隣室の女
ギィイ、ギィイ、ギィイ............カチャン。
秋から冬への変わり目、夜も更けた頃、バイト帰りにボロ雑巾のような自転車をフラフラと走らせて自宅アパート前の駐輪場に止める女。少ない親の仕送りを生活費に当て、ティッシュ配り、皿洗い、接客、バイトをいくつも掛け持ちして学費と家賃を捻出する苦学生であった。手は擦り切れ、肌は荒れ、それに乾燥した肌寒さが助長する。
自転車の鍵を抜いて、カゴからリュックを持ち上げる。利便性だけを追い求めたそれは、化粧道具に本やらタブレットやら、物が雑多に詰め込まれている。引きずる思いでリュックを背負い、階段を軋ませながら一段一段歩いていく。向かうはアパート二階の角部屋。所々塗装がはげた錆び付いた手すりの階段を登って一番奥の部屋まで行き、立ち止まる。
女の眼前には表面をペンキで塗りたくっただけの大きな扉。下方に新聞受け、正面に鈍色のドアハンドル、その上にはシリンダーが突き出し、鍵を待ち構えている、そして見上げた位置に覗き窓がポツンとある。
玄関の鍵穴を前にして、鍵を開けようと女は鞄の中をゴソゴソと手をめぐらす。されど手に絡むのは充電器やイヤホンのコードばかり。早く温かい布団で眠ってしまいたいと逸るも、かじかんだ手では手先の感触は痛みと不快感を生むだけであった。
あまりの鬱陶しさに手を振り解き、ふと、何かの気配を感じた。バッと振り返り背後を確認すると、すぐに頭を戻した。何かいた、向こうのつい先ほど登ってきた階段の前でたたずむ赤い何か。目があった気がして反射的に視線をそらしてしまった。何か見てはいけないものを見たような。この階の住人だ、そう心を落ち着かせようとする頭とは裏腹に、何かの焦りを映し出すように鞄を漁りだす手。
アァーーーーーオォ……
ヒッ、と肩を震わせ、ドクンと心臓が跳ねる。
遠くから音がした、しゃがれた獣のような声で、それと同時に女は思い出してしまった。このアパートは曰く付き、この階の住人はなぜかすぐ引っ越してしまうということを。隣室の玄関扉の新聞受けがガムテープで目張りされては剥がされてというのを一ヶ月毎に繰り返していたのだ。隣室に何かあるのは明白であったが、女は普段は気にしないようにしていた。
急がないといけない。鞄を抱え込み、中身をまさぐる。内ポケット一つに指を奥深く爪の先まで差し込み、引っこ抜く。そして、隣の内ポケットにも指を差し込み、引っこ抜く。
後ろから、ドンッと音が響く、同時にぐらっと床が揺れる。歩いた。こっちにきている。
鼓動が内耳に響きだす。視界が暗くなる。
向こうから。ドスン、ドスン、と足音を響かせて、ゆっくりゆっくり近づいてくる何か。この階の住人だ、この階の住人だ。いつか足音を止めて部屋に入るに違いない。されど、カツカツ響く足音は一つ、また一つと扉を通り過ぎていく。
女はこれからすることを想像する。
部屋に入って鍵を閉めてチェーンをかけてカーテンは閉めて友人を呼んで、目貼りして盛り塩をしてそれからそれから。しかし、その第一歩が進まない。鍵が見当たらないのだ。
その事実がさらに女の不安を助長する。
アァーーーー
また……聞こえた。
再度、急いで鞄に手を突っ込んで
手先に触れた硬い鈍色をやっとの思いで探り出し安堵した瞬間
……ギョッとした。
信じたくないその感触に、恐る恐る鞄から手を眼前まで持ち上げてみれば、絡みつく黒い何か、長い女の髪の毛か、手を飲み込み、ツタのように腕まで這い上がってくる。
オォーーー
ハッと喉まで出かかった甲高い息を殺す。
急いで鍵穴に合わせようとガタガタと震える右手で鍵をねじ込み、されど先端はガツガツとシリンダーにぶつかり、とっさに左手も添えてされど思うように鍵穴に合わず、ことんと落としてしまう。
落ちた鍵には目もくれず、目の前の扉に体を這わせドンドンドンドンッと右手を鞭のごとく叩きつける。
「開げでっ!!開げでえぇっ!!」
ドンドンドンドンッ
誰もいない室内に向かってヒステリックに叫ぶ女。穴という穴から体液を垂れ流し、死を待つだけの独房の扉を叩きつける。
とん……と肩に触れる何か。瞬間、体の震えが収まり今までの形が嘘のように死に絶える。死刑宣告を受け入れたように顔は、ゆっくりと、おもむろに、後ろを向く。
「アーノォーー……」
「アノォ……」
「あのぉ、これ、違いませんか?」
女の肩をポンと叩いた男。その男が差し出したのは……女が落としたものよりも一回り大きい鍵。
「向こうに落ちてたんで、じゃっ」
そういうと男はそそくさと隣の部屋に入っていった。首を傾げながら、あれが隣人かー、と言葉を残して。
扉を背に腰を抜かしてへたり込む女。その右手には黒いコードが絡まったままであった。