中にナイフを投げ、そして、大柄の男が血管浮き立つその両手で上田の頭を挟み、潰した。

 その光景を目にしたおれは体が震え、首元の鈴が可愛らしい音を鳴らした。

 おれが選んだのは、ほぼ全身を覆う黒のラバースーツにボールギャグ。平たく言えば女王様の奴隷。つまり危険人物系だろう。空気を読んだおれは膝から崩れ落ちた上田に向けて射精した。

 マスターは奥に引っ込んだかと思えば、モップを持ってきた。どうやら始末屋らしい。

 おれたちは心の底から安堵した。

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